141.5 悪夢
「駄目です、お姉さまッ! 入ってはいけませんッ!」
「はぁ? なんでティーにそんな事言われなくちゃならないの?」
桃色の浴衣を着たお姉さまが、眉を顰めティノを睨みつける。
その視線だけで身体が竦みそうになるが、なんとか自分を叱咤し、ティノは拳を握りしめた。
ティノが背にしているのは露天風呂に続く一枚の扉だ。ドラゴン騒動で大浴場は破壊されたが、この宿は高級なだけあってそれぞれの部屋に露天風呂が設置されている。
ティノも自分の部屋で入ったが、手足を広げても数人が入れる広さで、とても気持ちのいい温泉だ。さすがに大浴場よりは狭いが、設備に不足もなく、ドラゴンも出たりしない。あまりの贅沢さに罪悪感が湧いてしまったくらいである。
温泉に入りたければいくらでも入れば良いと思う。だが、なんで言われなくちゃならないのかわからないのはティノの方だ。
後ろの扉の向こうからは極小さいが鼻歌が聞こえてくる。ティノは手を大の字に広げ、お姉さまの前に立ちはだかり、声を震わせ叫んだ。
「今は、ますたぁが入浴中ですッ! ご自分の部屋のお風呂に入ってくださいッ!」
意味がわからない。どうして個人の部屋にお風呂があるのに、この師匠はわざわざますたぁの部屋のお風呂に入ろうとするのか。
いや、意味はわかる。お姉さまはますたぁの事を好いているし、普段の様子から考えても感情を抑えるようなタイプではない。
だが、それにしても――余りにも見過ごせない。
だから、ティノがいるのだ。ますたぁから褒められた浴衣を脱ぎいつもの衣装に着替え、扉の前に立っている。
ティノは一度大きく深呼吸すると、炎のようなエネルギーを瞳に宿すお姉さまに言った。
「良いですか、お姉さま? ますたぁが、見張れ、と言ったんです!」
「ふーん。見張ってたら? どいて」
「私は、ますたぁに、いいました。お姉さまは、そんな破廉恥な事しないってッ!」
ティノの感性では、異性が入浴中に侵入するなどありえない事だ。やむを得ない緊急事態にドラゴンと戦うことすら恥ずかしくて死にそうだったのだ。
お姉さまならばやりかねないとは思っていた。いつも全く遠慮なしにべたべたとますたぁに触れる姿を見ている。
だが、ティノはお姉さまを信じた。信じたのだ。まさか番を任されて初日に裏切られるとは思わなかったが。
弟子の言葉を聞き、お姉さまは呆れたように手を腰に当て、目を細めた。すらっとした体型に浴衣がとても良く似合っている。いつも装備している『天に至る起源』も今は待機形態のようだ。
浴衣は動きづらい。戦闘服ではないのだ。恐らく、何かあったとしても素足の方がまだやりやすいと思ったのだろう。
「破廉恥って……あんたねぇ。男の裸が苦手なんて、冗談でしょ? 何? あんた相手が真っ裸の男だったら戦えないわけ?」
「!? 話を、そらさないでくださいッ! 私は、ますたぁに頼まれてここを守っているのですッ!」
敵だったらいくらでも戦える。必要ならば入浴中に奇襲だってするだろう。
だが、今回は敵ではない。敵ではないのだ。
しかしお姉さまはわかってくれる気配はなかった。まるでこちらの正気を疑うような目をしている。
「ふーん。まーいいや。もう一度言うけど、どいて? 私、クライちゃんの背中流すんだから」
「駄目ですッ!! お姉さま、わかってください……」
「私は、クライちゃんと同じパーティよ? ちっちゃいころからずっと一緒だし、一緒にお風呂入った事くらいあるっての……大丈夫、ティーはちゃんと言うこと聞いてたって言ってあげるから」
「…………」
「大丈夫。クライちゃんなら、しょうがないなあリィズはって言うから」
ティノは無言で構えを取る。右足を前に、姿勢を低く。呼吸を落ち着けお姉さまを見る。
きっと今、自分は慈悲を乞うような目をしている事だろう。
たとえ浴衣というハンデがあったとしても、恐らくティノはお姉さまを止められない。敏捷も膂力も何もかもが負けている。
お姉さまは、目を瞬かせ首を傾げる。長い袖をまくり、両手の指を組み合わせながら言う。
「ふーん……ティー、あんた…………もしかして、強くなった? まさか私に――逆らうなんて……」
「お、お姉さまの、教育です」
命令優先度は第一にますたぁ。第二にますたぁで、第三と第四にますたぁだ。
周囲を確認する。わかっていたが、武器に使えそうなものなどはない。ますたぁの部屋をめちゃくちゃにするわけにはいかない。使えるのは己の身一つだ。
仮面を被った時の事を思い出す。感情が高ぶり冷静な判断などはできなかったが、その時の身のこなしは身体が覚えていた。
全力を出せば――もしかしたらお姉さまを拘束できるかもしれない。
お姉さまは本気だ。爛々と輝く目を見ればわかる。
覚悟を決めるティノにお姉さまは眉を顰めていたが、小さく溜息をつき予想外の事を言った。
「ばっかじゃないの? そんな命令に愚直に従うんだったら、クライちゃんの背中くらい流せっての」
「???? え?」
「護衛は露天風呂の中でもできるでしょ? 気が利かなすぎ……あ、そうだ。ティー、私と来い。真っ裸の男にも耐性ができるし、背中の洗い方教えてあげる。一石二鳥じゃない?」
お姉さまと……行く? どこへ? 背中を……流す? 誰の?
一瞬何を言われているのかわからなかったが、すぐに意味を理解し、頭の中が真っ白になる。
心臓の鼓動が加速し、いてもたってもいられない気分になってくる。唇を強く結ぶ。きっと今の自分は顔が真っ赤になっているだろう。
ますたぁの、背中を? 無理だ。絶対に無理。
多分……たとえますたぁに命令されたとしてもそんな真似はできない。恥ずかしくて死んでしまう。
動揺したのは一瞬だった。だが、気がついたらお姉さまは至近距離にいた。
その手が乱暴にティノの手首を掴み、強い力で引かれる。
そのまま、お姉さまはあっさり扉を押すと、中に入っていった。
――ティノを捕まえたまま。
「クライちゃーん! 一人じゃ寂しいでしょ? 背中流してあげる!」
「おねえさま、だめぇッ! ますたぁ、逃げてくださいッ!」
微かな蒸気が頬を撫でる。お姉さまが空いている方の手で、恥じらいも躊躇いもなく帯を解き始める。
ティノにできるのは力いっぱい目を閉じ、お姉さまに抱きつき拘束を試みる事だけだった。
§ § §
「ななな、なんで、なんでシトリーお姉さままで、くるんですか……ここは、ますたぁの部屋ですよ?」
「それはこっちのセリフなんだけど……ティーちゃん、何やってるの?」
シトリーお姉さまが不思議そうな表情でティノを見る。場所は言わずもがな、ますたぁの部屋の露天風呂の扉の前だ。
お姉さまと異なる涼やかな色の浴衣がよく似合っていた。右手には白い布を持ち、目を頻りに瞬かせている。
その双眸にはお姉さま程のエネルギーはないが、深い知性が見え隠れしていた。
シトリーお姉さまは声を荒げなかった。しばらく沈黙していたが不意に唇に指を当て、言う。
「もしかして……覗き?」
「ち、違いますッ! ますたぁから、ここを守れって言われたんですッ!」
「なんだ……よかった。ティーちゃんがそんな悪い子だったら、お仕置きしなくちゃならないところだった」
ぞくりと背筋に寒気が走る。シトリーお姉さまの声は冗談めかしていたが、その目は本気だった。
覗きなんて考えたこともないが、もしも本当にティノの目的が覗きだったらどうなっていただろうか……。
改めてお姉さまとの違いを強く感じる。
お姉さまは暴力的だが、ティノを疑ったりはしない。シトリーお姉さまは穏やかだが、常にますたぁに近づく者に目を光らせている。敵、味方無関係だ。
「じゃあ、頑張って」
シトリーお姉さまは見惚れるような笑顔を浮かべると、ティノの横を通り抜けようとした。余りの自然な動作に動くのが遅れるが、慌ててその腕を捕まえる。
お姉さまだったら間に合わなかっただろう。
「ままま、待ってください! な、何、行こうとしてるんですか! 今は、ますたぁが、入浴中ですッ!」
「? そりゃもちろん、背中を流そうと――」
「!?」
行動が姉の方と同じだ。しかも余りにも悪びれがない。
腕をしっかり捕まえ、身体を回転させるようにして目を丸くしているシトリーお姉さまを扉から遠ざける。
油断ならない。余りにも油断ならない。お姉さまといい、ますたぁが扉を守らせたのも当然の行いに思える。
「だめ、駄目ですっ! シトリーお姉さま、はしたないですッ! 私はますたぁにここを通すなと言われてますッ!」
幸い、シトリーお姉さまは後衛職だ。身体能力はティノの方が高い。先程のように意識の空白を突かれなければ大丈夫だろう。
必死に扉をガードするティノに、シトリーお姉さまは目を瞬かせ、首を傾げた。
「あれ? ティーちゃん――はしたないって、もしかして誤解してる?」
「……え?」
誤……解?
目を丸くし緊張を緩めるティノに、シトリーお姉さまは頬を僅かに染めくすくすと笑う。
「ティーちゃん、私が……裸で奉仕すると思ってるでしょー? やらしーんだぁ」
そのからかうような口調に、一瞬で顔が火照る。肌が耳まで真っ赤になる。
確かに、思っていた。シトリーお姉さまは温厚な性格だが、ますたぁへの距離感はお姉さまに負けず劣らず近い。
求められれば何だってやってしまいそうな危うさがある。
「え……ええ……? ち、違う、んですか?」
「違うよ? 私、ティーちゃんと違ってえっちじゃないし……ほら、ちゃんと湯浴み着、持ってきたから」
シトリーお姉さまはニコニコしながら手に持っていた白い布を広げる。
バスタオルかと思っていたそれは、白い湯浴み着だった。ゆったりとした薄い生地で、少しだけ浴衣に似ている。
「これを着て背中を流せば、ほら、肌を見せずに済むでしょ?」
「な、なるほど…………」
「くすくす、私が、簡単に肌を見せるわけないでしょ。お姉ちゃんとは違うんだから」
「す、すいません、誤解してました……」
まさかそんな手があるとは……さすがシトリーお姉さまは物知りだ。ずっと裸で入る温泉しか知らなかったから、そういうものだという先入観に囚われていた。
頭を下げるティノの横を、シトリーお姉さまがにこにこしながら、しとやかな所作で通り過ぎる。
扉が静かに閉まる。ティノは気を引き締め直し、大きく深呼吸をした。
「…………………?」
だが、すぐに何か忘れているような気がして、目を二、三度瞬かせ、背後にある扉にそっと視線を向ける。
物音一つしない扉をしばらくじっと見つめて考えていたが、我に返り慌てて扉を叩いた。
「シトリーお姉さま!? 関係、ないですッ! 湯浴み着とか、関係ないですッ! 入っちゃ駄目ですッ! シトリーお姉さま!?」
そもそも、あんな薄い湯浴み着――おまけに白だなんて、濡れたらすぐに透けそうだ。もしかしたら、濡れなくても透けるかもしれない。
シトリーお姉さまがそれに気づかないわけがない。完全に確信犯である。簡単に肌を見せないと言っていたが、背中を流しに行っている時点で怪しいものだ。
「ますたぁぁぁ、逃げてくださいッ!」」
ティノは一瞬ためらったが、すぐに覚悟を決めた。
全部自分のせいだ。ますたぁの期待には応えなくてはならない。シトリーお姉さまからますたぁを守らなければ!
目を強くつぶると、一度深呼吸をして、ティノは扉の中に飛び込んだ。
§ § §
「???????」
「あんぎゃあ?」
どこかで見たことのある薄水色の丸っこいドラゴンが、ティノを見て首を傾げる。
ティノもまた、その姿を見て首を傾げた。後ろにあるのは露天風呂への扉だ。
どうして室内にドラゴンがいるのだろうか?
書籍化作業につき、更新が遅れてしまい申し訳ございません。(次回からある程度頻度を戻せそうです)
閑話です(タイトルの通り)。次回から何事もなく地獄が始まります。
活動報告にて、コミカライズ版キャラデザ⑥と年表・コミカライズ開始日程についての記事が上がっています!(活動報告二回分)
キャラデザ第六弾はいつも元気なあの子です。
年表はクライの大まかな歩みが分かる内容になっています。
よろしければご確認くださいませ。
/槻影
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P.S.
書籍版一巻、二巻についても発売中です。
続刊やWeb更新速度に繋がりますので、そちらもよろしくお願いします!




