吟遊詩人の微笑み
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「フェリペ、花見をしよう」
月が明るい晩、爽やかな笑顔と心地よい声で、チャーリー様が誘ってくれた。
手には、酒瓶が握られている。嬉しい誘いだ。
連れられた先は、温室だった。初めて足を踏み入れるその場所は、様々な香りと時を忘れさせる美しい花で満ちていた。
静けさが漂う温室の奥まった場所に、先客が2名いた。
確か、庭師であるマイクと彼の弟子のマシューだ。二人からは溢れるような喜びが顔に浮かんでいた。
その喜びの原因は、次の瞬間分かった。
息も、時間も全てが失われた。
二人の背後には、神の存在を感じるような静謐な美と、欲を掻き立てるような艶めかしい美を併せ持った、薄紫の花が咲き誇っていた。
奇跡のような花にどれほど魂を奪われていたのだろう。
そっと声をかけられた。
「もう少し、近くで見てあげよう。花も喜ぶと思うよ」
チャーリー様が目元を緩ませ、勧めてくれた。
「畏れ多い、そんな気がしますね」
美の呪縛から解け、世界が戻ってきたが、やはり声を潜ませてしまう。チャーリー様は優しく笑いながら、酒瓶を差し出した。
「少し解れるのもいいんじゃないのかな」
天才剣士に相応しい見惚れるほどの鍛えた体を持ちながら、身に纏う雰囲気は陽だまりのような、この御仁は、酒に頼らずとも人を解れさせる。
思わず笑いながら、酒を片手に奇跡の美を味わった。
30年に一度しか咲かないこの花をこんな近くで存分に愛でられたのは、僥倖だ。
しかし、庭師にとっては苦いものがあっただろう。
殿下の暗殺計画のために人の動きは制限され、この美はごくわずかな人数にしか感激を与えていないのだ。
そんな思いにとらわれた時、チャーリー様が、何やら紙を取り出した。
「マイク。本物の美には程遠いけれど、思い出すための縁にしてくれると嬉しい」
紙を見たマイクは瞠目し、涙を零した。
そこには、精緻な筆遣いで、奇跡の美が写し取られていたのだ。
一緒に眺めたマシューも涙ぐんでいる。
チャーリー様は、マシューにも、そして私にまでも花の絵をくれた。
「フェリペ、いつか、この花の曲を作ってくれないかい?」
彼は絵を差し出しながら、爽やかな笑顔でさらりと頼んでくる。この穏やかな頼みを断れるものはかなりの強者だろう。
――「いつか」――、その言葉に、心遣いを感じゆっくりと目を閉じた。
自分も美に打たれた瞬間から、旋律を掴もうとしていた。
けれど、この美を表現できるものが掴めなかったのだ。
どの旋律も、欠片もこの花を表しているように思えなかった。この花に動かされた心の動きすら、旋律に表すには満足できないものだった。
きっと、一生をかけた仕事になる。
全てを見透かすように、この御仁は言葉を続けた。
「完成でなくてもいい。その時々の曲を聴かせてくれればうれしいよ」
ようやく澄んだ瞳を見つめ返し、頷くことが出来た。
「ええ、チャーリー様、その際は、ぜひとも聴いてください」
庭師の顔に明かりが灯り、チャーリー様はさらに眼差しを和らげた。彼のための依頼だったのだろう。歌になれば、間接的に多くの人に奇跡の美を広めることが出来るのだから。
一生の課題への気持ちを一先ず押しやり、酒に口を付けてみた。驚きが体を走り抜けた。
「これは、また…」
お酒とは思えない果物のような香りだけでなく、口当たりも円やかで、適度な甘みがある。
実に飲みやすいお酒だった。
「一体、これは何のお酒なのですか?」
とてつもなく高価なお酒を口にしたのだろうか。
チャーリー様はクスリと笑った。
「僕がバタタスから造ったお酒だよ。この国では造られていないようだね」
「バタタスに食べる以外の用途があったとは、驚きです」
ありふれた、一般の家庭でも食卓に出る作物から、これほどのお酒が造られるとは、一瞬信じられない事実だ。
「この公爵家では評判がいいけれど、色々な場所を回る君にも喜んでもらえて嬉しいよ」
「素晴らしい味わいです。私で買えるものなら、樽ごとあるだけ買うでしょう」
心からの賛辞に、こちらの気持ちまで温かくするような彼の笑顔がこぼれ出た。微かに自分の口の端が上がる。
不思議な御仁だ。
公爵の遠縁で公爵嫡男の護衛を務めるという彼だったが、アメリア様や執事の態度からすると、恐らく高貴な血筋なのだと思われた。先ほどのバタタス酒の発言を聞く限り、この国の出自ではないようだ。少なくとも自分でお酒を造るような血筋ではないはずだ。
――そう、広場で歌を歌う血筋でもないはずだ
笑いが漏れそうになり、慌ててバタタス酒の香りを味わった。
この御仁は全く気が付いていないが、あの歌があそこまで流行したのは、精悍な体つきの美丈夫な彼が歌っていたことも原因なのだ。
普段、爽やかな笑顔で隠されているが、彼は客商売の自分が羨望を抱く端正な容貌だ。
広場に集まった観衆の大半は女性だった。皆、彼の切ない恋の歌に、美しくしかも男らしい彼に恋された自分を想像して、一層歌にはまり込んでいたのだ。
「そういえば、シャーリー嬢は連日広場に足を運んでくれましたね」
姿勢の美しい、凛とした雰囲気のチャーリー様のお知り合いは、初日以来、ずっと彼の声を聴きに来ていた。
熱い眼差しを隠すこともなく耳を傾けていたが、この御仁ときたら、全く、感じ取っていない。あの眼差しを分からないとは、彼の勘は全て剣に回っているのだろうか。
今度は溜息が漏れそうになり、バタタス酒を味わった。
素晴らしい。いくらでも飲み進めることが出来る。ぜひとも、この美酒をまた味わいたいものだ。
「ああ、シャーリーね…」
おや?
チャーリー様の声の響きは、いつもより柔らかなものだった。
声につられて彼を見つめた。伏し目がちにお酒の盃を見ている彼の顔には、いつもの穏やかさと優しさだけでなく、楽しむような、見間違いでなければ愛しむような艶が微かにある。
この表情は――
数々の恋の話を集め、歌い上げてきた自分の勘が告げている。
残念だ。彼が恋に囚われる瞬間に立ち会いたかった。
自分はあと少し経てばアメリア様のご友人の屋敷に逗留することになっている。恐らくチャーリー様の恋が動き出す瞬間には間に合わない。
何とか逗留を短く終わらせ、戻ってくることにしよう。
囚われる瞬間には間に合わないが、恋が成就した彼の幸せな時間を見ることはできるだろう。
決意を秘め、盃を掲げた。
「こちらに戻りましたら、また、バタタス酒を飲ませて下さい」
「もちろんだよ。また飲もう」
恋を知らない温かな笑顔を眺め、美酒を飲み干し、心の中で付け加えた。
――その時の酒の肴は、貴方の恋の話とさせてもらいますよ、チャーリー様
お読み下さりありがとうございました。体調管理に失敗しております。5月完結、焦っております。




