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31.三者三様

登場人物:長兄、長兄の奥方、セイ、ヒスイ、香梅、妓楼の主人

 女は怒っていた。分厚い肉切り包丁を片手で振り回したくなるくらいには、怒り心頭である。

 

 今日は朝から、料理に精を出していた。山と積まれた食材が、見る間に彩りも豊かなおかずに姿形を変えてゆく。台所に満ちるのは心踊り、胃袋に訴えかける素晴らしい香りの数々である。


 本来であれば、女は料理などする必要のない身分である。けれど生家で仕込まれた腕前はなかなかのものであり、何より料理を食べた時にほころぶ皆の顔を女は何よりも大切にしていた。そうであればこそ、鳥を自らしめるのさえも厭わない。


 今朝の朝日は見事であった。今日はきっと良い天気になるに違いない。ちょうど見頃の桜花インフォアを見ながら、外で昼食でもと張り切っていたのにである。またもや目の前のこの男がやらかした。へべれけに酔っ払っているのは言うまでもなく、この女の夫君である。


「お、こんなところに良い香りのするものが」


「ちょっと、つまみぐいはやめてくださいまし」


 しっしっとまるで犬でも追い払うように夫君をあしらうが、それでへこたれるような男ではない。揚げたての料理をつまんではあちちと大騒ぎをし、落し蓋を勝手に開けては味の染み具合を確かめたりする。そのくせ旬の野菜をみては、「草か……」とこっそり馬に食わせに行こうとするのだからどうしようもない。


 さらに夫君は自由気ままである。奥方の小言など、耳に入ることはない。ますます調子に乗っていく。


「かあ、美味い! やはりそなたの手料理は美味いのう。どれこれには最近手に入れたあいつが合うか?」


「朝からお酒は駄目だと何度言ったら……」


「ぐへへへ、良いではないか。のう、怒った顔もかわゆいのう」


 料理の間中、周りをうろちょろし、奥方にちょっかいを出す。包丁を使っている時に後ろにぴったりと張り付き、不埒にも胸元に手を差し込むとは何事か。胸を触るなと言えば、ならばと尻を直に触って来ようとする体たらくで、女は頭が痛くなる。この男は、一体何度言えばわかるのであろうか。


 手伝うと言って手を出しては皿を割り、黙って見ていろと言われたのにいらぬことばかりする。そして最後はいい気分になって、こっくりこっくりうたた寝を始めた男を見て、女は心に決めた。この男には、今日一日反省してもらうと。


 結局、庭での花見は中止となった。酔っ払いは簀巻きのまま、馬の背でぐうぐうと高いびきである。突然、野山での実践演習に駆り出された二人の義弟たちはそろって小さくため息をついた。





 まるで花の精のようだと、男は思った。


 とある月夜、愛しい女にせがまれて、男は夜の庭へ桜を見に出かけた。昼間の華やかさとはまた異なり、宵闇に照らされてぼんやりと白く浮き上がる桜はどこかひどく艶かしい。


「見事なものだな」


 そう言いながら、うっとりと桜を見上げる女は気がつかない。夫君が見つめているのは、桜ではなく、自分自身だと言うことに。薄物の夜着の上から、申し訳程度に上衣を羽織った女の姿を見ては男は目眩がする。


 ふわりと夜風が、男の理性をあざ笑うかのように、女の夜着の裾をはためかせる。引きずるように長い裾が風をはらみ、一瞬だけ見えたすらりとした女の白い脚が脳裏に焼きついた。


 手を出すにはまだ早い。あの細い体で子を孕めば、どれだけしんどかろうか。もう少しこの東国で心と体を落ち着かせてからと思ってはいるのに、まるで自分を誘うかのような無邪気な女の仕草を見て、男はただため息をつく。深く息を吸い込めば、漂う香りのせいでまた体が熱を持つ。


 桜の花に、これほど甘い香りはない。とすれば、やはりこのなんともしれぬ良い香りは、女のものなのだ。白い首筋に戯れに口付けてみれば、女はくすぐったそうにくすくすと身をよじる。……やはりまだ早いのだ。男はかぶりを振る。


「ふふ、似合うだろうか?」


 桜の枝に戯れに手を伸ばし、その身を近づけると女はしっとりと微笑んだ。たっぷりとした袖がずり下がり、折れそうなほどに細く白い腕がむき出しになっていて男は思わず目が釘付けになった。


 そのまま女は鳥のように軽やかに男の元へ飛び込んでくる。女に見とれていた男は、不覚にも後ろへ倒れこむ。そのまま女に深く口づけされて、混乱する。己の視界に入るのは女の夜着の袖と、美しい翡翠色をした瞳だけ。百戦錬磨のこの男が、まだ覚束ない女の口づけにこれ以上もなく煽られているなんて誰が知っているだろう。


 恋に溺れた忠犬は涎を垂らしながら、必死で今日も堪え抜く。千代千代とさえずる小鳥の方が、また今夜も食べてもらえなかったと義姉に泣きついているなんて、男は知る由もないのだ。





 西国随一の美貌と名高い楼閣の女は、大層ご立腹であった。


 楼閣の主人が荒れているらしい。今日は朝から上を下への大騒ぎである。たかがおやつの甘味を食べられたくらいで馬鹿馬鹿しい。そんなものしばらく放っておけばいいではないか。そう香梅シャンメイなどは思うのであるが、楼閣に勤めるものたちにとっては生きた心地がしないらしい。


 猫可愛がりされた小妹妹シャオメイメイ香梅シャンメイだけである。相当に機嫌が悪い主人を見て、困った手のかかる猫のように扱うのは。他の人間にとっては、楼閣の主人というものは東国に住むという人喰い虎以上に恐ろしい生き物なのである。


 仕方なく女は厨房に向かう。この西国で、東国の甘味を手に入れることは思ったよりも難しい。東国街にも甘味屋はあるにはあるが、生粋の東国人にはやはり物足りない。それはこの店の主人も香梅シャンメイも同じこと。本当に気に入った味を食べるなら、自ら作るのが一番なのだ。


 香梅シャンメイの手は商売道具だ。火傷をしそうな料理なんて、本当はしたくない。厨房での仕事など、下女がやることだ。けれど店の主人が臍を曲げているのだから仕方ないではないか。女はぶつくさ言いながら、餡を練る。


 餡に使う小豆の仕込みは、前日からやらねばならない。店の主人の機嫌とは関係なく事前に準備したものであるに違いないのだが、この素直になれない香梅シャンメイにそれを指摘できる人間などこの店にはいないのだ、穏やかな微笑みをたたえた兄代わり以外には。


 出来上がったそれを持って、香梅シャンメイは兄代わりの部屋を訪れる。どこが荒れているものか。男は、悠々と女が来るのを待っているではないか。煙管を戻すと、男はおいでと香梅シャンメイを手招きする。


「何を持ってきてくれたのだい、小梅シャオメイ?」


「柏餅。大哥(兄さん)、昔からそれ好きでしょ」


 つんつんとそっけない小妹妹シャオメイメイを、兄代わりはすっぽりとその膝におさめてみる。その優しげな仕草とは裏腹に、その手は意外なほど力強いことを香梅シャンメイは知っている。だから、こんな風に子どものように膝に抱きかかえられても、見苦しく騒ぎ立てることなどはなからしないのだ。


 店の主人が飽きるまでは、このままなのもいつものこと。すっぽりと店の主人の香りに包まれて、うっとりと香梅シャンメイは目を閉じる。兄代わりの気まぐれには慣れっこである。しかし。


「ふふ、小梅シャオメイ、昔みたいに一緒にお風呂に入るのはどうだね」


 突然にそんな世迷言を言われて、香梅シャンメイは目を見開き白黒させる。こんな顔をこの女にさせることができるのは、この男だけであろう。残念ながら、この男には香梅シャンメイの顔を見ることは叶わないのだが。


「な、な、何を言って……」


 思わず顔を赤らめる女に、店の主人は心底不思議そうに問いかけるのだ。


「昔は毎日一緒だったのに。あの頃の小梅シャオメイは可愛くて、『どうして小梅シャオメイには、小弟弟ちんちんがないの? これ欲しい!』ってよく私の」


大哥(兄さん)!!!」


 慌ててそれ以上の言葉を止めようとして振り返れば、勢い余って、男の胸元を少しばかりはだけさせてしまう。男とは思えない白く美しい肌を晒しながら、兄代わりは笑う。


「おや、そんなに慌てずとも風呂は逃げないのだよ」


「もう! もう!」


 この可愛い小妹妹シャオメイメイに構ってもらいたい兄代わりと、素直になれない香梅シャンメイとは、こうやってたびたび店の者を巻き込んで大騒ぎをする。


 店の者がうっかり食べてしまいそうなところに、自分の甘味を置いておくなど意地の悪い。そう香梅シャンメイは思うけれど、小さな子どもの頃に戻ったような気持ちになるこの瞬間が愛おしくて、女は見え透いた遊びに乗ってみせる。


 花見の季節。今日も世はおしなべて皆平和である。

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