47.雨露霜雪
登場人物:香梅、雨仔
夜半目を覚ますと、隣にいるはずの雨仔の姿がなかった。
いつもは人肌が恋しいとばかりに香梅を抱きしめる男が、自分の隣を空けるとは珍しい。女が首を傾げながら寝台から起き上がれば、ひやりとした寒さにその身が震えた。どうやら庭へ続く扉がほんの少しだけ開いているらしい。
しとしとと氷雨が降りしきる庭で、薄物の着物を着た男がその身を横たえていた。どんな顔をしているのかうかがい知れない。北方の出身であったという男の母の血を色濃く引いたのか、男の肌はもともと肌理細かい。それがこの寒さで青白くなっている。もしや倒れたのかと思い、女が飛び出そうとすれば、物音に気がついた男がちらりと顔を上げた。
「ああ、起こしてしまいましたか」
常と何ら変わらぬ抑揚で、男は女に問いかける。言葉だけなら何ら訝しむ必要のないものだけれど、男の今の状態は普通とは言い難い。女はひっそりと眉を寄せる。
「あまりにも幸せ過ぎて、ときたま恐ろしくなるのです」
男の言葉の意味はわからない。だが女は黙り込んだまま、耳を傾ける。かつて妓女として名を馳せた香梅は、男の気持ちに寄り添うすべを心得ていた。
「本当はすべてが夢や幻なのではないかと不安でたまらない。今も自分は身も凍るような寒さの中で、夜雨に震える子どもなのではないかとそんな気がしてなりません」
そう言いながら男はゆっくりと暗闇の中、雨に手を伸ばす。母の異なる兄弟姉妹たちに邪険にされ、辛酸を舐めてきた男の心の傷は深い。凍えるような冷たさに身を置くことでしか幸せを確かめられないとしたら、何と哀れなことか。
苛々として、香梅は片足を踏み鳴らした。その音に男がはっと身を起こした時には、女はもう庭に飛び出していた。不安なら不安だと己に泣きつけば良いものを、なぜただひとりで押さえ込もうとするのか。女は、女に頼らない男にも、頼られない不甲斐ない自分にも腹をたてる。きっと男をひと睨みした。
女のために見事に整えられた庭ではあるが、脚が汚れるのを嫌って外へ出ることは滅多にない。雨が降っていればなおさらだ。
そんな香梅が庭へ降りてきた。しかも濡れそぼった男を胸に抱きしめているのだから、男は驚いて目を白黒させている。疎い男には、女が何を考えているかなど想像もつかない。わかるのはただ女の温もりだけ。そのまましっとりと柔らかい唇を押し当てられて、男は小さく呻いた。
「ああ、あたたかい」
冷え切った身体にじわりと広がる熱がたまらなく心地よい。うっとりと目を閉じる男の手に、女はそっと自分の手を絡めてやる。何と面倒な夫君であることか。だがしかし、このずぶ濡れの野良猫だか野良犬だかを拾ったのは香梅自身である。世話をしないわけにはいくまい。
「馬鹿なこと言ってないで、風呂に入るわよ」
ぞんざいな言葉の割に、男を見つめる女の目つきはひどく優しい。女の瞳にうつるのは、寄る辺ない子どもではなく、もうすっかり成人した男の姿。
「うっかり溺れ死んだら困るから、あたしが入れてあげるわ」
化粧をとった優しい顔で不意に微笑まれて、男はゆっくりと目を閉じる。
ああ子どもの頃の自分に教えてやりたい。男は濡れた髪をかきあげて、天を仰ぐ。生きていく上で様々な苦しみや悩みが生まれても、いつかお前も優しい女性と巡り合って幸せになれるのだと。あと少しだけ我慢していれば、確かに生きていて良かったと思える未来があるのだと。
男の声は、過去には届かない。いつの間にか雨は止み、空には小さな星がひとつ瞬いている。
桔梗様に頂いたFAをもとに書いた小話です。
FAは、こちらよりご覧いただけます。 https://book1.adouzi.eu.org/n8857dx/19/
桔梗様、本当に素敵なイラストをありがとうございます。




