2「顔をなくした彼女は何処へ」
2
五年前、彩華は〈つがいの館〉の調理室にてひとりで焼き菓子か何かをつくっていたところ、足を滑らせ、高温に熱された鉄板に顔の上半分を押し付ける格好となった。叫び声を聞いて一番に駆け付けた俺は、彼女の変わり果てた顔を目にした。彼女は泣いて喚いて取り乱し、以来、感情をほとんど表に出さなくなった。
彼女に与えられたベネチアンマスクは、前使用人の鍋元かやねが使用していたものだと云う。〈つがいの館〉を上から見た形を模した――東西の中庭が左右の目にあたるわけだ――その特別な仮面を、どうしてかやねが被っていたのかは知らない。林基たちでさえ、この使用人の素顔を見たことはなかったそうだけれど、おそらくは森蔵による推理小説的な趣味の一環だったのだろうと思われる。深山幽谷の館に住む一族と仮面の使用人……いかにもそれらしい。だが病死したかやねに代わって使用人となったかしこはその仮面の着用を義務付けられはせず、長らく使用人室に置かれた机の抽斗の中で眠っていたのだ。
俺は適当に入ったファーストフード店で席に座り、マスクをぼんやりと眺めて考える。
なぜ、彩華はこれを置いて行ったのだろうか。顔の火傷痕が人目に晒されるのを最も忌避していたにも拘わらず……これではむしろ、目立ち過ぎるからか? 帽子を目深に被って俯きがちに歩いた方が、注目されないで済む。単にそれだけの理由かも知れない。
事実、条拝由木胎で昨日今日、彩華らしき人物を見掛けたという証言は拾えなかった。まさか真冬の山中で野宿しているなんてことはないだろう。ただでさえ昔から病弱な彼女だ。館を出たなら山を下りて、やはりこの近辺を通ったはずなのだが……。
それにしても、大変だったろうと想像する。携帯電話のない彼女ではタクシーを呼ぶことはできないので、徒歩で下山したのは間違いない。かしこを頼る手もあったはずだけれど、彼女はそうしなかった――かしこが摩訶子へ連絡を取るために既に出てしまっていた可能性もあるが、いずれにせよ、そうまでして館を去りたかったのだ。あんな場所にあんな一族と共にいたくないという気持ちはよく分かるし……きっと、俺のせいでもある。
彼女はもう、家に帰っているのだろうか。電話を掛けてみても留守番電話サービスに接続されてしまって、気付いたなら連絡してほしいとメッセージを残しても一向に返事はない。それが気掛かりだったから、こうして訊き込みをやってみたものの、成果はなし。
摩訶子は、心配しなくても平気だろうと述べていた。
『茶花くんと同じく帰宅したのだと考えるのが妥当さ。彼女には他に行くあても頼る先もない。それとも放浪の旅に出たとでも云うのかい。引きこもりな彼女のことだ。電話に出ないのはおそらく、部屋で塞ぎ込んでいるのだよ。声が出せないのだから、そもそも電話は無視して、留守電も確認しないかも知れない』
加えて今朝、木葉と未春の荷物を検めてみたところ、家の鍵と財布が見つけられなかったらしい。彩華が持ち出したのだと思われる。
『いくら彼女でも、電車の乗り方くらい分かるのではないかな?』
ならば俺は、余計な気を回しているに過ぎないのか。彩華に負い目を感じているから、それを埋め合わせようとして、見掛け上の行動を起こしてみたというだけなのか。『茶花先輩が心配してるのは、彩華ちゃんがいなくなったのは自分のせいなんじゃないかってことです。それって要するに自分の心配です』――夕希はそう云っていた。耳が痛い言葉だ。
不味い珈琲を喉の奥へとひと息に流し込んで、席を立った。
午後三時を回っている。彩華の家へは電車を使って途中で新幹線に乗り換えても四時間以上掛かる。香逗町の方角とはまるきり反対だし、それでは俺が今日中に帰れるか怪しい。家を訪ねるのは断念しよう。
取り越し苦労だったのである。そうに違いない。今は警察が〈つがいの館〉に着いているころで、早ければ今日中に事情を伺うため彩華のもとを訪ねるだろう。もしも彼女が本当に行方不明だった場合は、警察が捜索してくれるはずだ。探偵助手さえ満足に務められなかった俺なぞは、素直に身を引くのが正しい。
どうせ、成るように成る。成るようにしか成らない。非常に癪だけれど、俺もまた林基のような虚無主義の思考に侵食されつつあるかのようだ。まるで一敗地に塗れるかの如く、俺はひとり、帰りの電車に乗ったのだった。
香逗駅の南口改札を通る際、それとはなしに脇の喫茶店を見遣ると、昨日と同じ席に摩訶子が座っていて、こちらに片手を上げた。何食わぬ顔で出てきた彼女に、俺は呆気に取られつつ訊ねる。
「どうして居るんだよ」
「条拝由木胎から此処まで帰るのに、利用する電車は限られている。その時間だけ注意していれば見逃す惧れはない。そういうわけで悠々自適に待っていられたから、気にしないでくれたまえ」
「いや、そういうことではなく……」
「家に帰ってみたのだがね、爺上はいなかったよ。あの人は携帯電話も持ってない。今頃は帰っているかも分からないが、茶花くんと二人で話したいこともあったし、ともかく今晩はお邪魔させてほしいな。不都合かい?」
「まあ……不都合じゃないよ。歩くとそこそこ時間かかるけど、それでいいか?」
「最近は自転車の二人乗りも厳しく取り締まられるらしいね。致し方ない」
奇妙な展開になった。摩訶子がうちに来るなんて、彼女が探偵をやっていると知る前、彼女を根暗な女子としか思っていなかったころの俺には、到底予想しようがなかった未来だ。何が起こるか分からないものである。
しかしながら、自転車を押しつつ彼女と二人で帰路を歩いていると、先刻まで俺の身体を重たくしていた憂鬱がいくらか軽減されていると気付いた。もしかして摩訶子も、ひとりでいるのが嫌でやって来たのだろうか? それは分からないけれど、俺の方はまたあの家――両親がいなくなり、辛うじて残っていた色彩までもがあらかた失われたあの家に、ひとりで帰るよりは格段に良かったと思う。
「彩華について有益な情報は得られたのかい?」
「まったくだ。でも君の云うとおり、普通に帰宅したんだろう」
「それが微妙なところなのだがね、」
「え?」考えが変わったのか?
「足跡だよ。たしかに雪は昨日からぱらぱらと降っていた。しかし彩華が歩いて下山したなら、木々に遮られるなどして、その一部でも残っていないものかと不思議なのだ。今日の私は車中からそれを見つけようとしてみたが、結果は芳しくなかった」
……それは、何を意味するのか。
「じゃあ、彩華はまだ館に?」
「違うな。盗聴器をできるだけ発見して外してくれと頼まれたから、今朝、改めて館の全部屋を回った。私ひとりなので躱された可能性も否定はできないけれど、彼女にそうする理由があるとは考えがたい。したがって私の疑いは、母上が昨日、車に彩華を乗せたのではないかということさ」
「あっ、それを見落としていた……」つまり、かしこが黙っていたというケースを。
「母上は彩華から口止めされていたのだろうか。それとも母上の方に何か思惑があったのだろうか。もしも後者なら、少々厄介と云わざるを得ない。茶花くんは、昨晩に披露した私の推理に〈漏れ〉が存在していたと気付いたかい?」
「申し訳ないが、全然だ」
「彩華の足跡の他にもうひとつ、夕希が利用したと云うタクシーの轍の件がある。私と君が条拝由木胎に着いたころには既に陽は落ちていて、雪も降っており、あの山道にはろくに街灯もない――しかし運転していた母上なら、轍が一往復のぶんだけ増えていると分かったはずなのだよ」
俺はなんて間抜けなのだろう。聞いてみれば、どれも疑問を抱いて当たり前の内容ではないか。
「これに関しても私は今日観察してみたが、残念ながらよく分からなかった。遅くとも昨晩のうちに、戻って確認すべきだったな。下手をすると、私は母上が企んだ犯罪について、全貌を解明できていないのかも知れない。あるいは、夕希の企みか」
「……まだ夕希を、疑っていたんだな」
彼女から返された靴紐を、俺は付け直していない。ただ何となく、恐ろしいのだ。
俺と〈秘密の関係〉を結ぶあの後輩には、あまりにも謎が多すぎる……。
「続きは君の家に着いてから話そう。ところで夕食をつくるだけの食材はあるかな?」
「たぶん……冷凍食品とインスタントくらいなら」
「それは最悪だよ、茶花くん。私が料理してあげる。スーパーマーケットに寄ろうか」
事件の話をしていたかと思えば急に食事の心配。相変わらず先の読めない奴だが……母親の死があっても挫けず思考を進める姿勢は、俺も見習いたい。そう強く思った。




