52.雨霖鈴曲
登場人物:妓楼の主人
雨が降っている。
昼下がり、客のいない店の中は物音ひとつしない。
しとしとと柔らかに滴り落ちる雨音は、どこかひどく懐かしい。楼主はぼんやりと薄明るい部屋の中で、煙管をくゆらせた。揺れる紫煙の向こう側、自分に抱きついたまま眠りこけるのは、肩を剥き出しにしたままの可愛い恋人。上下する胸元が腕に当たり、また少しばかり身体が疼く。
開け放たれた窓からふわりと漂う梅の実の甘い香りに、楼主は夏の訪れが近いことを知る。風の揺らぎを楽しんでいれば、腰にまとわりついていた温もりが身じろぎするのを感じた。風が冷たかったか。薄物をかけてやりつつ、すうすうと寝息を立てる恋人の髪を、楼主はひとふさ持ち上げる。さらりとした手触りは、あの頃と何ひとつ変わっていない。その輝きも記憶にある通りきっと美しいまま。
離れて暮らしていた月日を埋めるかのように抱き合ってもまだ足りない。触れ合える距離にいると言うのに、欲しくてたまらなくなるのは何故なのか。満たされることなく飢えたままの自分は、まるで悪い薬に溺れたかのよう。いっそぐずぐずとひとつに溶けてしまえばよいのに。
穏やかに眠る愛しい恋人。その顔をそっとなぞってみれば、幸せそうな憂いのない表情をしている。思い立って、細い首に手をかけてみた。少しだけ力を込めてみれば、苦しそうな呻き声が聞こえる。盲ていても、恋人の眉根が寄せられているのだろうことがよくわかった。その癖振り払うこともせずに、眠りこけたままだ。危機感がないのか、人を信用しすぎているのか。あるいは、自分になら殺されてもよいと思っているのか。甘く、愚かな、愛しい恋人。
両手を離せば、深く息を吸った後にまたもぞもぞと滑らかな肢体が男にまとわりついてきた。信頼しきったその仕草に、男はくつくつと喉を鳴らす。
雨が降っている。
りんと、何処かで鈴の音が聞こえた気がした。




