44.嫦娥奔月
登場人物:長兄、長兄の奥方
今宵は中秋節。相も変わらず、美髯公は奥方である女の尻を追いかけていた。
「はあ、可愛いの。まったくもって、けしからんほど可愛いの」
はあはあと息を荒げながらしつこくつきまとう様は、いい加減奇妙を通り越して鬱陶しい。しがみつくようにして尻に頬ずりするむくつけき男など、可愛らしく思えるはずもないのだ。どうせ毛が生えている生き物なら、髭ではなく全身がもふもふした柔らかい生き物の方がよっぽど良い。
そんなことを考えながらつんとあしらっていれば、珍しく強い力で女は男の腕の中にぐっと抱え込まれる。くらりとするほど熱い視線に囚われて、女は小さくため息をついた。
「どこへも行くな。嫦娥のように月などと手の届かぬ場所へ行ってしまったなら、何をするかわからぬ」
へらへらとだらしなく笑っておきながら、目だけは戦の時のように冷ややかに澄んでいる。お調子者の分際で、真面目くさってこんな言葉を言うなんて反則ではないか。この男からは逃れられないと女は最初からよく知っている。いつも女とのやりとりでは勝ちを譲ってくれる夫君。女の尻に敷かれて生きているように見えるけれど、本当に甘やかされているのは自分の方なのだということを、女はとっくの昔に理解していた。
まさかこんな風に夫君と時を重ねることになるなんて。女の心は容易く過去をさかのぼる。
王族にとってまず求められることは、その血筋を絶やさないことだ。政や戦に長けていればより素晴らしいことではあるが、それは王族でなくとも構わない。けれど、王朝が正しく存在するためには、正当な嫡子の存在が必要不可欠だ。だからこそ、東国では後宮も側室の存在も容認されてきた。先の王など、数十数百という女を召しかかえていたではないか。
それ故に、女は男の求婚を退けた。
次期国王に対する態度ではないと、父が顔を真っ青にしていたのは知っている。それでも女は受け入れることができなかった。石女の自分が、誰かと夫君を共有して幸せになどなれるはずもない。家のため、国のためというのなら、喜んでこの身を差し出すべきだったのに、女にはただそれができなかった。
夫君が、自分ではない女との子どもを可愛がる姿など見たくはない。なにより、夫君の幸せを喜べない女になどなりたくはない。死罪を覚悟して跳ね除けたのに、夫君はそれでも構わないと笑ったのだ。
妻は女ひとりで十分なのだという。王の妻がひとりなどありえない。その場限りの嘘にしてもお粗末だ。よしんば認められたとしても王の妻などごめんだといい捨てれば、ならば王位など弟たちにくれてやると笑う。そんな男を見ていれば、女は男の戯れに付き合ってやっても良いかという心持ちになった。数年で飽きられ捨てられたとしても、それは仕方のないことなのだ。
そう思っていたはずなのに、夫君は今も変わらずに女のことを愛しているとのたまうのだ。本当に王位だって捨ててしまった。もう逃げられないのだと知って、それが途方もなく嬉しい。女は不意に幸せだと思い、ゆっくりと微笑む。
けれど夫君の気持ちを理解していることと、素直に受け容れることはまた別問題なのである。女は皿に山のように積み上げられた月餅をおもむろに持ち上げると、そのまま勢いよく振りかぶる。みっちりと重たい餡が詰められた月餅は、気持ち良いくらいの勢いをつけて夫君の口の中にめり込んだ。
「この私が、夫君の秘薬を勝手に飲むような盗人猛々しい女と同じであると? あげく月へ逃げるような卑怯な真似をするとでも?」
ひんやりとした声に、夫君が後ずさる。ぐいぐいと勢いよく月餅を押し込められて、男は慌てて身を縮こめた。月餅は意外と重量があるのだ。このまま素直に攻撃を受けていれば、下手をすると大変なことになってしまう。しかも無体なことをしているのは女であるのに、うっかり口からもどしてしまえば、食べ物を粗末にするなときっと鬼神のごとく怒り狂うに違いないのである。
甘いものが苦手な男は、もごもごと必死で月餅を咀嚼する。可愛らしくて素直ではない奥方が、「どこへも行かない」と答えてくれたのが嬉しくて、男はでれでれと満面の笑みを浮かべるのであった。




