先を見る魔法使い
お立ち寄り下さりありがとうございます。最終話です。完結することができました。
フィアスの北東には深い森が広がっている。
その森の中にあって、しかし森の中ではない静謐な空間に、エルフはただ一人身じろぎもせず水面を見つめていた。
森を思わせる黒に近い新緑の瞳は瞬きする時間を惜しみ、水面が映し出す景色を余さず写し取っていた。
一台の馬車が沿道に並ぶ民衆の熱狂的な歓声を浴びながら、ゆっくりと進んでいる。
馬車からは、爽やかな、そして温もりを感じさせる笑顔の男が、よく似た面立ちの幼子にペタリと抱き着かれながらも、心を込めて手を振っている。男の傍らには、強い意志を瞳に乗せながら満面の笑みを浮かべる女性が寄り添い、情熱的に手を振り返していた。
エルフの口から言葉が漏れた。
「お帰り。フィアスの救い主」
成人を前にして国を離れた彼は、とうとう国に戻る日を迎えたのだ。
今より15年前。
人質になることを逃れるため、成人前に国を離れることになった彼は、宰相を務める父の立場から国の背負った債務がなくなるまで国に戻ることができなくなってしまった。
それでも、庇護を受けた隣国での生活において、彼の澄んだ魂が曇ることはなかった。
出会いを積み重ね、彼の、ひいては国の運命を動かす技術との出会いを果たしたのだ。
彼は、国の存立の危機を招いた植物の病に対処する技術を広め、国に眠っていた宝を見出し各国に販売する道を切り開き、国の立て直しに国の外から尽力してきた。
その尽力と国民の努力が実を結び、ついに国は債務を完済することができたのだ。
彼の帰国はフィアス復興の象徴だった。その意味でも国民は熱狂して彼を出迎えているのだ。
その熱は人に止まらなかった。
多くの物事を見守り、生を見送り、もはや物事に心を動かされることなど無くなったと思っていた彼女は、数百年ぶりの自分の涙で、それが間違いであったことに気づかされた。
「こんな日ぐらい、外で直接確かめればよいだろう」
彼女の結界など存在しないかのように、銀の光と共にこの世の美をその身に集めたような男が、辺りを清めながら空間に現れた。
彼女は溜息を吐く。
そもそも今の自分の結界では、彼には結界と捉えられていないかもしれない。
「久しいな。<先を見る者>」
彼とは優に千年ぶりの再会だが、彼の挨拶は淡々としたものだった。
千年前と変わらない彼に頷きを返しながら、思わず彼の背後に未練がましく視線をやってしまう。
「<癒す者>は、まだそなたのことを思い出してはいない。だからここには連れてこなかった」
俯きそうになる頭を、何とか頷くだけに止める。
確かに今日の予知では、訪れる者は彼しか見えていなかった。
しかし今の自分なら単に見えていなかっただけではないかと、期待したことが間違っていたのだ。
「それにしても、よくこの日を予知できたな。私にはあのような弱い可能性を見ることは出来なかっただろう。さすが<先を見る者>だ」
彼女は微かに首を振った。
「この日を見ることが出来たのではない」
あの日、処刑される者の心の平安のために、国の存続の可能性を必死に探った。
見える未来は、長きにわたって見守り続けた国の惨状ばかりだった。
それでも諦められなかった。王弟のためだけではなく、見守り続けた国への愛着だったのかもしれない。
人と交わらないエルフの掟を守り、国の惨状を見つめ続けた彼女は、傍観者でいることに限界が来ていた。
エルフの掟を超えて、自分の力を超えて探っていることは、その身をもって分かっていたが、どうしても救いを見出したかった。彼女は力を使い続けた。
もう力も命もこのまま尽きるのかと思われた瞬間、魂に陽だまりを持つ男の爽やかな笑顔がほんの一瞬現れたのだ。見えたものはその笑顔だけだった。
このままでは、あの可能性すら消えてしまうかもしれない。
その思いが過った刹那、彼女は命を燃やして力に変え、その存在の前に転移していた。
そして、彼女はエルフの掟を破り、澄んだ眼差しを持つ幼気な子どもに定めを負わせたのだ。
「彼は私を恨んでいるだろうか」
<清き者>は眉を顰めた。
「愚かなことを。あの者は私の友だ。その魂に陽だまりを持つ者だ。いかなる存在も、定めも、その魂を曇らせることなどできはしない」
そうかもしれない。しかし、定めがなかった彼の人生は今と違っていたことも確かだ。
彼女は瞳を閉じて力をかき集め、これからの彼の人生の平安を祈った。
<清き者>が微かに溜息を吐いた。
「人の世で暮らしてみてはどうだ?」
「え?」
あまりに理から離れた提案に、彼女は問い返していた。
紫の混じった濃い青の瞳が、何もかも見通すように彼女を見つめた。
「そなたに残された力も、残された生も、もはや力の強い魔法使いとさほど変わりはない。エルフの力を失ったそなたが、エルフの掟を守る必要はもはやないのだ」
――掟を守る必要がない
それは、千年を超える生を歩んできた彼女の胸を衝く言葉だった。
瞠目する彼女の傍で、彼は片手を上げ、銀の光の玉を浮かべ、踝までの長さがあると思われる紫のマントを取り出した。
「この国は復興を人の手で成し遂げた。私の友の定めも成就した。つまり、そなたは今日より自由だ。残りの時間は思うままに過ごせばいいのだ」
かつてエルフたちの思慕を集めた存在は、彼女にマントを羽織らせながら、彼女の身体に沁み込む声で自由を告げる。
「そなたが見守り続けた人の世界は色鮮やかだぞ。そなた、バタタス酒は試したことはあるか?」
彼女は首を振った。
水面でこの国で造られたそのお酒が各国で楽しまれているのを目にしてから、試してみたいと思っていたのだ。
彼はその美貌を笑顔で際立たせながら、言葉を紡いだ。
「ならば、私の友に会いに行こう。そなたの口に合う最高のバタタス酒を用意してくれるはずだ」
彼女の顔に数百年ぶりの輝きが灯るのを見つめながら、彼は手を差し出した。
「さあ、まずは彼を出迎えに行こう」
この国を見守り続けた彼女は、彼の手を取り、人の世へ転移した。
お読み下さりありがとうございました。
お立ち寄り下さった方、ブックマークを付けて下さった方、評価を下さった方、全ての方に感謝申し上げます。
ありがとうございました。
今回は体調管理が悪く、不定期投稿となり、もう完結できないのではないかと不安に思っておりました。
お立ち寄り下さる皆様がいらっしゃらなければ、完結できませんでした。断言できます。
本当にありがとうございました。
全ての皆様への感謝の気持ちに代えまして、皆様のご健勝を心よりお祈り申し上げます。




