40.琴心剣胆
登場人物:長兄、雨仔
銀色の髪をした男が、宰相として西国に発つ前の晩のことである。
その夜、男はすぐ上の兄に呼ばれていた。このような夜更けに何の用であろうか。疑問に思いながらも、男は呼ばれるがままに兄の部屋へ向かう。誰ぞ部屋にいるのであろう。兄の部屋が近づくにつれて、賑やかな音が耳に入る。飲めや歌えの大騒ぎだ。
やかましい笑い声に混じって、兄が詩を吟ずる声が聞こえる。周りの者はふざけているのか、盃をちゃんかちゃんかと打ち鳴らして遊んでいるらしい。まったくこんな夜中に他の者がよく起きだしてこないものだ。明日の朝、義姉上がお怒りでなければ良いのだが。そんなことを思う男の耳に、不意にこんな会話が飛び込んできた。
「ほほう、なるほど其方のその傷は、川底で擦られたのか」
「主人のためとはいえ、戦の場で出来た傷でないことが口惜しいことよ」
「いやいや、何を言う。貴君のように身を呈して主人を守れたのであれば、陸の上であろうが、水の中であろうがその働きに違いはあるまい」
「そうであろうか」
「おう、そうであろうよ」
「まあ、吞め。明日は我が君の弟君が出立する。その門出を祝わねば」
明日出立する弟君とは自分のことであろう。そうであれば、やはり兄の部屋には、兄を慕う部下たちが詰めかけているのかもしれぬ。男がさて何と声をかけようかとしばし悩んで扉を開けてみれば、意外にもそこには一人のんびりと酒を呑む兄がいるだけである。はてこれは一体どういうことか。唖然とする男に兄がいきなり盃を渡す。兄に吞めと言われれば呑むしかあるまい。
よく見れば、どれだけ呑んでも顔色ひとつ変えないはずの兄の目が、僅かばかり潤んでいた。どうやら自分のことを考え、男ながらに泣いているらしい。いつまでも弟として自分に心を砕いてくれる兄の姿を目の当たりにして、やはり兄のためにも西国を良く治めねばならぬと気を引き締めた。そんな自分に気がついているのかいないのか、兄は一振りの剣を差し出してくる。
「其方にこれを。きっと其方を守ってくれるはずだ」
「兄上、ありがたき幸せ」
「礼ならば、その剣に言うがいい。西国についていきたいと願い出たのは此奴だ」
雨の名を持つ男は、兄の言葉を聞いて少しばかり不思議に思う。だが、兄は男にとって絶対の存在である。理解できないことでも、全てに意味があるのだと受け入れた。初めて手にしたはずなのに、その剣は不思議なほどにしっくりと手に馴染む。兄に、これは十万本に一本の、多くの鍛師が生涯をかけて生み出すことを夢見る妖刀のひとつなのだと言われれば、さもありなんと思えてくる。
「其方は、其奴の鞘なのだ」
はて兄の言葉はやはり凡庸な自分にはとんと理解できぬ。すでにこの剣はしっかりと鞘に納められているではないか。そのような弟の疑問などわかりきっているのだろう。くつくつと笑いながら、美髯公は朗々と語る。其方は其奴の命なのだと。其方に為すべきことがあるように、其奴らにも為すべきことがあるのだという。
自分の為すべきこともわからぬのに、剣が求める先など見当もつかぬ。だがしかし、もはや西国は東国の一部となる。命を革めるこの時に、これほど相応しいものはなかろうと思えてきて、男はありがたくその剣を頂戴した。
出立の日、末の弟が目ざとく男が持つ剣に気がついた。
「兄上もやはり剣を賜ったのだな」
「なるほど。あなたの剣も兄上がご用意してくれたものだったのですね。礼は自分にではなく、剣に言うように言われましたが」
「それもまた同じとは面白い」
くつくつと喉を鳴らす弟は、どこか愛おしそうにそっと剣を撫でる。末の弟が、西国で偽の死体を作り、辛くも追っ手の目を欺いた話は男も聞き及んでいる。姿形のよく似た死体を用意したとはいえ無駄に疑われることを避けるために、愛用の剣と共に川底へ沈めたのだとか。激しい川の流れにも流されることはなく、しっかりと主人の身代わりになった弟の剣。剣の柄についた傷跡は、主人を守った誇りに満ちて、輝いているようでもある。
なるほど昨晩の会話は、兄の部屋に飾られた剣たちのものであったか。弟の剣まで招いて、酒盛りの最中であったとは。普通ならば物の怪や妖かと怯えるだろうに、すべてをあるがままに受け入れる兄の豪胆さを思い、男は口元を緩める。
自分を選んでくれたと言うこの腰の剣は、共に未来を切り開いてくれるのであろうか。家族の愛に薄い男は、この先に待つ未来も知らぬまま、遠い異国の地を思い空を見上げた。




