60.春和景明
登場人物:雨仔、香梅
時間軸:「梅の芳香、雨の音色」終了後
せっかくだから城の庭を見に来ないか。雨仔がそう奥方を誘ってみたのは、麗らかなとある春の日のことだった。
もちろん、男の願いは一笑にふされる。日に焼けるから嫌。香梅からそんな端的なあしらいをうけて、やはり自分には回りくどい誘い文句は似合わないと思った。男ははっきりと用件を告げる。
「ですが今日は、踏青節でしょう?」
だから野掛けに出たいのだと伝えれば、女はあからさまに顔をしかめた。その顔が予想通りのしかめっ面で、思わず男は笑い出しそうになる。奥方の返答なぞ初めからわかっていたから、遠出ではなく城の庭を落としどころとして提案したつもりだったのだが、やはりお気に召さなかったらしい。男につんと背を向け、女はぽつりと呟いた。
「……別に感謝を捧げたい先祖などいやしないわ」
踏青節は、同時に清明節だ。先祖の墓を清め、亡くなった家族があの世で暮らしに困らないように願う日。食べ物や酒を供えようにも、雨仔と香梅の家族の墓はこの国にはない。そもそも家族に売られた女からしてみれば、どこか複雑な想いが残っているに違いないのだ。
それでも、男は女の家族たちに感謝を伝えたかった。女に出会わなければ、男は今でも自分が生まれ出たことを負い目に感じていただろうから。香梅がこの世に生まれて来てくれた、それは先祖代々の営みがあってこそだ。
「庭の木蓮を見るだけですよ。寒かったせいでしょうか、ちょうど今が見頃なのです」
清明節ではなく、今日はあくまで踏青節。珍しく男が言い募れば、困ったように女が眉を寄せた。なんだかんだで男に甘い奥方は、渋々ながらも西国の城にともに来てくれるだろう。春は和らぎ、景は明らかなり。木蓮を見ながら、ともに過ごす時間を思い、西国の若き宰相殿は口元を緩ませた。
西国でほころぶ木蓮。今頃同じ花が、東国でも見頃を迎えているだろう。木蓮の香りはその花の見えない場所にまで良く届く。きっと男の祈りも、東国の木蓮のもとまで、運んでくれるに違いない。




