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水の無い川  作者: 京夜
10/31

八海山 1


 このあたりの地酒は「八海山」という。

 東京でも高級日本酒としてお店に置かれていたのを見たことがあったので、名前は知っていた。

 その地元がまさか赴任先とは思わなかっただけだ。

ある日、患者さんから、


「先生、これ持っていって」


 と言われて、差し出された「八海山」の一升瓶を、


「こんな高価なものを」


 と辞退したら、笑われて、


「ここらでは水みたいなもんです」


 と10本ケースに入った八海山を見せてもらって、びっくりした出来事があった。

 今や私の家にも、必ず八海山が2-3本はある現状を考えると、「水みたいなもの」というのを実感する。


 「八海山」って、海がないのに八海って凄い広大な名前だなぁ、とてっきり製品名だと思っていたのに、本当にありましたよ。


「本当に地元の山の名前だったのね」

「そうですよ。登れますよ」

「まじ。登りたい!」

「はいはい」


 いつもの遠川くん頼りだ。

 病院から眺められる山がそうだと言うので、それほど高そうには感じない。

 標高1778mというのは高いのか、高くないのか。

 高尾山が確か600mぐらいだから、やっぱり高いのか。

 それでも、途中まではロープウェーで行けるというから、そうでもないのかな?


 遠川くんの言葉を借りると、


「日帰りできますが、準備は必要です」


 ぐらいらしい。

 私達はちょっと離れたイオン隣のスポーツ用品店で、登山用品を購入した。

 身体の大きさに合わせて、私のは子供用品になってしまったのはお約束だ。

 すでにもう遠川くんもつっこみすらしない。


「優しいお兄さんですね」


 と言われることも度々で、面倒になった私は、


「はい、とっても」


 と軽く流すことにしている。



 登山当日は、幸い雲ひとつない快晴。

 病院で待ち合わせし、車でロープウェーの麓の駐車場まで移動。

 今回は二人きりの登山だ。

 登山と言ったらみんな不参加で、明るい顔で送り出されてしまった。


 ロープウェーは日曜日ということもあってか、それなりに人が集まっていた。

 冬はスキー場として利用されており、夏場はこうしてハイキングや登山に用いられているという。

 何しろ、ロープウェーで昇るだけで、暑さもだいぶ和らぐ。

 風も心地よければ、見渡す景色も雄大で、これだけでも来たかいがあった。

 でも、私達はこれからが登山だ。

 私はリュックから水筒を取り出して、一口飲み、あらためて気合を入れ直した。


「さあ、いきましょうか」

「うん」


 二人でなだらかな坂を登り始めた。


「先生がいろいろ興味をもって楽しんでくれて、私達も嬉しいです」

「いや、だって楽しそうだし」

「私もそう思うけれど、来てくださった先生方、週末になると東京に戻られたりする方が多くて」

「そうなんだ」

「はい。そうでなくても、わざわざ山を登ろうなんて人は先生が始めてかも知れません」

「せっかく目の前にあるのに」

「ですよね……と言っても、私も久しぶりですが」

「そうなの?」

「近くにあると、かえって」

「そうかもしれないね」


 年齢も近いので、彼とはよく話をする。

 それでも、話が尽きないのは不思議な感覚だ。


「先生はやっぱり一年で帰ってしまうのですか」

「おそらく。医局長や教授次第だけど」

「もう一年やってって言われたら」

「当然残るよ」

「一生いてって言われたら」

「……悩むね。最近はそれもいいかな、と思う時がある」


 そう言うと、彼は本当に嬉しそうに笑った。


「そういう遠川くんは、外に出たいと思わないの?」

「出たいと思う気持ちはないわけではないのですが、長男だし、この年までここにいるともうなかなか」

「そうかもね」


 田舎暮らしと言うが、今の世の中それほど困ることもない。


 生活用品は少し行った先に大きなイオンがあるし、何しろ新幹線の停車駅だ。遠方のアクセスも悪くない。

 産業的にもお米の名産地で、ここらの人たちはむしろ裕福な人が多い。

 東京より貧富の差が少ない感じで、何となく穏やかだ。


「でも、山に囲まれて、冬の雪に閉ざされると、閉塞感はありますね。そんな時に、太平洋側の晴れた様子をテレビで見ると、飛び出したくなることはありますね」

「なるほどね」


 私はまだここの冬を経験していない。

 雪深いことは知っているが、どんな感じなのだろうか。


 私の小さな歩幅合わせて、彼はゆっくりと歩いてくれる。

 その自然な心遣いと変わらない笑顔には感謝をしている。



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