29.後悔噬臍
登場人物:長兄、長兄の奥方
その日ほろ酔い気分で部屋に戻った武人は、愛する奥方に猫のように飛びついた。そのままいきなり奥方の体を撫でまわす。
「むふふふ、やはりそなたの肌はすべすべでたまらんなあ」
「ちょっと、お酒くさい! しかも汗くさい! 先に湯浴みなさって下さいな」
服の袖で鼻を覆うと、奥方は心底嫌そうに夫君に言いすてる。全体的に何やらベタベタして、臭う夫君をしっしっと手で追い払うと、そのまま寝台から蹴り落とした。
「冷たいのう、冷たいのう。けれど、嫌よ嫌よも好きのうちと言ってな。ほれほれ、おひげじょりじょり攻撃〜」
しかしながらこのどうしようもない酔っ払いは、奥方の態度を気にすることもなく、なおもしつこく絡んでくる。すでに夫君を見つめる奥方の視線が、氷点下を通り越していることにさえ気がつかない。なお美髭の価値が高い東国ではあるが、奥方は髭を見るのも触るのもお嫌いである。
「いい加減になさらないと、実家に帰らせていただきますよ?」
丁寧語で奥方が警告を発するのは、相当に危ない印である。常ならば、いくら酔いどれた夫君でも引き際を誤ることはない。しかしながら、本日ばかりはそうもいかなかった。
「またまたそなた、怒るふりも上手いではないか。今日は、万愚節だと知っておるぞ。そんなに嫌がるふりをするなんて、愛されておるなあ。そんなそなたに贈り物があるぞ」
からからと笑う夫君は、怪しげな手つきで何やら小さな包みを奥方に差し出した。ちらりと中身を確かめた奥方は、己の伴侶の低俗さに呆れてもはや言葉を発する気力さえない。贈ったはずの包みとともに問答無用で廊下に放り出され、きょとんと武人は目を瞬かせた。
「それで、ここへ来たわけですか」
すぐ下の弟が、寝台の上でため息をついた。せっかく綺麗に体を清めて、ゆるりと休もうとしたところに、べそをかいた兄が襲来してきたのだ。ため息の一つもつきたくなる。
「一体何をやらかしたというのです」
えぐえぐとしゃっくりあげる武人の姿は、はっきり言って気色が悪い。だいたい、なぜこの狭い寝台の上に男二人で膝をつき合わせねばならぬのだ。暑苦しさ以上に、鬱陶しささえ感じる。酒くさいし、汗くさいことこの上ない。もちろん、口に出しては言わないが。
事の顛末を聞いたすぐ下の弟は、軽く痛む頭を抑えながら、長兄に教えてやった。
「兄上、もう一度よくお確かめ下さいませ。万愚節は、明日ですよ」
すぐ下の弟の冷静な指摘に、長兄はぴたりと泣き止む。みるみるうちに顔を青褪めさせた。そんな兄に追い打ちをかけるように、包みの中身を弟が確かめる。紐状の卑猥な下着を見て、すぐ下の弟は呆れて物も言えない。
後悔、臍を噬む。後になって悔やんでも取り返しはつかないのだ。
「それ、お前にやるから明日一緒に奥方に謝ってくれ!」
「要りませんよ、こんなもの!」
「うわあああん、離縁されてしまううう」
さめざめと己に抱きついて泣く兄を慰めながら、すぐ下の弟はひっそりとため息をついた。久方ぶりの休みは、義姉のご機嫌とりに終始しそうである。




