6(1)「蝶が飛び去り現れた忌み」
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摩訶子によれば、くじら座となった海獣・ケートスはエチオピア王家の物語に登場する。
女王カシオペアは、娘のアンドロメダ姫が海神ポセイドンに仕えし妖精たちにも勝る美貌だと豪語した。激怒したポセイドンはケートスを差し向け、エチオピアの海岸はこの怪物によって日々荒らされるようになる。怒りを鎮めるにはアンドロメダを生贄に捧げるしかなく、彼女は海岸の岩に鎖で縛り付けられた。だが彼女がいよいよ怪物に喰われようとしたとき、そこに現れたのが英雄ペルセウスである。メドゥーサを退治した帰りに通りかかった彼は、その首を見せることでケートスを石に変え、アンドロメダを救出する。ケートスは海に沈み、アンドロメダは後にペルセウスの妻となった。
英雄が怪物を打ち倒し女性を救い出すというこの筋は神話の定型のひとつとなり、アンドロメダ型神話などとも呼ばれているそうだ。
どうして夕希は、自分を海獣だなんて書いたのだろうか。単に暗号やパズルを成り立たせるためというだけで、意味は籠められていないのだろうか。
――ボクは天から堕ち、バラバラにされた海獣。
――先輩はきっと、このボクを拾い集めて、
――拾い集めて、見つけてくれるでしょう。
彼女は本当に、〈つがいの館〉にいるのだろうか。いるとしたら、なぜ? 彼女はなぜ、こうも手間暇かけてまで、そんな場所で俺に見つけられることを望んだのだろうか。
その答えを知ることは、果たして何をもたらすのか――。
条拝由木胎駅の駐車場で、かしこは車に乗って待っていた。表情から色濃い疲労が見て取れたが、待ちくたびれたというだけではないだろう。いまの山野部家では気の休まるときがないのだ。しかも新たな問題が浮上したとあっては。
「摩訶子……犯人は瑞羽さんではなかったの……?」
後部座席で俺と並んで座る摩訶子は、「その疑いが強くなっています」とだけ答えた。
市街地を離れ、雪が積もる山道へと這入って行く。街灯は絶え、車のライトだけが暗澹たる行く先を照らしている。
ルームミラーには終始、かしこのつらそうな顔が映っていた。
〈つがいの館〉に到着したころには十時を回ってしまった。ぱらぱらと雪が舞う闇の中で、館の平たいシルエットは黒々と沈んでいた。カーテンを閉めきっているらしく、わずかな明かりさえ洩れていなかった。
正門をくぐる際にかしこがチャイムを鳴らしていたため、玄関ホールでは大剣を携えた西洋甲冑――ちょうど中央に置かれているものだ――を背にして、稟音と秋文の二人が俺らを迎えた。無論、快い歓迎ではない。秋文はともかくとして稟音は、たるんだ頬の肉をヒクヒクと動かしながら嫌味を連ねた。
「死体を腐らすのが貴女の仕事? おかげでわたくし達、随分と無駄を食ってしまいましたわ。貴女がミスしなければ、木葉さんも殺されずに済んだのではなくて?」
自分では何もしないくせに、還暦近い老女が高校生に責任を押し付けている。俺は自分が非難されているのと同じくらい不快に感じた。
「摩訶子さん……私達も参らされているのです。もし瑞羽さんが犯人でなかったなら、本当の犯人はまだ息を潜めている。いつ新たな殺人が起きるとも限らない……」
「心配なら、」我慢できずに一歩進み出る。「早く通報すればいいじゃありませんか」
すると稟音が「あっ――」と軽いひきつけを起こした。「貴方はっ――な、何も分かっていないのよ! 黙っていなさいっ!」
「私達の立場というものを、お察しいただけると幸いですね……。私達一族が如何にまずい事情を抱えているのか、茶花さんも既にご存知のはずです……」
秋文はいつになく歯切れが悪い。この人だって、かしことの間に摩訶子ができた経緯を暴露された身なのだ。よく摩訶子とかしこを出迎えになんて来られたものだ。
「実はつい先程も皆で議論していましてね……願わくば通報もせずに事件を闇に葬れはしないものか、考えていたのですよ」
「貴女のせいなんですからね! 掻き乱すだけ掻き乱して――ちゃんとどうにか、してもらいますよ! もう失敗は許されませんから! いいことっ?」
娘を庇うためだろう、かしこがそれに応えて「申し訳ございませんっ……」と頭を下げた。「摩訶子も、よく承知していると思いますっ……」
あまりにも理不尽。俺は歯噛みした――が、当の摩訶子に堪えている様子はなかった。
「私に至らぬ点があったことは認めましょう。責任はしっかりと果たしますので、もうご心配なく。ところで彩華はどこにいますか? 彼女と話がしたいのです」
どうして彩華……。秋文が「自分の部屋にこもりきりですよ。食事も満足にとろうとしません」と答えるや否や、彼女はさっさと歩き出してしまう。助手の俺もついて行かねばならないけれど、その前に、急いで秋文へ質問する。
「今日、誰か此処に訪ねてきませんでしたか」
「来ていませんよ。誰が来ると云うのです?」
かしこと同じ返事だ。そもそも夕希が本当に訪ねてきたところで、部外者が、それもこんな状況下で館に這入ることを許されるわけがない。何なんだもう――俺は苛立ってしまって、摩訶子を追う足音が大きくなった。
東側の廊下に出て少し進んで右に曲がり、扉を三つ通り過ぎて突き当たりの客室。彩華の部屋。その前に摩訶子は立っていた。追いついて「おい、夕希は――」と云い掛けた俺を彼女は人差し指を唇の前で立てて制し――「渦目摩訶子と茶花です」――もう片方の手で扉をノックした。
「……茶花くん、どんな真実でも聞く覚悟を決めてほしい」
その押し殺した声に、俺はどういうわけか、気が張り詰めた。知らぬうちに頷いていた。
ややあって、錠がガチャリと開く音……。どんな真実でも聞く覚悟……。
中に這入ると、こちらに背中を向けた彩華はとぼとぼとベッドへ向かって行くところで、そのままふちの部分に腰掛けた。何も変わっていない……ぽつんとして、寂しそうに俯いて……ただ服装は喪服から灰色のパーカーに着替えられており、オーバーサイズな着こなしが何となく意外に感じられた。
俺が出て行って、この二日間、彼女はどんな気持ちだったのだろう……?
身の置き所がない――そんな俺の隣で、摩訶子は挨拶も抜きに問い掛けた。
「その仮面、脱いでもらえませんか?」
俺はハッとして摩訶子へ振り向く。
何を云っているのだ。さすがに無遠慮が過ぎる。
彩華がマスクを被っているのは、顔の上半分に残った火傷の痕を見られたくないからなんだぞ……?
同じときに館に来ていた摩訶子も、よく知っているはずだ。五年前の可哀想な事故。彩華が発声障害に陥ってしまった原因。もう誰にも顔を……変わり果てた顔を見られたくないという彼女の想い。
だが視界の隅で――信じられない――彩華はこくりと頷くと、翼を開いた蝶でも思わせるそのベネチアンマスクを取り去った。そして現れた相貌――五年振りに見る彼女の素顔――俺は「あっ!」と声をあげる。彩華、彩華だ――火傷の痕なんてまったくない――あの純真無垢で愛らしい彩華の顔が――――いや違う、違うじゃないか、彼女は――
「――夕希っ!」
どうしてお前が、此処にいる?
どうして、彩華のマスクの下から現れるのがお前なんだ?
マスクを片手で振りながら、俺の後輩はへらへらと笑って応えた。
「やっぱり見つけてくれましたねぇ、茶花先輩」
何がどうなっているんだ。答えを求めて俺は再び摩訶子の方へと向き、彼女もまた眉を顰めて――そう、あの渦目摩訶子が当惑している姿に直面する。
何と云うことだ。彼女はいつもの澄んだそれではない、ぎこちない声色で問うた。
「君が、薊夕希なのかい、紅代ちゃん」
疑問符がさらに、わっと増える。紅代とはたしか、摩訶子の助手をしている子ではなかったか。俺のような臨時でなく、本来の助手……しかし、そう云えばそれ以前にも、俺はそんな名前をどこかで聞いた憶えがあるような……。
目には見えない巨大な腕が天から伸びて、ぐるぐると掻き混ぜているのではあるまいか……そんな酔いと共に、この空間そのものが歪められていくように感じる。
夕希ひとりだけが、いかにも平気そうに笑っているのだ。
「そうですよぉ。探偵の助手をやるのに偽名が駄目って法はないでしょお?」
「なるほどね。そういうことかい」得心したように頷く摩訶子。
つまり何だ。夕希は摩訶子とも顔見知り――紅代という名前で、助手をしていた? そんな偶然――偶然じゃ、ない? ならば……。
「犯人は君だね、薊夕希」
摩訶子が云い放った言葉の意味を俺は数瞬間だけ考えて――「待ってくれ!」――口を挟む。「それはおかしいだろ。夕希が此処に来たのは今日なんだから――」
「違うよ茶花くん。彼女は山野部彩華として、はじめから紛れ込んでいたのさ。仮面で顔を隠し、言葉も発さず、なるたけ目立たないよう俯きがちに振舞う――気付かれる心配はない。それらすべては本人の特徴だし、加えてここ数年は普段から部屋にこもりきりの彩華なのだ。長らく会っていなかった人達はもちろん、木葉や未春でさえ、明らかな体格の違いでもない限り分からない。多少の差はこの年齢の娘なのだから成長過程での変化と受け取られるだろう。そもそも彩華の〈見られたくない〉という事情を知る皆は、あえて彼女を注視しないではないか。彼女は髪を切って、あとは大人しくしているだけでこの〈入れ替わりトリック〉を成立させられた」
唖然として、夕希を見る。特徴的だったツインテールをやめ、昔からの彩華と同じおかっぱ頭に変えた彼女。俺がさっきのひと刹那、彼女を彩華と思ってしまったのも無理はない。髪型が揃ったことでやっと気付いたけれど、二人はどこか似ていたのだ。夕希を初めて間近で見たときに、ふと誰かに似ていると思ったことを想起した。
年齢だってひとつ異なるだけ。俺はもう五年も彩華と会っていなかった。目元を隠した夕希が彩華として振舞ったなら、この俺とて、それを見破れずともおかしくない――?
「でも……沙夜さんは昨日の夜まで、夕希は家にいたと云ってたんだ。そうだよ、夕希が此処にいたんじゃ、落書き事件や書き置きはどうなる」
「薊沙夜は夕希の味方だ。証言は嘘で、落書きは彼女がやったのだろう。書き置きを偽造して君のもとへ行き、謎を解かせて夕希を迎えに行かせるつもりだったのだと思われる。君の家を張っていて、夕希はまだなのに君だけ先に帰ってきてしまったと気付いた。無論、彼女は夕希が〈つがいの館〉にいるのを知っていた――もっとも其処で何をしたのかまでは知らないだろうな。そうでなければ、これは明らかに余計なことだ。夕希が此処にいると知られるのは、夕希の立場を不利にする。現にこうして、私に追い詰められてしまった」
「……あー……そいつはつまり、」
必死で頭を働かす。汗がだらだら流れ始めて、喉がカラカラに乾く。
「沙夜さんは、これを単なる悪戯だと思っていて……そのままネタばらしするのは躊躇われたから、こんな回りくどい手口を使ったのか……? 夕希の意を汲むつもりで、実は夕希の犯罪を看破するヒントを与えてしまったという……」
全然、言葉が実感を伴わない。単に空気を吐き出しているだけみたいな気持ちだ。
こんな話――あるわけがない!
しかし摩訶子は「そうだ」と肯定する。真相がひっくり返される。
「夕希扮する彩華にはすべての犯行が可能だったことを思い出したまえ。むしろ割かし冒険度の高かった未春殺害は、娘であり、かつ隣室の彼女なら極めて安全に行えた。寝ているか起きているか分からない菜摘を殺しに行くにあたっても、義妹――実際は実妹だが――彩華であれば警戒される謂れはない。第一、皆が弱者と侮っていた彼女が連続殺人鬼だなんて誰が疑う? ゆえに彼女こそ、最も犯人に相応しかったのだ」
夕希は両の膝から下をぷらんぷらんと交互に揺らしつつ、楽しそうに聞いている。追い詰められた焦りみたいなものは見られない。俺が知る彼女そのものだ。
「どうして……」と俺は訊ねる。「母さんと違って、お前には山野部家の人間を殺す動機なんてないだろ……」
「えへへ。だけど茶花先輩、これで分かりましたでしょ?」
「……何をだ」
「家族なんてどれもゴミなんですってば。〈あみだくじの殺人〉はそれを露呈させるに打ってつけの方法でしたね。ああいう事件が起きれば、この家の汚くて気持ち悪い部分を摩訶子探偵が暴いてくれるのは必定ですもの」
あっけらかんとして語る夕希。こちらの感情をわざと逆撫でするような云い回しもまた、いつもどおりの彼女。摩訶子は「私のことも操っていたのだね、紅代」と、助手としての名前で呼ぶ。無邪気な真犯人は「へへへぇ」と、褒められでもしたみたいに笑う。
「いくら外面を取り繕ったって、みんなヘド以下の人間であることに変わりはないんですよ。それがぐちゃぐちゃくっ付き合った〈家族〉という集合体は、もう醜くて醜くて敵わないじゃないですか。そんな虚栄も嘘も欺瞞も――茶花先輩には必要ありません。清々したでしょお? これでボクと同じ身軽な身体。自分の生を生きることができます」
何だそれ。じゃあ、全部、俺のためだったと云うのか? 俺にこの家の秘密を見せつけ、俺をこの家から解放するために、夕希はこんな悪夢の如き惨劇を――?
俺は後ずさりかけて、思い直す。慄いてはならない。臆してはならない。相手は夕希なのだ。俺は夕希へ向かう。ツカツカツカツカと夕希へ向かって行く。
「お前は――」
勢いそのままに彼女の小さな肩を掴もうとしたところで、
「あ。でも勘違いしないでください」
夕希は大きな瞳で俺を見上げ、両の掌をぱっと開いて見せた。
「ボク、誰も殺してませんから」




