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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第十三章 完結
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19.ワグナーの決断

 スノーフィールドは、閉鎖的だった過去の産物である重い門扉を再び閉じ、高い塀に囲まれた居住区の中で息をひそめた。大いなる神の力を得た君主と核の働きによって一度は開かれた土地だったが、闇が世界を覆った今、やれることは限られていた。

 次々と闇に飲み込まれ魔物と化していく人々。その脅威は目前まで迫っている。君主と核がここに拠点を置いたのは三年前だ。東、南、西と、闇の脅威は広がり、ついに極北にあるスノーフィールドまで追い詰められたのである。

 なすすべもなく祈りを捧げる日が何日続いただろか。討伐に明け暮れる君主と核の力にも限界がある。となれば救いの主はただ一人だが、気配はいっこうに現れない。

「界王はこの地をお見放しになったのか」

 極北の民は嘆いたが、わずかな希望のために祈ることをやめなかった。

 君主と核は一日の終わりに帰ってくる。疲れた身体をしばし休めるためだ。二人の無事を確認して一様に安堵する民。その波をかき分けるようにしてワグナー・リスキンスが現れ、一礼して迎え入れる。

「お帰りなさいませ。食事を用意しておりますが、いかがなさいますか? 先にお休みになりますか?」

 キールが馬から降りつつ「休む」とひとこと告げるとワグナーは会釈し、「かしこまりました」と答えて馬を引き取る。

 毎日繰り返される光景だ。だがいつまで続くかは分からない。核の守り手であるキールも、核本人も、連日の討伐で精も根も尽きかけている。大げさではなく、本当に界王の救いがなければどうしようもない状況だった。


 キールとサンドライトが屋敷に引き上げるのを見送ったあと、ワグナーは馬を繋いで居住区内を見回った。胸中にあるのはいつも嘆きと苦しみである。神に匹敵する能力を携えた君主が核の目に留まり、スノーフィールドが一気に名を挙げた輝かしい時代は、もはや幻だ。

 空も大地も混沌の闇。侵された者は魔物と化して核を襲い、籠城する民は笑顔を忘れ、天に祈り続けている。誇りなど意味がない。名誉にも価値がない。この一秒先に「人」でいられることが唯一の望みなのだ。ワグナーにとっては世の終焉も同然だった。


 ワグナー・リスキンスは幼少の頃から栄光を夢見る男だった。マークレイ家に仕えた家柄の影響もあったが、生まれつきの野心家だ。何事においても一番でなくては気が済まず、とても負けず嫌いで、身なりにも気を使った。しかしだからといって己が王になりたいというわけではなく、あくまでも心から畏敬の念を払える人物に仕え、右腕として活躍したいという、少々奇妙なこだわりを持っていた。勉学や剣術は一番を目指すが、こと権力という場面においては二番か三番が丁度いい、という具合だ。

 そのようなわけで、己が仕える君主に相応のものを望む傾向が人一倍強かったワグナーは、異民族との混血児であるキールを目の敵のように嫌った。当時、異民族との婚姻は禁忌に等しく、特にマークレイ家ではご法度だったからだ。しかし能力の高さを知ると手の平を返した。キールこそ己の野望を完璧に叶える君主に違いないと確信したのである。その野望とは、閉ざされた故郷での名声にとどまらぬ、開かれた世界での名声だ。

 シュー・サンドライトより直々に書簡をたまわった時のことを、彼は一日たりとも忘れたことがない。核がキールの弓の腕をかって側近に据えたいと言ってきたその日、スノーフィールドの民は大いに湧いた。このような名誉は後にも先にもないことだったからだ。


 書簡を読み上げたキールは沈痛な面持ちでため息ついた。

「正気なのか」

 それは民とワグナーに向けられた言葉だ。ワグナーは息をのんで拳を握った。

「スノーフィールドの名を高める千載一遇の好機です」

「失敗すれば滅びるぞ」

「貴方様の力は特別です。核からお声がかかったのも、界王様のお導きに違いありません」

 キールは舌打ちしてそっぽを向いた。その自信はどこから来るのかと理解に苦しんでいるふうである。むろん、ワグナーにも確たる根拠があるわけではなかった。しかし歴代の君主と違い、キールの能力は神が持つ「それ」としか形容しようのないほど完全である。かつてないこの変調は、スノーフィールドにおける革命的な転機の(しるし)としか思えなかったのだ。

 ワグナーの気持ちをくんだキールはもう一度ため息ついて、視線を戻した。

「とにかく、無視するわけにはいかない。一度会って真意を探ろう」

「真意?」

「我々の秘密を嗅ぎつけられたのかもしれない」

「まさか……罠だと?」

「慈悲深く愛に溢れた御魂の持ち主である核がそのように姑息な手を使うとは考えにくいが——まあ、会えば分かる」


 ワグナーの予感は確かであった。

 結局キールは核に仕え、のちにスノーフィールドを解放した。間違いなく転機だったのだ。否、スノーフィールドだけではない。それはキールの来世にまで影響を及ぼすほどの出来事だった。


 しかし、華やかな時代は光陰のごとく過ぎ去った。

 むろん、核の守り手の側近という肩書きは今でも効いていないわけではない。彼は最後の砦となったスノーフィールドにおいて秩序を支配する立場にある。君主と核が討伐に出かけているあいだは統治者だ。が、未来のない現状にそのような立場が何になろう。

 日々悲嘆に暮れるワグナーは、道々思い思いに腰をおろし、いつものように祈る人々の中を歩いていた。治安を維持するための見回りだ。

 あの男も、この女も、そこの幼子も、悪夢のような日々から救われることを祈っているのだろう——そんなふうに思いながら人々を見守る。同時に、「もう分かっているだろう」とも思う。我々は救われないのだ、と。

 多くの者が魔物と化し、核の手によって葬られてきた。魔物と化した者と未だ人としてある者のあいだに差はない。暮らしている場所が違っただけだ。つまり、救われるものなら多くの犠牲が出る前に救われていたはずだと思うのである。この期に及んで界王の手が差し伸べられないのは、世界を閉じる決定を下したからだろうと。

 肩を落としてため息をつくワグナーの胸に風が吹きつけた。冷たい風だ。その風は上に舞い、首元をかすめる。しかしその時だった。

 普段は祈りの言葉を聞かないようにしていたワグナーの耳に、ふと少女の声が聞こえてきた。それは不思議なほど鮮明だった。

「……闇に侵されても、どうかサンドライト様を傷つけませんように」

 ワグナーは思わず視線を向けた。すると後ろからも声がした。老婆の声だ。

「この世が滅びることになっても、キール様とサンドライト様だけはお守りください」

 ついで男の声も聞こえた。

「我々に核を守る力がないのなら、せめて害をなさぬよう、ご慈悲をください」

 ワグナーは衝撃を受けて、その場に立ち尽くした。

 誰も己が助かることを訴えてはいない。ただ一途に、君主と核の身を案じている。あちらの老人も、こちらの若人も、小さな子供も。

 いつからだ、とワグナーは自分の記憶を探った。だが分からなかった。「人間とは己の魂が救われることを望むものだ」という固定概念に縛られ、民の内なる声に耳を傾けてこなかったせいである。

 ワグナーは震える腕を抑えるように、拳を握った。自分は何を勘違いしていたのだろう、と。哀れなのは民ではない。地位や名誉に重きをおいて、真に大切な心を置き去りにしていた己ではないかと。

 ちゃんと耳を傾けていれば、聞こえていたはずだった。彼らの純粋な祈りが——だが悪夢にうなされ、悲壮な世界に嘆いていた自分には聞こえなかったのだ。

 気付きを得たワグナーは、己を恥じ、心を改めた。民のためにできることを探さねば、と。そして初めて、ほかの民と同じように手を顔の前で組み、天に向かって祈った。

「民の願いのために、私にできることをお授けください」


 その夜、ワグナーの耳に声が届いた。それは妙なる調べのように心地良い響きを持つ声だった。

『民のために祈るお前の心に応えて、ひとつだけ望みを叶えてやろう。この世は閉じてしまうが、その理に逆らわぬことなら願うがいい』

 ワグナーは驚き、畏れつつも、たったひとつしか叶わぬ望みを慎重に考えた。

 どのように願えば核のためになるのか。

 どのような願いならば君主の助けとなるのか。

 民の心をひとつにした望み、あるいは核と君主が想うところは何か。

 目を閉じて真剣に考えていたワグナーは、ふと眉をしかめた。

 民の願いを聞いて核や君主に害をなさないものになったところで、この世は閉じてしまう。核と君主の願いを聞けば、理に逆らう。何を願ったところで、現状は救われない。ならば何のために祈るのかと。

 ワグナーは心の闇をさまよった。時に民の声に耳を傾け、時に核の眼差しを思い浮かべ、時に君主の言葉を記憶から探った。そしてあることを思い出した。

「サンドライトは理想郷をなさないだろう」

 キールが不意ともいえるタイミングでそう語った時のことだ。ワグナーは目を丸めてキールを見つめた。

「何故です?」

「サンドライトには三つの選択肢が与えられている。この世を理想郷に導く道と、民の魂を昇華へ導く道と、崩壊へと向かわせる道だ。しかし崩壊はあり得ないので、選択肢は実質二つだ」

「では、昇華の道を選ばれると?」

 ワグナーが質問すると、キールは微かに笑った。

「私は人間の心を深く理解するために、多くの者を透視した。もちろんサンドライトも。そこで私は絶対に揺るがないひとつの心を視た。すべての者に共通する願いだ」

「それは一体、なんですか?」

 キールは一拍置き、やや皮肉そうに笑った。

「界王の愛に応えることだ」


 あまりに漠然としたことで、ワグナーには理解不能だった。それがどうして昇華の道を選ぶことになるのかも。しかし極限に立って神経を研ぎ澄ましてみると分かることがある。

 人は何故生きるのか。それは己の魂を磨くためだ。己の魂を磨いて神になるのだ。ならば神になってどうするのか——界王の愛に応えるのだ。そのためにもまた、神にならねばならない。普通の神では駄目だ。願わくは神を超える神が理想である。それが答えだ。

 とはいえ、それは果てしなく困難な道のりだ。幾多の憂き目をかいくぐり、乗り越え、また歩かねばならないだろう。そうしても尚、救われない危機に直面することもあるだろう。今まさにその道を歩いているように。

 ワグナーは目を開けた。額には汗が吹き出している。今こそスノーフィールド最大の転機であると確信するがゆえだ。

 たとえ肉体を失っても、永遠に続くであろうこの魂のために、ここでできる最良の選択肢を生み出さねばならない。民の願いと、核と君主の想い。そしてすべての者に共通する目的。それらを網羅する願いだ。


 そしてワグナーは、「この時代」を捨てる覚悟を決めた。

「スノーフィールドの民の魂を貴方様に託します。どうかそれを焼いて、剣を」

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