第12話 黒いもやと、闇魔法
「アルティア様っ!」
私は叫びながら、その黒いもやに向かって走ろうとする。
けれど、足が、進まない。
もやが、まるで壁みたいにそこに立ちはだかっていた。
「なにこれ……!」
黒いもやに触れた指先が、冷たく、痺れるように痛んだ。
まるで、生きているみたいに、私を拒んでくる。
「アルティア様、返事をしてください!」
呼びかけても、何の反応もない。
ただ黒いもやが、静かに揺れているだけだった。
(これは、本当に魔法?)
尋常じゃない。
こんな魔法、私は知らない。
これは明らかに――異常だ。
「セレナ!」
背後から呼ばれた声に振り返ると、そこにはラファエル様がいた。
彼も黒いもやを見て、顔を強張らせている。
「危ないぞ、下がれ!」
そう言って、私の腕を掴んで引き寄せようとする。
「でも! あの中に、アルティア様がいるんです!」
私の言葉に、ラファエル様の目が大きく見開かれる。
「……まさか、アルティア嬢が?」
彼は黒いもやをじっと見つめ、その場で立ち止まった。
「アルティア嬢が出した魔法なのか?」
「いえ、違うと思います。アルティア様が何か拾おうとした瞬間に出たので、その物体のせいだと……」
「なるほど、何かの魔道具だったのか……」
ラファエル様はしばらく考え込んでから、静かに言った。
「これは……魔法による結界の一種かもしれない。でも、ただの黒いもやじゃない。魔力を帯びている」
「どうすれば、アルティア様を……!」
「君の火魔法で、あの黒いもやを吹き飛ばせないか?」
ラファエル様の提案に、私は息を呑んだ。
「そんなことしたら、中にいるアルティア様が――!」
私が否定しようとすると、ラファエル様がきっぱりと続けた。
「僕の風魔法で、炎を制御する。君の魔法が直接アルティアに届かないように、もやだけを狙う」
「っ、そんなことができるのですか?」
「ああ、これでも風魔法には自信がある。僕を信じてくれ」
その言葉に、私は戸惑いながらも、ラファエル様の目を見つめた。
彼の瞳は真剣で、何の迷いもなかった。
「……わかりました。お願いします!」
「よし、タイミングは僕が合わせる。全力でいくぞ」
私は大きく頷き、杖を握りしめた。
胸の中で、強く思う。
(アルティア様を――必ず助ける!)
そのために課金アイテムで火魔法の威力を上げたんだ。
魔力を込めて、火魔法を構える。
私はひと呼吸で集中し、宝珠で膨らんだ魔力を胸元へ集める。
赤い光が指先に宿り、空気が熱を帯びる。
「フレイム・ヴェロシア!」
爆ぜる火線が、真っ直ぐ闇の壁へ突き進む。同時にラファエル様が杖を振る。
「エアロ・リダイレクト!」
風が細い管をつくり、私の炎を包み込んだ。
轟、と渦巻く。
炎の竜巻――けれど中心は空洞で、熱は黒いもやだけを舐め取るように走る。
瞬間、ごうっ――!
闇がめくれ、煙の膜が剥がれ落ちる。
まるで大きな幕を引き裂く音がした。
ほんの数秒で、黒い霧は跡形もなく消え去り、ひんやりした空間に白い蒸気だけが残る。
視界が晴れると、そこには蹲っているアルティア様の姿があった。
「アルティア様!」
私は駆け込んだ。
床に膝をつき、肩で息をしている銀髪の姿が目に入る。
「大丈夫ですか!? 怪我は……」
アルティア様は、しばらく呆然とした様子だった。
でも私の声に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「セレナ……?」
「はい、私です!」
彼女は目をぱちぱちと瞬かせたあと、小さく首を振った。
「だ、大丈夫よ。私は……」
「本当に、大丈夫ですか?」
「ええ……少し息苦しかっただけ」
私は心配で胸が締め付けられる思いだった。
でも、アルティア様の身体に怪我はないようで、ホッと胸を撫で下ろす。
「よかった……」
そこへ、ラファエル様もやってきて、膝をついてアルティア様と視線を合わせる。
「無事でよかったよ」
「ラファエル様も、ありがとうございます!」
私は思わず頭を下げる。
彼がいなければ、あの黒いもやを払うことはできなかった。
「ふふ、上手くいって良かったよ」
ラファエル様は、少し照れたように笑った。
その時、周りで見ていた生徒たちや先生たちが駆け寄ってきた。
「今の、何だったんですか!?」
「大丈夫ですか!?」
「黒いもや……見たことがない魔法ですが」
心配の声と質問が次々に飛んでくる。
私は何と答えればいいか迷ったけれど、その時――。
「――今のは闇魔法だ! 禁忌の力を使ったに違いない!」
声が響いた。
振り返ると、そこにはレオナード王子がいた。
金の髪は整えられているのに、どこか余裕のない表情だ。
パーティーでの失態のあと謹慎と継承権剥奪を受け、王族でありながら影の薄い存在に成り下がった――けれどその劣勢を覆す機会を、必死で探しているように見える。
その目は、アルティア様を責めるように光っていた。
「レオナード王子……」
私は、ぞっとした。
彼の狙いが、まだ終わっていないことを、その目が語っていた。
生徒と教師は距離を取り、口を閉ざしたまま成り行きをうかがっている。
そこへレオナード殿下が足音高く歩み出た。
「諸君、今の現象を見ただろう」
殿下は手を広げ、説明するような口調で声量を上げた。
「闇の力――闇魔法だ。かつて幾つもの王国を滅ぼした禁忌の魔法が、この学園で発動したのだ!」
言葉は説明というより宣告に近い。
まるで事前に黒いもやの正体を承知していたかのような自信が乗っている。
──やっぱり殿下、あなたが仕掛けたんですね。
アルティア様は制服の埃を払いつつ、背筋を伸ばした。
大勢の視線を受けても表情は崩れない。
「私は何もしておりませんわ。落ちていた杖を拾おうとしただけです」
手の中の杖は質素な木製で、魔石どころか彫刻もない。
だが殿下は口端をゆるめる。
「何もしていないと主張するのは簡単だ。闇魔法を扱える者は今はこの世にいないのだが、今の黒いもやが魔法であることは間違いない。それでいて四大魔法でもなく、光魔法でもない。ならば、闇魔法であることは明らかだ」
低いざわめきが周囲に広がる。
興味と不安が混ざった視線が一斉にアルティア様へ向き、空気がひんやりと濁った。
私は唇をかむ。
周りにいる者達の視線が的外れなことを伝えたいが、何もできない。
「疑惑を払うなら、この杖を調査すればよろしいでしょう」
アルティア様は扇子を閉じ、落ち着いた声で提案した。
「ブライトウッド家が責任をもって――」
「それでは意味がない」
殿下がすかさず言葉を遮る。
「疑われている当事者の報告など誰が信じる? ここは私が預かって王宮で解析しよう」
押しつけに近い言い分だが、筋は通っている。
アルティア様の指が微かに強張る。
「――なら僕が引き受けよう」
青髪を夕陽に透かし、ラファエル様が静かに割って入る。
「僕は第三者だし、アスター公爵家の名に懸けて公正に調べるつもりだ」
「貴様には関係ない!」
殿下の声はわずかに上ずった。
「今の殿下に公正を語る資格は乏しいと思いますよ、特にアルティア嬢の件では」
ラファエル様は穏やかな笑みを崩さず切り返す。
先日のパーティーでレオナード王子がアルティア様に悪意を持って断罪しようとしたことは、知れ渡っている。
問題となっている杖を調べるといって、何か不正をするかもしれない、と周りの者達は思うだろう。
しばし無言の睨み合い。
やがてレオナード王子は舌打ちし、踵を返す。
「好きにしろ。どうせ何も出はしない」
レオナード王子は不敵に笑い、去っていった。
人の輪が解けると、長く伸びた影だけが校庭に残った。
私はアルティア様のそばへ歩み寄り、声を潜める。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ。少し驚いただけよ」
掠れた声ながら強さを失わない瞳に胸を撫で下ろす。
彼女は学園の方向へ歩き出した。
その背中が夕陽に溶けていくのを見送りながら、私の心には鈍い不安が残る。
レオナード王子があの杖に何を仕掛けたのかはわからない。
だけど──私は原作を知っている。
アルティア様には、闇魔法の才能があることを。
彼女を悪役令嬢とする運命が、物語を原作へ引き戻そうとしているのだとしたら――。
「セレナ嬢」
背中で呼ばれ、振り向くとラファエル様が杖を抱え直していた。
「彼女の身は僕が証明する。安心していい」
穏やかな微笑みは頼もしく、胸の支えが少し軽くなる。
「ありがとうございます。私も協力します」
私は頷きながら、強く決意する。
闇も陰謀も運命も、推しを傷つけるものなら――全部まとめて焼き払ってみせる。




