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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第十三章 完結
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11.結晶石

 人質役から解放された沙石は、疲れてどっとソファに腰掛けた。そして呆れ顔で青衣の男を眺めた。

「よくやるよな」

「誰のせいだ」

 泰善は言葉を返しつつ、顔を覆っている布を取り去った。影響を抑えるには必要だが、理を制御するには邪魔だからだ。

 そんなに簡単に顔を拝めると思っていなかった沙石は、意表を突かれた驚きと、顔そのものに対する驚きとで、息を止めた。

 漆黒の艶と黄金の輝きを合わせ持つ美しい臙脂色の髪。この世の悲しみを映す麗しい瞳は青く煌めき、すべてを愛でる瞳は淡い緑色の柔らかい光を秘めている。あらゆる美が絶望するほどの美貌だ。それは腕に蔓延る朱の紋様を見た時以上の衝撃だった。

 沙石は硬直し、しばらく絶句した。心に脳が追いつかないような、魂が体から抜けてしまったような感覚である。が、やがてなんとか我を取り戻し、口を動かした。

「なんだこれ」

 見た目がとんでもないという感想を沙石なりの言葉で表現したわけだが、シュウヤは少し目を見開いてそっぽを向き、泰善は不機嫌な顔をした。

「お前はそれしか言えないのか」

「は?」

 沙石は首をかしげつつ、茫然と泰善の顔を見上げるように見つめ、何気なく右目を直視した。

 すると急に魂がグッと引き寄せられる感覚に襲われたので、思わず側にあったクッションを握りしめた。泰善もとっさに右目を片手で覆って一歩引いた。

「まずい」

「え? 何かあったのか?」

 シュウヤが目を向けると、沙石が額に汗を浮かべて床を凝視し、ガクガクと震えていた。急速に血の気が引いていっている様子から、ただ事じゃないということは分かるが、何が起こったのかは判断がつかない。

「お、おい?」

 訳が分からずに困惑するシュウヤの横で泰善が、

「早く切れ!」

 と沙石に指示した。しかし沙石は首を横に振った。

「……無理、っぽい」

「ど、どうしたんだよ?」

「沙石の魂が俺の眼を結晶石と勘違いして結びついた」

「——んな、なんだって!?」

 シュウヤはありきたりに驚いたあと、やにわに冷静になった。

「それって勘違い?」

「俺の眼は石じゃない」

「だろうけど、内容が一緒なら一緒だろ?」

「わ、わけ分かんない話、してねえで、なんとか、してくれ。重……い」

 沙石はソファから滑り落ちて、床の上に転がった。一人で巨大な天上界を一気に背負ったせいである。

「参ったな」

 泰善は頭を抱えた。さすがの界王も想定していなかった事態なのだろうと察したシュウヤは、じわじわと緊張感を高めた。

「どうするんだ?」

「仕方ない。核を招集しろ」

「……まさか」

「ここまで大きくなった天上界を一人では支えきれない」


***


「沙石を解放して欲しければ、すべての核を最上階へ寄越せ」という要求に対し、上層部では再び話し合いの場がもたれた。

「このまま要求に応じるのですか」

 そのような意見に、帝人は頭を悩ませた。言葉に従っても沙石が解放されるという保証はない。そのうえ、ほかの核まで拘束される可能性がある。安易には決められなかった。

 とはいえ、シュウヤがしつこくがなり立てるので、いつまでも返答を渋ってはいられない。

「早くしろ! 沙石がどうなってもいいのか!」

 なんという野蛮な奴らだ、と誰もが思った。むろん帝人も思ったし、招集を受けている核もそれぞれ嫌悪感をともなって思った。しかし沙石を人質に取られている以上、突っぱねることはできない。まことに遺憾だが、折れなければならないのは時間の問題だった。

 そして小一時間話し合った末、

「沙石様を奪還できる隙があるかもしれません。行ってみましょう」

 と大龍神が発言して、ようやく帝人は決断した。

「なんとしても取り戻してくれ」

「はい」


***


 大龍神、妝真、桜蓮の顔は緊張で強張っていた。いや、沙石奪還という大義のため気を引き締めているのかもしれない。

 寅瞳は三人の様子を覗き見ながら、悲しい気持ちと不安に襲われた。

 シュウヤは必死だった。それは脅しとしか捉えられない暴言に聞こえたが、寅瞳はすぐに沙石の身に何か起きたのだと解釈した。それを救う手立てとしてほかの核が呼び出されたのに違いない、と。しかし真意は理解されないまま、敵意だけが蔓延している。この憂える状況が、ただひたすら居たたまれないのだ。

(ああでも、あの方にお会いになって、何のために呼び出されたのか分かれば、きっと……)

 寅瞳は心の中で祈るように指を組んだ。


 シュウヤに案内されたのは、沙石の部屋だった。誰もいない居間を通り過ぎ、寝室のドアが開かれる。その間、シュウヤはひと言も喋らなかった。敵に背を向けて歩く姿に恐れはない。後ろから襲われても対処できる自信があるのかもしれないが、それにしても無防備である。

 大龍神らが躊躇し、不審に思いながら注意を払っていると、シュウヤはやはり無言のまま、ベッドのカーテンを開けた。いろいろ口で言うより見たほうが早い、という振る舞いである。実際、その通りだった。

 寅瞳は、ハッとして駆け寄った。沙石が横たわっていて、熱にうなされていたからだ。

「どうしたんですか!?」

 寅瞳が問うと、背後から声がした。

「俺の右目と結合した」

 呼び出された四人はギョッとして振り返った。が、身構える余裕は与えられなかった。一瞬で目と心を奪われたのだ。

 あまたの美を踏みにじり、究極の美を惜しげもなく費やした、凄まじく美しい男が立っている。それが青衣の男だということは声で分かったが、あまりの衝撃にそのような事実はどうでもよくなってしまった。

 オリーブ色のスラックスと、ラフに着た白いカッターシャツという出で立ちで、袖口のボタンも止めていなければ、靴も履いていない。休日を避暑地で過ごしているような、いわゆる部屋着で体裁を気にしていない格好だが、飾らないだけに美しさが際立っていた。

 大龍神と妝真は幻でも見ているかのように惚け、桜蓮は頬を染め、瞳を輝かせた。天上界一と謳われる帝人すら比較にならない美貌である。この世にこんなものが存在するのかと、驚きはひとしおだった。

「あ、あの……」

 寅瞳がやっと声を絞り出した。それを受けて泰善はうなずいた。

「結晶石は、俺の右目の力を得て創造されている。そのため内容は同じだ。だが核の魂と結びつくようにはできていない。元来はな」

「——あ、まさか」

「何かの作用で結びついてしまった。沙石は今、一人で天上界を支えている。結合を解くのが一番だが、沙石は解けないと言うし、核のほうからでなければ解くことができない以上、ほかに手はない。分かるな?」

 寅瞳が息を飲んでうなずくと、ほかの三人も理解して首を縦に振った。

「よし。では早くしろ」

 泰善は四人に歩み寄った。四人は泰善の右目を見つめた。

 淡い緑色の目。優しく輝く美しい瞳。その懐かしい煌めきは、まごうかたなき結晶石の光である。大いなる力と、世界を飲み込むほどの質量を持った愛。すべての生、すべての光、すべての喜びがそこにある。

 四人は感動に震えた。そして視界の端に映った朱の紋様に涙した。大龍神、妝真、桜蓮の三人もまた、真実を知ってしまったのだ。寅瞳が活動をやめようと言った、その真意を。


 結合がうまくいって一安心した泰善は、横たわる沙石の胸元に手をかざし、負担によって生じた不調を請け負った。沙石は目を開け、不服そうに睨んだ。

「請け負うなよ」

「核を治せるのは俺しかいない」

「だーかーら! 簡単に請け負うんじゃねえよ!」

 沙石は飛び起きて怒鳴った。しかし泰善は真顔で答えた。

「俺は今、自分にできることをやるしかない。情けない話だが、すべての死を請け負って身を滅ぼさないかぎり、理想郷を確立する力は与えてやれないからな」

 沙石は大きく目を見開き、全身の毛を逆立てた。

「なんだって? もういっぺん言ってみろ」

 泰善は眉をひそめた。

「どうした?」

「うるせえ! もういっぺん言ってみろ! 理想郷はどうやって確立したんだ!」

 沙石は怒りに震えていた。寅瞳らはショックですでに顔を真っ青にしている。すべての死を請け負った男から与えられた力で確立した世界——そんなことを知らされて平静でいられるはずはなかった。

 ここで言う死は、真実に「すべて」の死だ。世界から死の概念を取り去るという行為が示すものはそれにつきる。つまり、神や人が昇華するまでに経験するであろう幾度かの死をも含めた「すべて」である。一人当たり五回で一億人とするなら、五億回分の死だ。現実は五十億人あまりが存在し、人それぞれ経験する回数が異なるため明確な数値は計れないが、途方もない数である。

 怒りをあらわにする沙石を見つめて、泰善は目元をしかめた。

「何を怒っている」

「なっ、んなこと聞くまでもねえだろ!」

 しかし泰善は沙石の気持ちを受け入れなかった。泰善の目線では不条理な感情だったからだ。

「お前たちは理解していた。何をすれば理想郷が叶えられるのか、すべてを理解し、受け入れた上で確立したのだ。いまさら悲しんだり怒ったりするのは間違っている」

「な……なに言ってんだよ」

「神や人が理想郷を望むので、俺は一番確実で安全な方法を見つけた。そしてお前たちは導かれるままに理想郷を目指し、確立を成し遂げた。それだけの話だ」

「自分が犠牲になるとこ端折ってんじゃねえよ」

「後悔などない」

「オレは今、後悔だらけだ」

 沙石は大龍神らに向いて、人質になったのは地震を治めるための演技だったことを説明して謝った。むろん、それを知っていた寅瞳も一緒になって謝った。本当のことを言わなかった罪を反省したのだ。大龍神らは首を横に振り、危機的状況を乗り切るためだったのだから仕方ないと言って許した。

「で、これからどうするんだ?」

 シュウヤが冷静に問うと、泰善はため息ついた。

「どうもこうも——流転の理には圧力をかけているが、いつまで保つか分からない」

「大丈夫かよ」

「そうだな……昨日、この世界のクローンを造って実験してみたが、強引に理想郷へ戻そうとすると、逆に壊滅的ダメージを受ける。もっと自然に戻るような方法を見つけなければ駄目だろうな」

 泰善の発言に全員が注目し、シュウヤが目を丸めた。

「クローン!? 造ったのか?」

「ああ」

「そんなアッサリ?」

「現時点で存在するものの複製を造るのはたやすい」

 シュウヤは呆れつつ、髪の毛をくしゃくしゃとかき分けた。

「バターがないからマーガリンで、みたいな言い方されてもなあ」

「どういう例えだ」

「お前が本のページをめくるくらいの感覚でやることは、スケールでか過ぎるってことだよ」

 シュウヤは近くのソファに腰を下ろし、腕組みした。

「つか、そんなことができるんだったら、理想郷も複製しておけば良かったんじゃないか?」

「完全な理想郷は全く見えないから不可能だ」

「あ……そうか。え、でも、じゃあ結晶石は?」

「結晶石を形成するには、少なくとも世界の九割が流転の理に支配されていなければならない。そもそも現存するものを複製するのと、すでに失われたものを再現するのとは違う」

「うーん。いろいろ難しいんだな」

 シュウヤは唸り、会話を聞いていた核たちは固まった。どうやら流転の理の支配者というのは、それ以外にもありとあらゆるものを支配し創造している、本物の支配者らしいと判明したからだ。

 そんな彼らの気持ちを察したのか、泰善は核たちに向いた。

「とりあえず、お前たちは引き上げろ」

「えっ!? いいのかよ」

「ああ」

「なんで?」

 沙石の問いに、泰善は眉根を寄せた。

「帝人が心配するだろう?」

 何故そんな分かりきった質問をするんだとでも言わんばかりの顔を見て、沙石は一瞬沈黙した。これこそがこの男の本性だとハッキリ感じたからだ。そして、

「帝人には何て言やいいんだ?」

 と思わず聞くと、泰善はニッコリ笑って答えた。その笑顔はたとえようもなく素晴らしかったが、台詞はいただけないものだった。

「死ぬような目にあわされたが、ほかの核のおかげでかろうじて逃れられたとでも言っておけ」

 沙石は額に青筋を立てた。

「そんな嘘つけねえよ!」

「うっかり結合してそうなったのは事実だ。世が世なら即死していた」

「んなっ……! このっ!」

 何か言い返したいが言い返せないで顔を赤くしている沙石を、泰善はしっかりと見据えた。

「現実を見ろ。友も仲間も恋人も家族も、失いたくなかったら抗え。いつでも俺を殺す覚悟でいろ」

「なんでだよ」

「言ったはずだ。今はそれしかできないと。流転と停止は仇同士。相容れない者はどんなに理解し合っても敵だ」

 沙石は固く拳を握った。

「そんなのオレは信じない。あんたが敵だなんて、ぜってー思わねえから」

 沙石は踵を返して寅瞳の肩を叩いた。

「行こうぜ」

「えっ、あの、いいんですか!?」

「そいつはオレたちのことも帝人のことも、この天上界のみんなのことも心配で仕方ねえんだろ? だったら一個でも心配事なくしてやろうじゃねえか」

 そういうことか、と寅瞳はやや頬を紅潮させてうなずいた。大龍神や妝真、そして桜蓮もつられて微笑みながらうなずいた。

 彼らが立ち去ったあと、シュウヤはニヤニヤした顔で泰善を眺めた。泰善は目元をしかめた。

「なんだ」

「いや、別に」

「なんだ。言いたいことがあるんだろう」

「言っていいのか?」

「言え」

 シュウヤはおどけた様子で肩をすくめた。

「お前の負けだよ。誰もお前の愛には勝てない。だから負けだ」

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