04【シュウヤ】その弐
シュウヤは目覚め、自分の産声に驚いた。病院の天井。のぞき込む看護婦。母という女の胸に抱かれる瞬間。
誰かの赤ん坊として生まれ変わったと、悟るのは早かった。そして再び繰り返されると想像できる不毛な人生の始まりに、恐怖した。
国はどこか、身体は男か、宗教はなにか——様々なことが気にかかり、落ち着かなかった。が、やがて首がすわり少し身体の自由が利くようになると、確かめられることがあって、やや落ち着いた。
国は一九一二年のアメリカ。性別は男。宗教はキリスト教だったが、そこまで熱心な親ではない。しかし名前は同じだった。
シュウヤ。
母方の祖母が日系人だからという理由。髪は亜麻色。瞳は紺青色。容姿までそっくりそのままで、本当に繰り返しの人生である。よって、だいたいの行く末も見当がついた。
シュウヤは少年時代を寡黙に過ごし、大学を卒業すると、すぐに独立してサンフランシスコへ移り住んだ。そこで大学教授を務めながら、人目を忍ぶ恋に明け暮れたりした。
だが一生連れ添うほどの相手には巡り会わなかった。また同性愛者と世間に知れると職を失い、しばし肩身の狭い思いをすることもあった。時には道で野次を飛ばされ、物を投げつけられた。
恋人がリンチにあい、殺されたこともある。怒りはあったが、復讐する気にはなれなかった。
人権なんてどこにもありはしない。
そんな絶望が、シュウヤの心を支配していたからだ。
好きになる相手が異性じゃない。それだけのことが、こうもすべてを不条理に変えるのは何故なのか。
シュウヤは考え、迷い、そして旅に出た。当てのない旅だ。
いくつもの場所を巡り、海も渡った。最後に訪れたのは砂漠だった。流砂にまかれ、人の世で穢れた身体を洗うようにして、三十二歳の若さで息絶えた。
無味な世界だ。
とシュウヤは世を去り際に思った。
大きな風のうねり。海原の叫び。大地の鼓動——彼らは何も拒みはしないというのに、人間だけが異端者を忌み嫌う。だがそんな人間も、この大自然の前には無力で、愛も憎しみも欲望も、すべて丸呑みにされ洗い流されてしまう。そこに性はなく、宗教もなく、国もない。世界はただ淡々と、生死の循環を一途に守っているのだ。
「大いなる自然よ、おまえが愛しているのは誰なんだ。そうまでして回り続ける意味を、どこに見出している。俺はおまえの一部か。それとも——膿なのか」
意識が薄れたのは、ほんのひとときだ。シュウヤは再び地上に生を受けた。もうウンザリであるこの世に、また同じ名で、同じ姿で生まれ変わった。しかも、誰もが持たない前世の記憶を引きずって。
シュウヤの苦悩は計り知れなかった。
が、自分の名が漢字というもので表記されることを理解し始めた頃には、今までにない人生を予感した。
生まれたのは、人の見た目も言語も宗教も違う、日本という国。一九四四年、第二次世界大戦が終結する前年の春。幼少期は戦後復興期の真っただ中である。
とはいえ、シュウヤはいわゆる混血で、見た目の違和感はかなりのものだった。父親は日本人で、母親がオーストラリア人。当時では本当に珍しい国際結婚だ。加えて、そのせいかどうかは分からないが、家は結構裕福で、金には困らなかった。貧富の差という点でも周囲から浮いた存在であることに違いはなかったのだ。ゆえに偏見や差別が気にならなかったと言えば嘘になる。
ところが予想外にも、周囲の者たちは友好的だった。少なくとも「生活圏内にいる者は」だが、それでもたいしたことである。両親はよく炊き出しなどをして交流をはかり、着るものなどの世話もした。すると周囲の者は「お礼」だと言って、薪を割ったり、庭を掃除したりと、自分にできることをして返す。そういう人情溢れる光景が、毎日のようにあった。
素晴らしい国に生まれた。
とシュウヤは思った。今は復興期でみな貧しいが、心は美しく強い。偏見と差別で瞳を曇らせている過去の者とは比べ物にならない、と。むろん皆無ではないが、圧倒的少数なのだ。贅沢は言えない。
そしてそれ以上に驚いたのは、同性愛者に対してかなり寛容な国であるということだ。なにしろゲイ雑誌が普通に売られているのだから、唖然とするほどである。さらに、シュウヤが小学校に通っている時分には、同性愛者のコミュニティが発足していて、ゲイバーなども他店と並んで当たり前のようにあった。
シュウヤは、「なぜ過去に一度も訪れなかったのか」と、心底悔やんだ。
大学生になってからは、ゲイバーの常連となっていた。そのためにアパートを探し、引っ越したくらいだ。実家は若干遠くて不便だったのだ。一人で住むにはちょっと贅沢な部屋だったが、いずれ恋人ができればちょうど良くなるという算段もあった。
しばらくして、期待通りルックスのいい恋人をつかまえた。身長一七八センチ。日本的美男子というやつで、名は健次といった。シュウヤは早速、一緒に暮らそうと誘ってみたが……
「早いんじゃない?」
と、眉根を寄せられた。
「俺のアパート広いし、部屋も一個あまってる。ちょうどいいじゃないか」
「あのさ、思うように会えないこともあるから盛り上がるってこと、あると思うんだ。しばらくはこのままでいようよ」
もっともなことを言われ、シュウヤはしぶしぶうなずいた。
だが一ヶ月経った頃、同棲を断わられた本当の理由を、シュウヤは知った。健次には、すでに一緒に暮らしている男がいたのだ。
「ゴメン。俺、やっぱりコイツがいいんだ。おまえハーフだし、珍しくていいなって思ったんだけど、なんかデカすぎて合わないんだよ。身長一九八って正直ないよ。悪いけど別れて」
本命の男と腕を組み、ヌケヌケと告白する相手を殴りたい衝動にかられたが、シュウヤは踏みとどまった。ここで殴っても、ますます惨めになるだけだと、長い経験から学んでいる。できるだけクールに、大人の顔をして去るのがいいと思った。
「そうか。それならいいんだ。俺もほかに気になってるヤツがいたし」
それは嘘だが、そうでも言わなければやっていられなかった。しかし健次は嘘を見抜いたように、嘲笑した。シュウヤは屈辱に震え、急いで踵を返し、立ち去った。
(もう恋などしない)
彼とて心のどこかでは、いつか最良の恋人に巡り逢えると信じていたし、この世で最高の男だと思える相手と、結ばれることを夢見ていた。だがそれは叶うはずのない理想だ。むやみに希望を持つより諦めてしまったほうが、いっそスッキリするに違いなかった。
シュウヤは世捨て人になろうと決意して、アパートを引き払おうと思った。が、いざとなると容易くないことに気がついた。急に大学をやめると言っても親は納得しないだろうし、世を捨てる方法も分からない。結局、現状維持ということになるが、ただ広いだけの部屋を遊ばせるのももったいなかった。
「ルームシェアリングでもするか」
シュウヤは大学の掲示板に小さな張り紙を出した。
『同居人求む。定員一名。大学まで徒歩三十分。個室あり。その他は共有。家賃折半で月二万。連絡先・長谷川修也 **−****』
おりしも新入生を迎える時期だ。問い合わせくらいは何件かあるだろうと、シュウヤは掲示板の前をあとにした。
そのシュウヤと入れ替わるようにして、一人の男が掲示板を覗いた。そしてためらわず、シュウヤの張り紙をはぎ取った。
黒髪に黒目。身長一九四センチ。真の美を惜しげもなく費やした美貌の持ち主、飛鳥泰明である。
泰明は小さな張り紙を軽く唇に当て、微笑を浮かべた。
「いいものを見つけた」
晩にさっそく、電話が鳴った。シュウヤは黒電話の受話器を取った。
「はい?」
〝ハセガワ・シュウヤ?〟
シュウヤは電話越しの声に思わず硬直した。聞いたこともない美声だったからだ。
〝もしもし?〟
「あ、ああ、はい」
〝張り紙を見た。部屋を見たい〟
「い、いいよ。いつがいい?」
〝明日〟
「わかった。どこで待ち合わせる?」
〝午後一時に大学の門前で待っている〟
「OK。あ、そっちの特徴は?」
〝そうだな……人間じゃない〟
「は?」
シュウヤは眉をしかめたが、問いただす間もなく通信は切れた。
翌日、シュウヤは講義を終えると昼食をすませ、門へ急いだ。向かっていると、確かにこちらをまっすぐ見据えて立っている男がいる。格好はそのへんの学生だが、同じ人間とは思えぬ強烈な美貌で、すぐに目についた。
二メートル近い自分とほとんど変わらぬ目線。だが均整の取れようは尋常ではなく、ほかとは比べようもない。漆黒に輝く髪、静寂にきらめく瞳。何者も寄せ付けないオーラと、想像を絶する秀麗な面差し。男らしい男でありながら、女を越える妖艶さを醸し出している。
行き交う学生らは男女問わず彼にみとれ、頬を染めた。
(なるほど、人間じゃない)
シュウヤは唖然としながら納得した。そして、
「飛鳥泰明だ。よろしく頼む」
その笑顔と声に、一瞬で心を奪われた。世間の目も偏見も、過去の傷も、なにもかもが些細なことに思えるほど、完全な愛に目覚めたのである。
***
(あの時は、今の自分を想像もしなかったな)
シュウヤは改めて思い、ため息ついた。それを見咎めたのは沙石だ。
「おい。ため息なんかついてねえで、さっさと吐けよ。楽になるぜ?」
シュウヤは沙石を睨んだ。
「お前は本当に核なのか」
「ちぇっ。柄悪いからって、バカにするなよ?」
「してねえけど。つか、やっぱり言えねえ」
「なんでだよ!」
「始点界ってなあ……すげえんだよ」
「ああ?」
沙石がなにを急にと言わんばかりの顔をしたが、シュウヤは無視して喋った。
「空は界王の左目を、海は右目の色を映した世界で、砂の大陸に宮殿があってさ。鳳凰は衛星みたいに始点界の周りを飛んでるんだ。そりゃ綺麗だけど、孤独な世界だ。そこに立ってると、あいつの苦しみとか悲しみが染みてくるほど寂しくて、居たたまれない。だから俺は、ダメな人間だけど、いるだけで慰めになるんだったらって思ったんだ」
沙石と、ほかの長は神妙になって聞いた。初めて聞く始点界の様子に、想いを馳せた。
しかし、沙石はいつまでも感慨にふけらず、肝心な質問も忘れなかった。
「て、それはそれで貴重な話だけどよ、俺はごまかされねえぜ? 結局、なんて言って口説かれたんだよ?」
シュウヤはうなだれ、観念した。
「お前のものになってやるから、俺のものになれ——て」
「……え?」
長らは唖然とし、沙石もいっとき言葉を失った。界王があの顔でそれを言ったかと思うと、心臓が爆発しそうでめまいがした。
「そ、それで、ものにしちまったのかよ」
「いやあ、これでも結構、愛されてんだぜ?」
「え!? 嘘だろ!」
「だから、なんでだ!」
「お前のどこがいいんだよ!」
「それを言ったらおしまいだ!」
だが納得した者もいた。烈火だ。
「そうか。界王が言っていた恋人とは、貴殿のことか」
烈火は一斉に睨まれた。そうハッキリ言ってしまっては、全員のショックが大きいのだ。
「空気を読め、この馬鹿」
そうたしなめたのは槙李だ。が、もう遅い。沙石は髪を乱して頭を抱えた。
「えー? 界王って男色家?」
しかしシュウヤは顔の前で軽く片手を振って否定した。
「いや、あいつはどっちでも良かったみたいだけどな。そもそも魂を基準に物事考える奴だから。魂って性別ないだろ? だからほんと、そこはどうでもいいんだよ」
「じゃあ、あんたの魂ってそんだけのもんってことかよ」
「いやあ、どうだろう。でも実際、始点界に入れるのは俺だけみたいだし」
「ああ、そっか。うん、ホントどうでもいいっつーか、しょうがねえよな」
「なんかその言い方、傷つくな」
「いいじゃねえか。愛されてんだろ?」
「ははは」
シュウヤは乾いた笑いをもらしたが、沙石を除く長らの心境は複雑なようだった。
天位というものが、本当に神の位を示すだけの飾りであることを、思い知ったからだ。界王は位のない天位を持つこの男をこそ最も必要とし、寵愛している。となると、それはもう決して動かぬ真実である。
神を必要としているのは、界王ではなく人。天位の力を必要としているのは、界王ではなく神。理想郷の夢すら神と人のために抱くものであり、界王は何ひとつ、己のために心を尽くしていない。それこそが神と人が望んだことに、界王が最大の愛で答えた結果なのだ。




