15.愛猫(2月22日猫の日記念)
登場人物:セイ、ヒスイ
朝起きると、男は猫になっていた。
全くもって意味がわからぬが、なってしまったものは仕方がない。部屋の鏡台に飛び乗った男は、溜息をついた。鏡の向こうにいるのは、まごう事なき小猫儿である。声を出そうにも、喵喵と可愛らしい鳴き声が出るばかりである。一先ず仕事は休むしかあるまい。そうして男は不貞寝を決め込んだはずであった。
どうしてこうなった。男はひたすらに冷や汗をかいていた。己は今、主人の柔らかな膝の上に置かれている。優しく体を撫でるその手が愛おしくて、自分から頭を主人に擦り付ける始末だ。喉が自然と一人でにぐるぐると鳴った。
「本当にセイにそっくりだ」
西国の王は、くすりと可笑しそうに笑う。王によれば、自分は赤茶色の毛並みに金色の瞳をしているのだという。セイの身代わりに部屋に置かれていたのかと主人が問いかけるので、当たらずとも遠からずと答えれば、猫が喵喵と返事をするのがよほど可笑しかったのか、噴き出すと同時に腹毛の中に顔を埋められてしまった。むず痒いが、相手は愛しい女である。いっそ役得だと思いながら、男は猫として愛想を振りまいた。
そうやって仕事もせずに女と遊んでいた罰が当たったのだろうか。机の上の墨壺を倒してしまった。幸い書類に被害はなかったが、猫の体は墨まみれである。女はころころと笑いながら、優しい声音で囁いた。
「丁度良い。そなた、一緒に風呂に入らぬか」
いつも一人であのような広い風呂に入るので心許ないのだと、猫を抱えながら笑う女。男は主人に首根っこを掴まれているせいか、体に力が入らず逃げ出せない。確かに性別を偽っているが故に、主人は一人で風呂に入っているはずである。貴人の入浴ともなれば、幾人もの手伝いがあるのが普通であるから、人恋しさを覚えてもおかしくはないだろう。
だがしかしである。流石に自分はまずかろう。今は確かに猫の姿をしている。だがいつ猫になったかもわからぬのだから、いつ男に戻るのかもわからぬではないか。もし男に戻った時に、目の前で柔肌を晒した女がいれば、間違いなく喰い尽くす。恐らく女の制止も聞けぬであろう。そんなどうしようもない自信があった。男の葛藤など知らず、女は楽しそうに湯浴みの準備をする。するりと上着を脱いだ。白い背中がちらりと見える。
嗚呼見たい! けれど決して見てはならぬのだ。男はとっさに駆け出した。右も左もわからぬ、王専用の浴室である。うっかりつるりと脚を滑らせて、たたらを踏む。猫の柔らかな肉球では勢いを殺せず、男は湯船の中に飛び込んでしまった。水を大量に飲み込み、息が苦しくなる。心配そうにこちらに駆けてくる王の気配を感じて、男は申し訳なさに目をつぶった。
息苦しさに耐えかねて目を開けてみれば、そこはいつもの自室であった。何故か下着もつけないまま寝ていたようだが、まあ良かろう。先ほどの出来事が夢であれば、それで良いのだ。それほどまでに己が飢えていたことに驚く。男は妄想の中とはいえ、主人を汚さずに済んだことに安堵した。
そして、さあ着替えようと寝台を降りようとして気がついた。一匹の猫が男と同衾していたことに。艶やかな黒い毛並みが美しい雌猫は、誰かに良く似た翡翠色の瞳を細めて甘えるように一声鳴いた。




