61.夏雲奇峰
登場人物:長兄、奥方
しつこくまとわりつく面倒な夫君のいないある昼下がり。女は磨き上げられた屋敷の中で、静かにお茶を楽しんでいた。ああ、ひとりはいい。可能であればこのまま一月ばかり、夫君には遠駆けに出て行ってもらいたいものだ。もちろん、そんな願いが叶うわけもなく。
「おお、今帰ったぞ!」
どたどたと足音を立てながら帰ってきた夫君の声によって、奥方のわずかばかり浮かんでいた微笑みはたちまち無へと変わる。そしてその顔は、緩やかに朱に染まっていくのだ。主に無神経な夫君への怒りによって。
男の足元からぽたぽたと泥水が滴り落ちている。それが玄関からこの部屋まで続いているのかと思うと、女はげんなりした。何より、この男、全身が生臭い。少しばかり遠駆けに出掛けてこの有り様とは。汗臭いならまだしも、どうしてこんなことになるのか。川で着物ごと水浴びするほど己の夫は阿呆ではないはずだ、多分。
そのまま勢いよく抱きつかれそうになったのを、女は片手……ではなく片脚で制した。一緒に生臭くなってたまるものか。しっしと犬でも追い払うように、男を追いやる。
「臭いわ。離れてくださる?」
「みやげにしようと思ってな。どうだ、とれたての小龙虾だぞ!」
はっきりと己を拒んだ奥方の表情など気にもせず、男は嬉々として話しかけてくる。男の顔についているのは眼ではなく、ただの穴だったのか。女はうんざりして天を仰いだ。ああ、遠くに見える入道雲と一緒にどこか遠くへ行ってしまいたい。
男が袂から取り出したのは、大量の小龙虾。それらが威嚇するかのように、はさみを振り上げていた。泥臭い小龙虾が次から次に出てくる。しかもそれを奥方に見せびらかしつつ、持ちきれない分を床に置いたものだから、それぞれがてんでばらばらの方向へと脱走を図っている模様だ。
夏の風物詩である小龙虾は美味である。辛味をきかせてじゅっと油で炒めた熱々の小龙虾に勝る酒の肴はない。それは事実だ。しかし、である。
綺麗に磨き上げた屋敷内をうろうろする小龙虾。
話を聞かない夫君。
ぽたぽたと滴り落ちる泥水。
まったく話が通じない夫君。
床に染み出した泥水。
何度突き返しても、こちらへ渡される小龙虾。
これらすべてに腹が立つのもまた、事実。女心はなにぶん複雑なのである。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。
しゃきん、しゃきん。
つぶらな瞳で奥方を見上げながら、はさみを振り上げる小龙虾が、三度奥方の顔に近づき……。
「だから、それをこちらに近づけるなと言っているのよ!」
奥方は耐えきれずに、そのまま夫君を突き放した。軽やかに回し蹴りが決まったというのに、夫君が晴れやかな笑顔を浮かべているのはなぜであろうか。
その数日後、着物が汚れるのがいけないのならと、下履きのみで小龙虾取りにいそしみ、恭しく奥方に戦利品を捧げた挙句、裏庭の木に吊るされている男が見られたという。
中国全土でザリガニを食べるのがブームになったのは、近年のことです。
かつてザリガニ食がこれほど一般的であったかは不明ですが、あくまでファンタジーですのでふんわり雰囲気をお楽しみください。
なお、野生のザリガニは寄生虫が多く大変危険です。中国などザリガニを食用とする国でも、養殖ザリガニを食べています。野生のザリガニは決して調理しないでください。(寄生虫による重篤な事故が多発しています)




