転機の前日
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屋敷の中は落ち着きがなかった。
屋敷の皆が、気が付けばあちこちで話し合うことを止められなかった。
シルヴィア嬢が殿下から誓いの印を贈られ、シルヴィア嬢はセディに誓いの印を贈ったという噂が王都を駆け巡っているのだ。
屋敷の混乱ぶりは、シルヴィア嬢の卒業のときと変わらない程だった。
「誓いの印」は、魔法使いが思う相手に愛を誓い、相手の身体に口づけ、口づけた場所から相手に一生自分の魔力を送り続けるものだ。
魔法使いにとって、印を交換することは婚姻を意味する。
つまり、シルヴィア嬢は殿下に求婚され、セディはシルヴィア嬢に求婚されたのだ。
噂を耳にして、情けないことだが剣の練習に身が入らなかった。
どうしても天使たちのことが頭を離れず、とうとう練習を中断し、バタタスの葉を見るともなく見ていた。
レスリー殿の屋敷には、殿下の暗殺が予知されてから、シルヴィア嬢を殿下の婚約者に推す貴族が詰めかけている。殿下が求愛をした事実は、彼らを勢いづかせてしまうだろう。
シルヴィア嬢がセディに印を贈っていたことが、何とかその動きに抗う要素になっているものの、とても安心できるものではない。
セディの様子が心配だった。
最近は、彼は城に泊まり込み、屋敷に戻ることはなくなり、様子が分からない。
彼はこの事実をどう受け止めているのだろう。
自分の片割れの天使の気持ちを受け止めることはできただろうか。恐らく彼女は何の心の準備もなく殿下から印を受け、追い詰められていたはずだ。
彼女の切実な気持ちを汲み取ってあげて欲しかった。
城に行けずセディに何一つ言葉を掛けられない自分が、傍にいられない自分がもどかしかった。
滅入り始めた気持ちを振り切りたかった。
ふと、空の青でも海の青でもない瞳が頭に浮かんだ。
シャーリーはこの事態にどう向き合っているのだろう。
クスリと笑いがこみ上げた。
彼女なら、「夜這いです」とシルヴィア嬢に進言しているかもしれない。
しかし、カエルになぜあそこまでこだわるのだろう。今度、会ったときは聞いてみたい。それに、先日の別れ際の…、いや、あれは事故だったのだろう。きっとそうだ。
天使たちのことから思考が離れ、気持ちが幾分軽くなり、バタタスの葉に集中できた。
少し葉の色が薄くなった個所がある。収穫は明日にしよう。
今日は、この後、来客の予定があった。お風呂に入り、服を着替える時間はない。
「そろそろ収穫か」
いつものように背後でマイクが声をかけてきた。
「ああ、そのつもりだ。明日、収穫しようと思う」
振り返って、マイクの顔を見て僕は目を瞠った。普段はあまり表情を見せることがない彼が、複雑な表情を浮かべている。疲れと興奮、だろうか。
「どうしたんだい?」
彼は髪を乱暴にかき乱した。
「そろそろ、フロリマチの花が咲きそうなんだ。気になって眠れないから、温室に泊まり込んでいるんだ」
「ああ、いよいよ」
彼の状態に納得した。
フロリマチはウィンデリア固有の花で、僕はこの屋敷に来るまで名前すら知らなかった。固有というだけでなく、非常に希少な花で、マイクによると王都ではこの公爵家の温室でしか育てられていないそうだ。ウィンデリア全土でも、野生での生育は見られなくなってしまったらしい。
30年に1度しか花を咲かせない性質で、マイクも10歳の時に、先代の庭師に開花に立ち会わせてもらったそうだ。
薄紫の花が一か月間ほど咲くという。
「どれだけ見ても足りないと思えるほど、美しい花なんだ」
「開花したら、僕にも見せてくれるかい?」
「もちろんだ。本来なら、旦那様たちだけでなく、屋敷の皆も、そして、一般にも公開するのだが」
マイクの表情と声が曇ってしまった。
「ああ」
かける言葉を失ってしまった。
公にはされていないが、殿下の暗殺を目論む集団がとうとう王都に入ったらしい。普段の倍ほどの近衛が街を警戒している。近衛だけでなく、魔法使いまで警戒に出ている。
王都は否が応でも緊張に包まれていた。
一般への公開は、警備上、不可能だろう。
30年に1度の機会がみすみす失われてしまうのだ。手塩にかけた美しい花を大勢の人に愛でてもらいたかっただろうに、こんな事態のためにそれが失われてしまったマイクの心情は察するに余りあった。
僕はそっと彼の肩に手を置いた。
「開花したら、花の傍で祝杯を上げよう」
マイクはゆっくりと表情を穏やかなものにした。
「ありがとう。まずは、無事に開花させることに集中する」
それから、マイクは僕を温室まで連れて行ってくれて、僅かに膨らんだ蕾の横でフロリマチの繊細な性質を熱く語り始めた。
30年に1度の大仕事を前に、緊張が高まっているのだろう。
彼がこれほど雄弁に語るのは初めてだった。
30年に1度しか咲かないためか、ウィンデリアで大昔、それこそ建国当初、どの植物にも流行していた病気に非常に弱いらしい。
「他の植物は抵抗を付け、病気にはかからなくなったのだが、このフロリマチはまだ抵抗が付いていないようだ」
「一体、どうやってその病気から今まで守ってきたんだい?」
「対処法が見つかっているんだ。もしくは、フロリマチもそうやって抵抗を身に着けたといえるのかもしれない。
フロリマチを育てる者は、代々、その病気の対処法を伝授される。昔はフロリマチを育てていない者も知っていたらしいが、他の植物が抵抗を付けるにつれて、忘れ去られたようだ。
もう知っている者は私を含めても3人しかいない」
マイクの表情がまた陰ってしまった。
「一人は高齢で弟子もいないそうだ。私の弟子もまだ10歳だ。私も10歳のときに伝授され技を受け継ぎ、条件は同じだが、次の開花の時期に弟子が庭師となっているか、そもそも生きているか保証はない」
30年。確かに長い期間だ。今まで受け継がれてきたのが、幸運だったのかもしれない。
3人しか持たない技の継承が保証されない状況では、マイクの心労も大変なものがあるだろう。
「方法をできるだけ詳しく紙に記しておけばいいのではないかい?」
マイクが眉を下げて、僕を見た。
「私は字が書けない。他の庭師もそうだ。それに言葉だけでなく、実物を見せないと分かりにくいと思う」
「僕が書くよ。一言も余さず書き取ろう。僕は植物の絵を描くのも慣れている。任せてくれ」
ベインズにいた時、父と作物を見て回り、記録を取っていた。勢い込んでマイクに申し出ると、彼の顔は輝いた。その輝きは僕の気持ちまで明るいものにしてくれるものだった。
マイクのお陰で完全に気持ちの切り替えが出来た僕は、屋敷に戻った。
来客の約束の時間が近づいていたのだ。
服を改めながら、幾分、緊張のようなものを覚えていた。今日のお客の意図が読めないためだ。昨日、急に訪問を申し込まれたのだ。
一体、何があったのだろう。今の彼に、職場を離れる余裕はないはずだ。その状況でも、訪問を申し込まれたことに、只ならぬものを感じる。
身だしなみを確認しているとき、セバスチャンの声がドア越しにかけられた。
「チャーリー様。クラーク伯爵のご嫡男、リッチー様がお見えです」
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