19
ジャスティの音頭で乾杯し、全員が一斉にワインを口に運ぶ。
サーレスも、一口それを含み、ふっと微笑んだ。
中に入っていたのは、カセルアの白ワインだった。
見れば、テーブルに並べられている前菜も、カセルアの食材のものが目立つ。
この短期間で、驚くほどに食材の使い方に精通した調理場の仕事人達に、尊敬の念が沸き上がる。
ワインを口に付けたら無礼講だと話に聞いていたので、そのまま料理でも摘みながら酒でも飲むかと思っていたら、妙な気配を感じた。
その主を捜すと、それは隣にいる、ついさっき夫となった、クラウスだった。
「……どうかしたのか?」
杯を持ったまま、微動だにせずそれを見つめていたクラウスが、突然それを煽るように一気に飲み干した。
一応、花婿の杯は、祝いの酒であるためか、他より一回り大きくなっている。そのようにひと息で飲める量ではない。
サーレスが驚きに固まると、突然クラウスは真剣な表情でサーレスに向き直った。
「……すみません」
真面目な表情のまま、視線もそらさずにいきなりの詫びに、サーレスは目を見開いた。
どうしたのかと問おうとしたら、それより先にクラウスが動く。
「料理は諦めて浚われてください」
なにも言う暇無く、突然横抱きに抱えられ、言葉通りに浚われてしまった。
クラウスは、音もなく城を駆ける。ほとんど揺れることもないのに、馬上にいるのと変わらないほど風を感じる。
あっと言う間に、新しく整えられたサーラの寝室にたどり着き、クラウスはサーレスを抱いたまま器用にその扉を開け、中に滑り込んだ。
新調されたソファにそっと降ろされ、クラウスが扉を閉めに歩いて行く背中を、置く機会を逃したままの杯を手に、まだ呆然としたまま見送った。扉から、微かに鍵がかけられる音がして、その意味を悟った体は、自然と硬直していた。
こちらに帰ってくるクラウスから視線が外せなかった。
真っ直ぐに、こちらを見つめながら歩いて来るため、お互いの視線はぶつかった。
「あ……あの、クラウス?」
「はい」
さすがのサーレスも、自分がここに連れてこられた理由は理解している。理解はしているが、心が定まっているかと言われると、さすがに無理があった。
「その……は、花嫁衣装、着替えなくて、いいのか?」
聞いていた手順としては、宴会の途中で出て、入浴など、夜の支度をして、この寝室で待つと言うことだった。まさか、花婿本人に、宴会の場から浚われるとは思っていなかったのだ。
支度を手伝うはずの侍女達も、今はまだ、下の宴会の手伝いのために駆り出されているはずだ。食事が一段落したら抜け出すように言われていたから、それより前になるとは、侍女達も思ってなかっただろう。
サーレスの言葉に、クラウスが虚を突かれたような表情になった。
「そ、その、寝室に来るのは、入浴を済ませたあとだって……」
クラウスは、顔を真っ赤に染め、しどろもどろになったサーレスの手から、握られたままだった杯をそっと取り上げ、近くのテーブルの上に置いた。
「……大丈夫ですよ」
なにが、と言いたかったが、言うよりもクラウスの行動の方が速かった。
深く深く口付けられ、体を竦ませたまま受け入れていると、息をつくタイミングで、舌が潜り込んできた。
舌が、ゆっくりと口内を漂い、まるで誘うように、逃げていたサーレスの舌を軽く舐め上げる。
その瞬間、体を何かが駆け上がるように、ぞくりとした。
思わず体を引こうとしたサーレスの頭を、クラウスが抱え込む。そのまま片手で耳を半分塞がれ、口の中をクラウスの舌が探る音が、頭の中に響く。
クラウスは、開いているもう一本の手で、なにやら頭をそっと撫でていた。器用に動いていたその手がなにをしていたのか、口が離れるその瞬間に判明した。
口が離れた瞬間、まとめていた髪が、柔らかく肩に落ちる。半年前から伸ばし始めたサーレスの髪は、ようやく肩を覆う程度に伸びていた。
「……既婚女性の髪を解いていいのは、夫だけですからね」
笑顔のクラウスは、その髪に軽く口付けた。
その手に、ちゃんと髪飾りも握られているのを見て、サーレスは苦笑した。
「器用だな」
「最新式の錠前よりは、簡単です」
柔らかく微笑むその表情に、ほんの少しだけ、強ばりが解けた気がした。
だが、正面にいるクラウスの表情が陰るのを見て、サーレスは訝しげに首を傾げた。
「あなたの覚悟が決まるのを、待ってさしあげたいのですが、時間が許しません」
「……なに?」
「昨日、マージュとホーフェンが持ち帰った情報と、黒狼からの情報をあわせて推測すると、今日明日中にもアルバスタかホーセルが動きます」
「……まさか、戦になるのか?」
「おそらく」
クラウスの表情とその言葉に込められた物に気付き、サーレスは息を飲んだ。
乾杯が終ると、あとは無礼講だった。
今日は、酒も料理も豊富に用意されており、皆が樽ごと抱えそうな勢いで飲み始めていた。
一気にアルコールの匂いに包まれた部屋に、子供を置いておくわけにはいかないからと、ホーフェンは娘二人を散歩に連れて行くために、部屋を後にした。
ここひと月の間、ノルドで結婚の準備をするクラウスの代わりに、ホーフェンはずっと王宮詰めだったのだ。
ただでさえ緊張状態のホーセルとアルバスタから送られてくる情報は各方面からひっきりなしで、それをまとめるだけでも骨が折れる仕事だった。
たまに帰ってきた時は、ホーフェンは出来るだけ、一日休みを取り、娘達と一緒に居ることにしていた。だが、今回は、それすら叶いそうにない。
この緊張状態は、もって二日。数日の間に、再び、三国間のどこかで、戦は起こる。
おそらくは、この穏やかな日は、今日を最後に、しばらく訪れることはないだろう。
だからこそ、ホーフェンは、今の間に、娘との時間を取っておくことにした。
久しぶりに会えた娘二人に両手を取られながら、城の周囲を散歩して回る。
「そういえば、カセルアからノルドに、花が届いたんだぞ」
「どんなお花?」
「真っ白で、良い匂いがする花だ。王女様と同じ名前の花なんだぞ」
娘達の顔が、嬉しそうに輝くのを見て、ホーフェンの顔にも笑顔が浮かぶ。
「見に行ってみるか? まだその花は季節じゃないが、今日、花嫁が身につけていた花も、その花と同じ場所に植えられてるんだ。それは咲いているはずだぞ」
「行く!」
「見に行く!」
ぴょんぴょん跳びはね、父の腕にすがりついた娘達をそのままぶさらげながら、ホーフェンは、この国で初めて作られた温室がある屋敷に足を向けた。
屋敷は、城の門を出てすぐの場所にある。
温室に通された双子達は、この国では珍しい、花に溢れた光景に、目を輝かせながら温室の中を歩き回っていた。
ホーフェンは、その微笑ましい姿を、この家に住まう庭師一家にお茶を振る舞われながら見守っていた。
「急に訪ねて、申し訳ない」
「いえ。ちょうど、今日のサーラ姫のご婚儀に合わせて咲かせた花ですから、この日が一番見事に咲いております。お嬢様方に見ていただけて、花も喜んでおりますよ」
人の良さそうな庭師は、妻が入れたお茶を手に、微笑みながらホーフェンの相手をしていた。
カセルアの庭師は、代々の王妃に保護され、役人と同等の身分を保障されている職業である。
ここにいる庭師も、その身分を持ったまま、この国に一家で派遣されたのだ。
彼らは、誇りを持って、国の花であるルサリスを守る。たとえ異国にあっても、王妃の御心のままに、授けられた花を守るのだ。
部屋中に満たされた花々は、一人を飾るためにしては過ぎるほど大量に咲いている。よく見てみると、春の花から秋の花まで、季節まで跨いで咲き乱れている。
「……ここの花は、わざわざ春の花を、今日咲くように育てたんです?」
「ええ。水と陽の光、あとは、温度で調節しております。ですが、ちゃんと咲くかどうかは、やはり花次第ですので、今日無事に咲いて、ほっとしました」
「冬でも、咲かせられるんですか?」
「ええ。可能ですよ。手間はかかりますし、常に暖房を入れていないといけませんが」
「やはり、カセルアは、すごいですね。ブレストアでは、そこまで進んだ栽培方法はありませんよ」
「これは、今の王妃様が王家に嫁がれてから始めた事業なんです。カセルアでは、季節をすこしだけ前後にするくらいは昔から行われていましたが、一年を通して花が咲くように研究したのは、王妃様なのですよ」
「では、ルサリスも、この温室で咲かせますか」
「ルサリスは、王妃様のご希望で、お城に地植えをする予定です。ルサリスは、寒さにも強い種類ですから、雪から守れば、こちらでもちゃんと花をつけると思います」
「へぇ。いつ頃植える予定ですか」
「半年、こちらの土で様子を見ましたが、問題もなさそうですから、雪の前に植え替えておこうと思います」
「……いきなり、冬を越えさせて大丈夫ですか」
「ええ。ルサリスは、強い花です。冬の冷たい大地の中で、しっかりと根を張り、春には葉を出します。一年たてば、花も咲かせるはずですよ」
にこにこと請け負う庭師に、ホーフェンも微笑みを見せた。
「王女殿下とよく似た花ですね」
「そうですね」
「あなたは、その王女殿下が、外に出てくる時の姿をご存じですか?」
「もちろんでございます。私達王宮付の庭師は、奥の宮の庭師でもありますからね」
ほっと胸をなで下ろしたホーフェンは、笑顔の庭師夫妻に、申し訳なさそうに頭を下げた。
「今日の婚儀が終われば、サーレス殿も自由に城を出られます。そうしたら、こちらにおみえになるはずですよ」
「はい。昨日、ユリアさんが婚儀で使われるお花を取りにいらした時に、ご様子をうかがいました。喜んでいただけるように、その日まで花を咲かせておきますよ」
「もうすぐですよ」
ホーフェンは笑顔で請け負った。
ふと、視線を娘達に向けると、娘達はなぜか、花を見ずに、並んで硝子の向こう側を硝子に額をつけるようにして見つめていた。
「……どうした二人とも」
「……とうさま」
「お馬が山道を走ってる」
二人の言葉に、ホーフェンは一瞬で表情を引き締め、その温室を飛び出した。
まだ、城下町の門にも達していないが、その馬が、尋常でない速度で、全速力で駆けていることが見て取れた。
ノルドの山道を、全力で走るような真似は、普通ならばありえない。ノルドでは、馬は大切にされているので、そんな乗り潰すような真似はしない。
だが、例外もある。
それは王宮から送られてくる、早馬に違いなかった。
早馬の乗り手は、その身体に、白のたすきを着けている。
それを見て、ホーフェンは、恐る恐る顔を出してきた二人の娘を小脇に抱え、庭師夫婦への挨拶もそこそこに、慌てて城に戻るべく、全速力で走り出した。




