8「弱くて馬鹿でなんにもなかった」
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自分の客室にて、ソファーに座って、問題の原稿を読む。
最初のページには『渦目摩訶子は明鏡止水~あみだくじの殺人~』というタイトルが記されており、続いて〈つがいの館〉見取り図、益美殺害の現場に残されていた家系図に各人の年齢を書き加えたもの、それから〈1〉の章番号の後、本文が開始される。
『時計の短針がひと回りもしないうちに、益美が殺され、未春が殺され、名草が殺され、菜摘が殺された。
間隙を縫うようにして大胆な犯行を重ねる、この神出鬼没の殺人犯が何者なのか、何を目的としているのか、一切分からないまま、俺ら――山野部家の一族は、食堂に集った。
南北に長いテーブルを囲んで、』…………
読み進めるにつれて俺は大いに空恐ろしい気分となり、思わず何度が顔を上げて、室内を見回してしまった。今も誰かに見られている気がして堪らなかった。
こんなに奇怪なことってあるだろうか。
自分が書いたとしか思えない文章を、しかし書いた憶えなんて一切ないのに、現に実物が此処にあって読んでいるというこの状況。
笑い声も出ない。本当に、悪い冗談だ。
推理作家を目指しているとは云いながら、まだ一作も書いていなかった俺。二の足を踏んでいるうちに、正体不明の何者かによってそれを書かれてしまったらしいじゃないか。
しかもこれは、まるで山野部森蔵が用いていた形式と同様である。本編中には、これも実際にあったやり取りだけれど、秋文による示唆的な台詞さえあった――『摩訶子さんが茶花さんを助手に指名したときに、私は森蔵さんと眞一郎さんのお二人を連想したのですよ。茶花さんは推理作家を目指していると聞きました。では摩訶子さんがこの事件を解決しましたら、それを小説にするのでしょうか?』――それに答える俺――『いえ、そんなつもりは……まったく考えていませんでした……』――そのとおり、まったく考えていなかった。考えていなかった以上の出来事だ。まさか第三者によって実現させられるとは。
摩訶子と俺がかしこの客室を訪れたあたりまで読んだとき、部屋の扉がノックもなしに開かれた。
「どうもぉ、茶花先輩。やっと二人きりになれましたねぇ」
ゾッとした。相手は夕希だというのに――彼女の疑いは晴れているというのに。
だが俺は先程、客室から出る際に摩訶子から注意を受けている。『君と私が戻ってきたことで、この館は再び〈あみだくじの殺人〉から続く状態となった。夕希の動向には気を配っていてくれたまえ』……事件は終わったのではないのか……瑞羽も圭太も倉庫に閉じ込められ、危険は取り除かれたのではないのか……。
「摩訶子はどうしたんだ」
「知りません。部屋にはいませんでしたよ」
夕希は俺の隣に腰掛けた。風呂上がりの熱と水分が間近で伝わる。わずかに上気した彼女の顔はいつになく色っぽく映り、髪型も相まって、いつかの彩華と重なる。
「その髪型、できればやめてほしいな」
「無理ですよぉ。この長さじゃアレンジできませんし、もっと切ったら男の子でしょ?」
「いっときの悪戯のためなんかに切ったお前が悪いだろう」
「えへ。茶花先輩の困った顔が見たかったんですもの。好きな人が困ってる顔ってぇ、いっちばん興奮しますぅ」
大きな瞳を輝かせながら覗き込んでくる夕希。俺は顔を背ける。
「彩華ちゃんのこと、心配ですか?」
「……当たり前だ」
客室の窓から抜け出して、どこかへと消えてしまった彩華。かしこによれば、彼女が最後に姿を見せたのは昨晩、かしこが部屋まで夕食を乗せた盆を持って行ったときらしい。数時間後に伺うと盆は、半分も平らげられていない料理を乗せて、廊下に出されていた。そして今日に至っては、呼び掛けても一向に反応を示さなかったと云う。
彩華の失踪を報せても、林基たちは大した関心を見せなかった。彼女については出て行ったならそれでいい――いてもいなくても違いはないのだから――という考えが態度に滲んでいた。秋文はその身を案じているポーズをとっていたけれども、いまや彼の振る舞いは徹頭徹尾が薄っぺらな、小手先の慈愛に過ぎないと分かる。曲がりなりにも両親であった木葉と未春が死んでしまって、彩華の味方はこの家にいなかった。
俺が、傍にいてやらないといけなかったのだ。『彩華だけは純粋に、茶花お兄様の味方です』と書いた彼女の方にこそ、味方が必要だったのだ。
「それ、嘘ですね。茶花先輩は彩華ちゃんのこと、心配なんてしてないはずですよ」
夕希がしたり顔で述べた。馬鹿な……そんなはずがない。
反論しようとしたが、夕希は顔をずいっと近づけて遮る。
「茶花先輩が心配してるのは、彩華ちゃんがいなくなったのは自分のせいなんじゃないかってことです。それって要するに自分の心配です。彩華ちゃんの失踪自体はどうだっていい。むしろ彩華ちゃんがいなくなってくれたのなら、茶花先輩は安心するでしょ? 自分が責任を負わないといけない厄介な荷物が消えてくれれば最高ですもんねぇ?」
頭をガツンと殴られたような衝撃に、しばしすべての体感が遠のく。
「へへへ……怒らないんですか?」
「……怒ってるよ。云っていいことと悪いことが――」
「借り物の台詞で空っぽの気持ちを埋め合わせようたって無駄ですよ。感情があってから言葉がなくちゃあね。はじめに言葉ありきってのは聖書の文句でしたっけ? そんなの嘘じゃないですか。偽物じゃないですか。ボクには一発で分かりますよ」
夕希は俺の首に、その両腕を回す。蛇のように絡みついてくる。石鹸の香りがする。
「ボクには本当を見せてくださいよ。いいんですよ、ボクなら茶花先輩の本当を愛おしく思える。落胆も失望も軽蔑もしません。彩華ちゃんなんて邪魔なんでしょ? 顔が火傷痕で覆われてる子なんて嫌なんでしょ? しかもあんな変な仮面して」
俺が預かってテーブルの上に置いていたベネチアンマスクを、視線で指す夕希。
事故に遭った彩華に与えられた、顔の上半分を覆える鉄製の仮面。
「なのに彼女自身はいまでもお兄様お兄様と云って慕ってくるんですから、始末が悪いですよねぇ。あーこんなことを考えてしまう俺は最低だーって、後ろめたい気分にさせられますよねぇ。火傷なんてした彼女が悪いのに、どうして俺がこんなに苦しまないと――」
「夕希、」彼女の両肩を掴み、押し退けた。「やめてくれないか」
精一杯、俺は感情を圧し殺している。粗野な振る舞いを封じ込めている。
「茶花先輩、ボクのこと嫌いになっちゃいました?」
夕希は意外にも素直に身を引くと、打って変わって不安そうな表情で首を傾げた。
その仕草に俺は何とも云えず――毒気を抜かれたわけでもないが――冷静にさせられる。彼女がこういう行き過ぎた冗談をやる奴だとは、分かっているのだ。
「嫌いじゃないよ。でも不愉快だ。俺のことはともかく、彩華をそんなふうに……」
そこまで云って、唐突に、俺は先が続けられなくなった。つい先刻の夕希の言が脳内に響いた――『借り物の台詞で空っぽの気持ちを埋め合わせようたって無駄ですよ』『ボクには一発で分かりますよ』――駄目だ、早く進めてしまわないと。
「俺はそんなこと考えてない。どうして――お前は彩華と会ったこともない。俺と彩華のことについて全然知らないだろう? どうしてそんな、邪推を――話せるんだ」
「だって『渦目摩訶子は明鏡止水』を読めば、だいたい察せるじゃありませんか。茶花先輩、まだ途中ですか? それに出てくる茶花先輩の心理描写は、ボクが今云ったみたいなふうに読み取れますよ」
俺はゲンナリして、テーブルの上の原稿を見下ろす。またこいつなのか。
と同時に、正体不明の作者に対する、怒り――ではない――恐れが、悪寒となって背中を駆けていた。ギリギリと、心臓を鷲掴みにされているかのような……。
夕希に気取られぬよう歯を食いしばり、俺は話題を転換させると決めた。
「あの日プラネタリウムで出逢ったとき、お前は既に俺のことを知っていたんじゃないのか」
出来過ぎていると摩訶子は云った。恣意を疑わなければならないと。
あれは偶然ではない。夕希は俺に接触する機会を、前々から窺っていたのでは?
「そうですよ。知ってました」
彼女は悪びれもせず肯定した。
「麻由斗さんから聞いてたんです。摩訶子探偵の助手してますから、お家にお邪魔することよくあるんですよね。したら麻由斗さんが昔、山野部家の専属家庭教師をしてて、いまは娘のかしこさんが使用人として〈つがいの館〉で働いてるんだって。それでこれは偶然ですけど、同じ高校に茶花先輩がいるじゃありませんか。面白い縁って云いますかぁ、運命を感じましてね、えへへ、ああやってお近づきさせてもらったんですよ」
これには拍子抜けするくらい、あっさりと納得させられてしまった。聞いてみれば、そう不自然でもない経緯ではないか。摩訶子と俺がそれぞれ彼女と知り合ったのは同時の出来事でなく、前後関係があったのだから。
「がっかりしちゃいました? あの素敵な出逢いが演出されたものだったなんて」
「いや……実はそれについては、前々から少し疑っていたんだ。お前は俺が山野部家の……山野部森蔵の曾孫だから話し掛けてきたんじゃないかってな」
それが嫌ということではない。そういった例はこれまでにいくつもあった。この姓で生きてきた俺は、常にその色眼鏡で見られ続けてきた。周囲に馴染めず悩んだ時期もあったけれど、いまではもう慣れている。
「ならもっと早く云ってくれたら、違うって教えられましたのにぃ」唇を尖らせる夕希。「ボクは山野部森蔵とか興味ないですもの。推理小説も全然読みませぇん」
「へぇ。ファンなのは沙夜さんだけか」
「あー、あの人は山野部森蔵研究会に入ったりしてますね」
森蔵の研究者でもある史哲が大学生のころに創設した会だ。似たような倶楽部やサークルも多いみたいだが、いずれにせよ、沙夜がそこまで熱心なファンだったとは。
「そんなことより、ちょっと釈明させてくださいよ。茶花先輩との出逢いはたしかにボクが演出したものですけど、それは偽物ってわけじゃないんです。さっきも云いましたとおり、ボクは茶花先輩との縁に運命を確信してます。だから茶花先輩にもそう感じてほしかったっていう、そういうことなんです」
別に構わないのに、夕希は彼女が考える〈本物〉〈偽物〉にこだわりがあるらしい。
「ボクはね、ずっとずっと、ボクの中で持て余してきた愛を本気でぶつけられる相手を探してたんです。プラネタリウムでの出逢いより前から、ボクは茶花先輩を観察していました。本当に惚れてるんですよ、貴方に」
どうして俺なんか……。その疑問を口にするより前に、夕希は俺にぴとりと寄り添う。
「先輩。大好きな先輩。大好きな山野部茶花。ボクはずっと焦がれていました。ずっと独りぼっちで、ボクの中では外に出られない感情がどんどん肥えていって、張り裂けそうで、苦しかったです。自分が産まれてきた理由が、この感情たちを向ける先が分からなくて、死んでしまいそうでした。茶花先輩、ボクには貴方だけです。やっと見つけた好きな人、ボクが命を懸けられる人、たったひとつのボクの寄る辺」
どこまで本気で云っているのか。ときに大事なことをへらへら笑って伝えたり、冗談をしかつめらしく口にしたりする彼女。本物と偽物、本当と嘘などの二項対立を頻繁に持ち出すが、傍から見ている限りは彼女こそ、最も本心が見えづらい。
例によって、俺は翻弄されている。返答に窮している。
「茶花先輩、何も云ってくれないんですね……」
彼女の呟くような言葉にギクリとしたその時、扉が外からノックされた。
這入ってきたのは摩訶子だった。どこで見つけてきたものか、革のボストンバッグを手に提げている。
「やはり紅代ちゃんもいたね。取り込み中だっただろうか」
真面目な顔つきで訊ねてくる。夕希が俺に凭れたまま「構いませんよぉ」と答えた。俺は助かったような、決まりが悪いような、どちらとも云えない心地がした。
「いくつか質問したい。紅代ちゃん、郵送されてきた茶封筒には、小説原稿の他にも何か同封されていなかったかな」
「されてませんでしたよ」
「原稿はそれで全部だろうね? その小説を他人に見せたり話したりしてはいけないとか、読んだらすぐに処分しろとか、そういった旨はどこにも書かれていなかったかい?」
「いませんでしたねぇ」
「隠し事はなしにしてほしい。小説の送り主に心当たりはないのか。それを示唆するような言葉を誰かから聞いていないのか」
「あったら話してますって。ボクは摩訶子探偵の助手なんですから」
「では最近、目安としてはここ三ヵ月の間に、誰かから住所を訊ねられたことは?」
「なかったと思いますけどぉ……忘れてるかも知れませんね」
質問はそこで止んだ。探偵はその場に立ったまま、じっと黙考を始める。
俺は夕希に「摩訶子があんなふうに考え込むのは珍しいこと?」と問うてみた。〈あみだくじの殺人〉においては、彼女は常に底知れない余裕を持って、実に無駄のない端正な探偵ぶりを見せていたからだ。それと比較すれば、今回――夕希を犯人とする推理が誤りだと判明したあたりからだろうか――の彼女はややキレが悪いように感じる。
「そうですねぇ、いつもは明鏡止水ですからねぇ」
言葉の意味を分かっているのか微妙に疑わしい返事をしてから、夕希は時計に目を向けた。
「ご飯まだですかねぇ。ちょっと遅くないですか?」
俺と夕希と摩訶子のためにかしこが簡単な夜食をつくってくれているのだが、たしかにそろそろ呼びに来ても良いはずだ。もう日付が変わろうとしているではないか。
俺は様子を見に行くことにした。夕希がちゃっかり隣に並んで、後ろからは摩訶子も黙したままついて来た。……改めて、なんと面妖な三人組だろうと思う。探偵と助手と臨時の助手。家同士に古くから親交があったり、同じ学校の先輩後輩だったり。
表情に出てしまっていたのか、夕希に「どうしたんですかぁ茶花先輩」と問われて、俺は「何でもないよ」と返した。その声は廊下に、いやに寂しく響いた。
当然のことながら館は静まり返っている。かしこを除いた大人たちは寝ているし、外も吹雪ではないし、ただでさえ石造りの建物は音をあまり通さない。此処にはブランケットを被せられた遺体が五つもあって、倉庫には殺人を犯した夫婦が閉じ込められていたりする……人里離れた山の奥、浮世と隔絶された異空間……。
食堂に来てみても、長テーブルの上に食事の用意はされていなかった。奥右手の扉から調理室へと進む。だが其処にもかしこの姿はないばかりか、奇妙なことに、料理がされている気配もまたなかった。照明さえ点いていなかったのだ。
「うーん、確かに頼んだよな、夜食」
「確かに引き受けてもいましたよね」
すると突然、摩訶子が俺と夕希を追い抜かして、足早に奥の扉へと向かって行く。「どうしたんだ」と訊ねても返事はなく、彼女は廊下へと出て行ってしまう。俺と夕希は二人で顔を見合わせてから、その後を追った。
摩訶子はすぐ斜向かいの使用人室の扉を力強くノックしていた。それから一秒も待たずして開けると、そこで彼女は一瞬、明らかに狼狽えた。後退りかけた足をしかし前へと進め、中に這入って行く。追いついた俺も部屋の中を見て――「えっ」――間抜けな声が洩れた。
床の上にかしこが倒れていた。乱れた髪、蒼白な顔面、見開かれた両目、だらんと垂れた舌。茶色のカーペットを、口から吐き出されたらしい大量の血液が汚していた。
「かしこさん!」
俺は急いで駆け寄る。摩訶子は床に片膝をついて、横たわった母親の首に手を当てている。「死んでいる」と、彼女はひと言、あえてどんな感情も滲ませない低い声で述べた。
身体がガクガクと震え始める。突如として眼前に叩きつけられた、予想だにしていなかった死――油断していた。認識が甘かった。事件は終わっていないかも知れないと、摩訶子は云っていたではないか。これは新たな――殺人か?
わけも分からず、視線を巡らす。死体の傍に転がっている透明な小瓶が目に留まる。砂糖――ではないだろう。零れているその内容物は白色の粉末状結晶。「おそらく砒素だ」と云う摩訶子。小瓶の他にも、わずかに水滴がついているばかりの空のコップが落ちている。
「あーーあ、」
背筋が凍った。戸口に立ってこちらを見下ろす夕希が、これまで聞いたこともない、抑揚というものがまったくない声で云ったのだ。「かわいそ」と、それだけ。
『ごめんなさい、お父様。ごめんなさい、お母様。ごめんなさい、摩訶子。
弱い私には耐えられませんでした。馬鹿な私には耐えられませんでした。
自分の人生がなかった私です。せめて摩訶子は、立派な探偵になってね。』
震える文字でそう書かれた便箋が、テーブルの上に見つかった。
かしこは自殺だった。自ら〈遺書〉を記して、毒を飲んだのだ。
それだけではない。
俺が他の人々を呼びに行こうとした際、摩訶子が残念そうに、
「犯人は母上だった。それもどうやら、私のための犯行だったらしい」と教えてくれた。
事件は新たな局面を迎え――迎えたときには既に終わっていた、ようである。
万華鏡を回したかの如く次々と様相を変化させ続けた混乱の末、俺はついに無重力の宇宙空間へと放り出されてしまったかのような、そんな気分だった。




