35.愛及屋烏(恋人の日記念)
登場人物:妓楼の主人
さくらんぼの茎を口の中で結ぶことができる人は、口づけがうまい。
どこからかこの可愛い恋人は、そんなことを聞きつけてきたらしい。
金色の髪をさらさらとなびかせて、わくわくとした眼差しで自分を見上げてきているが、考えなしも良いところだ。
男は長い黒髪をかきあげて、そのまま恋人の頬に手を当てる。きっちりと着込まれた西国流の服が邪魔くさい。胸元に手を差し込もうとすれば顔を赤くして困ったように逃げ出されて、男は小さく苦笑した。
二人が話を楽しんでいるのは、とある大きな木の下だ。東国の初夏は、湿度が低いせいかとても過ごしやすい。さらりとした風が通り抜けてゆくせいで、木陰にいればそのまま昼寝ができそうな心地よさだ。
春に薄桃色の桜を咲かせていたこの木は、今はたわわに赤い宝石のようなさくらんぼを実らせている。つやつやとした果実は、光を受けてきらきらと輝いた。それを見て、男の恋人はまるで子どものように嬉しそうにはしゃいでいる。
鈍臭いせいで木登りもうまくできず、飛び跳ねても跳躍力が皆無でちっとも枝の先には手が届きそうにない。それでも息をあげ、頬を桜色に染めながら、懸命に同じ動作を繰り返すその様はとても可愛らしい。つい意地悪をして、届きそうで届かない場所にあるさくらんぼを目の前でさっと摘んでしまいたくなるくらいに。
びっくりしたように目を丸くする恋人の口に、茎をとったさくらんぼを放り込んでやれば、にこにこと嬉しそうに甘い実を楽しんでいる。さくらんぼを与えた時に指先をかすめた柔らかな舌先の感覚に、男はぞくりとした。
見事、口の中でさくらんぼの茎を美しく結べたとして、こやつはそのあとどうするつもりなのだろうか。男は口元をそっと手で隠して思案する。
どうせ、子どものようにきらきらとした眼差しでこちらを見上げて、すごいとばかりに拍手をしてくれるに違いない。この可愛らしい恋人は、こちらがどれだけ我慢をしているのか何も知らない顔で煽ってくるのだ。許されるならば、一日中自分を求めてやまないようにしてやりたいというのに。
今も屈託無い笑顔でさくらんぼをこちらに渡してこようとしている。まったく、こちらがそのまま押し倒して、その美しいすべすべとした肌にきつく花びらのような痕をつけて回りたいなど、思っているとも知らないで。
何も知らないから、こうやって無防備に隣にいれるのだ。ぷっくりとした唇を突き出しながら、珍妙な顔をして、もぐもぐと口の中でさくらんぼの茎なんかをこねくりまわしたりするのも鈍感だから。ほら、他の男たちが自分をどんな目で見ているのかなんて気がつきもしていない。
恋人の口の中を独占するのが自分ではなく、さくらんぼの茎という事実がいかにも面白くなくて、男はいきなり恋人の唇を吸い上げた。
どうせ不器用なのだから、できるはずがない。黙って、可愛い声だけをあげていれば良いのだ。ゆるゆると舌を絡めて口の中を味わい尽くす。上顎をちろちろとなぞりあげてやれば、堪え性のない恋人は腰をくねらせながら、はあはあと荒い息をあげるのだ。
そのまま逃げられないように木の幹におしつけて口づけを続ければ、可愛い恋人は涙目で自分を求めるばかり。理性の飛んだ恋人ほど、可愛いものはない。
甘い甘い恋人の蜜の味を思い出しながら、男は美しいさくらんぼを口に入れる。恋人の命の代わりに光を失った両の目は、もはやさくらんぼの色を男に教えてくれることもない。けれど男の脳裏には、いつだって甘やかな恋人の笑顔とともに、鮮やかな色が映し出されている。
まったくいつまで待たせるのだろうか。あの鈍臭くて、可愛らしい、いつも涙目をした健気な恋人は。どこかですっ転んでいたり、盗賊に襲われたりしているのだろうか。おかしな男に付きまとわれていなければ良いのだが。自分のことは棚に上げて、男は考える。
これだけ待たされたのだから、店に迎えにきた暁にはたっぷりと可愛がってやろう。たまには狼になるのも良いかもしれない。どんな恥ずかしいお仕置きをしてあげようか。
「大哥ったら、何をさくらんぼを食べながら楽しそうに笑っているの?」
訝しげに問うた可愛い小妹妹に微笑みかけながら、未だ迎えに来ない恋人のことを想って、店の主人はうっそりと笑った。
そっと口から出されたさくらんぼの茎は、綺麗な蝶結びの形をしている。




