37.七夕
登場人物:長兄、長兄の奥方
「お情けを頂戴に参りました!」
なぜか枕を片手に臨戦態勢の夫君を見て、女はそっと無言で扉を閉めた。扉の向こうで、頼む、どうか開けてくれ、せめて五分。すぐ終わる、あっという間だから!!!と叫ぶ男が鬱陶しい。雰囲気も何もありはしないではないか。そっと溜息をついて、女は扉の向こうに声をかける。
この男、確かに次期東国の王と言われていたときですら破天荒であったが、これはあんまりではないか。王位を末弟が継いで以来、とうとう頭の中の大方のねじが緩んで、転がり落ちてしまったらしい。
「一体何事だと言うの」
「今日は七夕であろう。一年に一度、天帝に引き裂かれた織姫と牽牛が共に一夜を過ごす日ではないか! ついでに俺にも甘い一夜を!!!」
朗々と渋い声を響かせて、歌うように情緒たっぷりに話す内容は完全に下の話である。浪漫的な逢瀬を下世話な話でまとめられて、天の川のほとりにいる二人も、さぞ苦笑いしているに違いない。一体何がどうすればついでになるというのか。女は何やら頭が痛み始めたような気がして、そっとこめかみを揉んでみる。
「織姫と牽牛は、きちんとお仕事をしなかったから天帝に叱られたことをお忘れかしら。最近もお仕事を放り出して、釣りに出かけたり、山賊狩りに出かけたりしたのは何処の誰だったかしらね」
「明日からちゃんとやる!!! ちゃんと仕事するから」
ここ最近の所業について指摘すれば、外でごとんごとんと妙な音がする。床に跪いて、頭を打ち付けているのかもしれない。あくまで食い下がる夫君。戦に出れば連戦連勝、敵は夫の顔を見ただけで震え上がって逃げるというけれど、こんな姿を見たらどう思うかしら。駄々をこねる子どものように、扉の向こうでじたばたする男を想像して、女はくすりと笑った。だが、甘やかすのは良くないのだ。
「残念だけれど今宵は雨。この豪雨ではたとえ鵲でも、天の川に橋はかけられないでしょうね。おやすみなさい。どうぞ良い夢を」
「口でしてくれなんて言わないから!!! 手でも、太ももでも、尻でも構わない!!!」
露骨な表現でもって諦めない夫君は放置して、さっさと寝るとするか。女はあっさりと寝台へ横になる。あまり騒がしいようなら、縛って吊るしても良いし、いきりたつあれをぐりぐりと踏んづけてやっても良いが、この状態ではどうせそれすらも悦ぶに違いないのだ。悦ばせてしまっては仕置きにならない。ここはやはり無視と放置に限る。
扉の向こうの妻を思い、嘆く男の隣に、小さな猫がやって来た。「仔仔」と妻が呼んで可愛がっている猫である。自由気ままな猫も、さすがに土砂降りの雨には勝てぬらしい。外遊びはやめて、帰ってきたようだ。
「なんだ、お前も独り寝か。こうなれば仕方ない、あぶれた男二人で寝るとするか」
男が猫に手を伸ばそうとすれば、うまい具合に逃げられる。するりとしなやかな動きで男から離れると、猫はかりかりと女の部屋の扉を引っ掻いた。そのまま小さくみゃおみゃおと鳴きたてる。
「おい、奥方は今大層機嫌が悪いんだ。怒られても知らんぞ」
慌てて猫にしいっと声をかける男だが、猫は不思議そうに男の顔を見やるばかり。怒られるなどついぞ想像もつかぬらしい。まったく呑気なやつよ、そう男がやれやれと溜息をついたそのとき。
「あら、遅かったのね。今日はもう来ないかと思っていたのよ」
がらりと扉が開いて、愛しの奥方が猫をそっと抱きあげた。そのまま猫の横で固まる男のことなど完全に無視して、再び扉は閉まってしまう。何という扱いの差であろうか。男はおいおいと男泣きに泣いた。
「なぜだ!!! なぜ、俺よりそんな猫を!!!」
「五月蝿いっ!」
とうとう扉の隙間から扇が投げつけられる。扇は綺麗な弧を描き、男の額にぶち当たった。奥方の香りがする扇が愛おしい。いや奥方のものであれば、髪の毛一筋だろうが食べ残しであろうが愛おしいのだが、そうやって拾い上げた髪の毛を抱きしめている男のことを、きっと奥方は気持ち悪いと一蹴するに違いないのだ。奥方にとっては、所詮それらは塵でしかない。
今日も男はしくしくと枕を引きずりながら、部屋に帰るばかりである。




