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28.暗香蓊勃

登場人物:セイ、ヒスイ

 ふわりとどこからか良い香りが漂うのに気がついて、女は思わず愛しい男の名を呼んだ。


 女の愛しい側近は、何を使っているものやら大変良い香りがする。柑橘系の、はっとするような爽やかな香り。近頃の武人というものは、男ですら良い香りがするものなのかと、女は少しばかり不思議に思っていた。


 いつもは影のようにべったりと張り付いているくせに、今日は何やら所用があるという。男がいない間に仕事を進めようと思うが、さっぱり頭に書面の内容が入ってこない。どうやらよほど己は、あの男に執着しているらしい。込み上げてきた苦い笑いをどうにか押し殺しながら、この西国の麗しい国王は気分転換と称して執務室を出た。


 せっかくだから庭でも見てみるか。とりたてて見たい花があるわけでもないが、庭師が一生懸命に世話している庭だ。行けばそれなりに良いものがあるに違いない。そうしてぷらぷらと庭へ向かってみる。


 ふわりと、女はあの爽やかな香りを感じた。落ち込んでいた気分が高揚する。目覚めにふさわしい、この香り。思わず女は、小さな声で男の名を呼んだ。


「……セイ?」


 そして男の姿を探して、はっとする。そこにあったのは、美しい一本の樹木。そして橙色に色づいた見事な果実であった。柑橘とあの男を無意識に結びつけていた自分に気がついて、女は自分の頬がみるみるうちに熱くなるのを感じた。どれだけ己はあの男に依存しているというのか。何と恥ずかしい。ええい、どうせ誰にも見られてなどおらぬから良いではないか! 女が羞恥に震えながら、踵を返したその時だ。


「陛下……? こんなところでいかがなされたのです?」


 きょとんと不思議そうな顔をして、男が花を抱えて立っていた。何と執務室に飾る花は、毎度この男が選んでいたらしい。その気軽に何でもこなす多才さと、女の気持ちなど何ら知らぬ優しげな笑顔が小憎ったらしくて、女は涙目で男の顔を睨みつけた。





 陛下は、どうしてあのように甘い香りがするのだろうと男は苦悩する。


 男装の麗人として国を治める男の主人は、決して香水などを使うことはない。女の身であることを知られるのを恐れて、女性らしさを感じさせるものをことごとく排除しようとしている。だから、部屋に漂うのは毎朝自分が持ち込む、庭の切り花の香りだけのはずなのである。


 それなのにである。陛下からは、甘い甘い香りがする。特に首筋とうなじが危ない。気を抜けば、思わず顔を埋めたくなってしまうような心持ちさえする。ああ、蜜に引き寄せられる蝶とはこういうものなのだろうか。いっそ蜜にまみれて溺れてしまいたいと、男はくらりとする頭で考える。


「あっ……」


 小さな悲鳴が聞こえた。珍しいことに、主人が墨壺を倒してしまったらしい。袖口が汚れてしまったと眉をひそめる女の元にさっと近づくと、男は女の上着をさらりと脱がせた。そのまま素早く机を片付ける。


「お召し物をお持ちいたしますので、しばらくお待ちくださいませ」


 主人の部屋に向かいながら、男は服に顔を埋めてみる。先ほどまで女が着ていた上着は、それだけで欲を感じるくらいには甘く主人の移り香を漂わせていた。


 数日後、愛しい主人に汚れた上着のその後を聞かれた男は、染みが取れず残念ながら処分したことを伝えた。その時の男は、妙に目線が明後日の方向を向いていて、落ち着かない様子であったという。


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