39.善巧方便
登場人物:長兄の奥方、ヒスイ
目の前に見知らぬ少女がいた。東国では見慣れぬ服装をしている。服の形は西国のものによく似ているが、西国でもあれほど手足をむき出しにしては歩かない。物を知らない女童が、西国の衣装に憧れて適当な物を着込んだのであろうか。手足を丸出しにしていても平然としているところを見れば、身長の割に幼い少女なのかもしれぬ。側には見慣れぬ種類の犬がいる。
それにしてもこの一人と一匹。一体、どこから迷い込んで王城へ入ってきたものやら。まったく城の警備の者は一体何をしているのであろう。一度王城をぐるりと取り囲む壁に穴が開いていないか、確認する必要があるようだ。東国の王の奥方と、その兄の奥方はそっと困ったようにお互いの顔を見合わせた。
少女たちは、ここが王城の一角にある庭だとは気がついてもいないらしい。文字通り殴り合う勢いで、おかしな遊戯をしている。どうやら躾がうまくいっていないようだ。犬に向かって少女が円盤を投げている。どうやらそれを犬が口で捕まえる遊戯の筈のようなのだが、呼吸がいかんせんあわない。今も目の前で面白いほどに、犬の顔に円盤がめり込んだ。
痛くはないのだろうかと思ったが、やはりそれなりに痛みはあるらしい。飼い主相手とは思えない勢いで、犬が少女を追いかけ回す。少女も色々と大声で叫んでいるようだが、あれでは逆効果だ。命令は冷静に完結に。言うことが聞けたならよく誉める。これが躾の基本である。
「おやめ」
思わず長兄の奥方が言えば、ぴたりと犬が鳴き止んだ。一瞬、その声を聞いてもともと西国の王であった女はぞくりとする。今何か、殺気のようなものがこもっていなかったか? 慌てて義姉を見上げてみれば、美しい女は素知らぬ顔でにっこりと微笑むばかりだ。そういえばこの一見たおやかな女は、暴漢も泣いて許しを乞うほどの武道の達人ではなかったか。
黙りこむ少女に近づき、そっと不思議な玩具を受けとると、行けと一声かけてさっと遠くに投げてみる。練習もなしにやられたそれを、犬は大慌てで追いかけ見事に捕まえた。尻尾を振ってたちどころに女の元にもどってくる。この犬、長兄の奥方とは初見であるにも関わらずどちらが偉いかを一瞬で判断したらしい。存外、賢いようだ。
女はじっと毛色の変わった犬を見つめる。少女の言うことを聞いてはいないが、もともと良い血筋の犬なのであろう。大層勿体無い。訓練次第では、よく主人に仕えるようになるに違いない。躾る甲斐がありそうだ。口であれこれ言うよりも、実際に試してみた方が早い。
女は義妹に言って、義妹の愛犬である「綿糖花」を呼ばせようとする。お手本になる同族がいれば、わかりやすいというもの。ところが件の犬は、現在毛刈りの真っ最中であるらしい。夏でも雪の残る北方の国が故郷のあの犬にとっては、いかに湿度が低いこの東国の王都であっても暑すぎるようだ。皮膚病を避けるために、嫌がるのを押さえつけて、今年も毎年恒例の丸刈りの時期なのだ。一度逃げ出せば、来年以降も逃げ出すようになって面倒だと言われれば仕方ない。別の方法を考えよう。
長兄の奥方が、小さく指笛を鳴らす。三秒で奥方の足元に擦り寄ってきたのは、誰であろうこの東国を治める王の兄である。はっはっと息をあげながら、期待に満ちて女を見上げるお座りをした美髯公。そんな夫君にちらりと目をやると、奥方は表情一つ変えずに次々に合図を出す。
「握手」
「座下」
「等一下」
「趴下」
「拜拜」
なぜか最後の合図で顔を赤らめながら帯を解こうとした夫君を殴り飛ばし、奥方は円盤を構える。にっこりと笑顔でありながら、手首と肩を気合を入れてほぐしているのはなぜであろうか。
「ちゃんとできたら、今夜はご褒美をあげるわ。さあ、取ってこい!!!」
勢いよく投げた円盤は信じられない距離をぐんぐん飛んで行く。ご褒美につられて目の色を変えた夫君も、あっという間に見えなくなった。
「躾と言うのはね、誰がご主人様なのかきちんと相手に分からせておけば、大概うまくいくのよ」
艶やかに微笑む女を見て、少女は口をあんぐりとさせたまま足元の犬を見下ろした。犬はどこか緊張した様子で、きちんとお座りをしている。女は何秒で夫君が帰ってくるのか、義妹とにこやかに賭けを始めた。




