23.狗馬之心
登場人物:長兄、雨仔
今日の酒の肴を決めるように軽く、西国に行く気はないかと男はすぐ下の弟に切り出した。
思わず男は酒を吹き出してしまい、兄が勿体無いと顔を顰める。滅多なことでは怒らない兄だが、弱い者いじめと食べ物を粗末にする輩には容赦がない。因みに、呑み過ぎて折角の酒を胃の腑からぶちまけるような輩には、翌日から適量を学ぶという名の兄の扱きが始まることを男は知っている。
「一体何をしに出掛けるのです」
なにぶん遠い道のりである。ちょっとした物見遊山で行くようなところでは断じてない。吹き出した酒を拭い、胡乱な顔で兄に問うてみれば、これまた至極当然のように言ってのける。
「なに、お前に西国の摂政をやってもらおうと思ってな」
希望があれば、宰相との兼任でも良いぞと軽く言われ、今度こそ本当に男は盛大にむせる。摂政もなにも、未だ末の弟とその奥方は式もあげておらぬ。そろそろ東国に到着するであろう頃合いだが、女の腹に稚児は宿っておらぬだろう。常識的に考えて、旅の途中で腹が膨れるような真似はせぬはずだ。
そう答えれば、兄は飄々と夢を見たのだと言う。龍と鳳凰が青い空を睦まじく飛び回りながら、まろやかな白い山間へ飛び込み姿を消したのだと言う。これはきっと龍鳳胎が産まれるというお告げに違いない。いやでかしたと、哄笑する。
東国では、男女の双子のことを龍鳳胎という。確かに兄の夢は、双子の誕生を期待させる。もちろんそれが未来を予言するものであるのか、単なる願望であるのかはわからない。けれど、こうやって笑っている兄を見ていると、男も兄の言うとおりになるような気がしてくるのだ。
だが、しかしである。もしも赤子が生まれたとしても、西国の政にいきなり口を挟めるとは思えぬ。確かに西国の王の血を引く赤子ではある。西国の王位継承権も主張できるやも知れぬ。だが赤子に即位させ、さらに縁遠い叔父が代わりに西国を治めるなど西国の貴族も民も納得しないのではないか。所詮は夢物語である。
そう言えば、兄は西国の貴族はもはや問題ないのだとからからと笑った。
王が不在で内輪揉めをしている西国と、この東国を含めた諸国とで平和的に交渉を行ったというのだ。ゆるりと酒を呑む兄が、どのような方法で平和的な交渉を行ったかは知らぬが、西国側の要人は、さぞ生きた心地がしなかったであろう。すぐ下の弟は、名も知らぬ西国人に心の中でそっと哀悼の意を表した。
けれど民の心は力では縛れぬと兄は笑う。
「良い政を行えば、あるいは民もついてきてくれるかもしれぬな」
すぐ下の弟は、余りに軽く言われたその言葉に目を白黒させる。それはつまり己に、良い政治を行い、西国を安定させよと言っているのだ。兄のように地を駆ける虎でもなく、末の弟のように空を飛ぶ龍でもない。そのような力量など持ち合わせているはずのない自分に、一体何をやらせようというのか。
「何故自分なのです」
言外に出来ぬと匂わせば、男はからからと笑う。そして庭梅の前で誓いを立てた、あの少年の時と同じ瞳で、こう言うのだ。
「お前が俺の弟だからだよ」
そんな理由になるようなならぬような、如何にも適当な返事。けれどその言葉が、何よりも嬉しいのだとこの男は知っているのだろうか。いや知らぬ間にやっているに違いない。長兄と末の弟は、いつの間にやら人の心を鷲掴みにする。そんなところがよく似ているのだ。
「お前がそれでも嫌だと言うのなら、どうか俺のために西国へ行ってくれ」
兄が頭を下げるのを見て、すぐ下の弟は慌てる。思わず是と答えれば、男はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。嵌められた。弟は瞬時に悟るが、悪い気はしない。あの日差し伸べられた兄の手は、男にとって唯一無二のものだ。犬や馬のように恩を忘れず、兄に仕えたい。兄のためであれば、遠い異国の地に骨を埋めることになっても構わないと男は思った。




