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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第八章 新政
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03【界王vs沙石】

 なんのために天位を目指し、一位を夢見たのか。

 むろん理想郷のためであると言いたいところだが、本当のところは、それだけであるはずがなかった。

 たとえば空呈が葡萄園を持ちたいと考えたのは、単にうまい葡萄酒を作るためだけではない。そこに伴う利潤が大切だ。それと同じである。

 では理想郷に伴う利潤とは何か。

 死に怯えず、衰えも知らず、闇に目を塞がれることのない光の楽園だろうか。否、実際のところ、天上人は死しても転生するという魂の不滅性を知っているし、天位を得て神になれば衰えることはない。闇すら、帝人の力によって制御できる世の中だ。切実かと言えば疑問が生じる。

 となると、彼らが見出した価値とはやはり、天位一位の宝玉でしかない。界王に神たる神として認められた証を、人々は欲しているのだ。すべては楽園と神と、界王のため。だが現実はそう甘くない。理想郷を叶え、神の中の神として立つには、相応のものを失わなくてはならなかったのである。

 理想郷の真実を知って、政権の中心を担う上位天位者らは戸惑い、騒然とした。

「界王のいない楽園など、なんの意味があるのだ」

 憤りを抑えようとしても抑え切れぬ様子の声で、季条がうなった。反応したのはほかの誰でもない。界王こと飛鳥泰善だ。

「俺は何者とも交わらない。この世にある者にとって交わらぬ者に価値はない。己にとって本当に価値があるのは、魂の交わる接点がある者だ。おまえたちは互いにその接点を持ち、つながっている。有限世界の外側の、始点界に隔絶された俺にはない」

 感情を切り捨てるように、無表情で語る。そんな様子を近くで見ていた沙石は、強い悲しみに震え、込み上げる怒りに叫んだ。

「わ——っ!!」

 さしもの泰善も、この反応には目を丸めた。

「どうした」

「どうしたじゃねえ!」

 沙石は言って親指を立て、自分の胸を指した。

「ここにある天位はなんだ! てめーがくれたもんだろうが! それでも関係ないって? つながってねえって言いやがるのか!」

「それはあくまで〝物〟だ。魂のような存在とは違う」

「てめえには道具でも、オレたちには違う! 魂と同じくらい大切なもんだ。寅瞳だって——寅瞳だって死ぬほど悩んだくらい重要なもんなんだ。それに、アンタずっと見てただろ? オレたちを。ずっと守ってくれただろ? 本当の価値ってそういうもんじゃねえのか? だからオレたちはアンタの想いに応えようって、必死に努力した。言われるままに理想郷を目指して来たんだぜ」

 泰善は片眉をわずかに上げた。なんということはない表情の変化だが、そこには万物の超越者たる品格が漂っていて、沙石は心なし怯んだ。

「感情的な価値を取り上げればキリがない。物理的に無理なのだから何を言っても仕方ない」

「オレは何よりも感情が勝ると思ってるぜ。その気になりゃ奇跡だって起こせる」

「俺には通用しない」

「なんで」

「奇跡とは理を枉げることだ。俺が許さぬかぎり理は枉がらない」

 沙石は「うっ」と息を詰まらせた。が、ここで引き下がるわけにはいかないとばかり、挑戦的な笑みを浮かべて泰善を睨んだ。

「自分のためには枉げないってか?」

 泰善は動じることなく、うなずいた。

「枉げられない、と表現するのが正しい。我欲のためにそれをするのは、自らに矛盾が生じる。俺が〝俺〟としてあるための根底が覆るのだ」

 沙石は目元を険しく寄せ、帝人に視線を投げた。

「なんか、急にむずかしいこと言い出した」

 助けを求められた帝人は深く溜め息ついた。

「理の末端を改変することはできても、源まで変えることはできないということだろう? 界王が理想郷に生きるとするなら、界王は己の存在のあり方を改変せねばならず、ひいてはこの世のすべての理をもひっくり返さねばならなくなる。それは魂のあり方までも否定することになりかねない」

「つまり?」

「すべてが消滅しかねない」

「まじか」

 目を見開いて泰善を見上げると、泰善が軽く目を伏せたので、沙石は唇をかんだ。

「じゃあ、このままでいいじゃん。理想郷なんてよ……」

「目指さねば、いつか天上界も閉じる時が来るんだぞ?」

 横から帝人がたしなめた。沙石はそれを睨んで、拳を握った。

「じゃあどうすんだよ!」

「目指すしかない。閉じる前か、すべての者が天位者になる前に、確立せねばならない」

「——すべての者が天位者に?」

「界王が言うには、それによっても天上界というやつは消滅するらしい」

「はあ!? なんだそれ」

 納得いかないと言わんばかりに沙石が再び泰善を見据えると、泰善は腕組みをしてうなずいた。

「ようは神代の世界になるわけだ。そういう点では神界に近い」

「神界?」

「ああ、精神世界だ。だが物質的なものがない。切り立つ翡翠の岩も、鏡のような湖もなく、屋敷も祠もない。光と魂だけが浮遊する白い世界だ。もし望むならそれでも構わんが、調和と融合の世界として成り立つゆえに、個人という概念も消し飛ぶ」

「なんだよそれ!」

「嫌か?」

「嫌だよ!」

「神の世界を突き詰めていけばそれなんだが」

「知るか!」

「では理想郷を叶えろ」

 胸に重く響く声に、沙石は息を止めた。

 理想郷とはとどのつまり、今あるすべてを失わないままに究極の神の世界を叶える世界なのだと理解したのだ。それは神と人とが願い、夢見た世界そのものだ。それゆえ界王は、自らを犠牲にしても叶えさせてやろうと思ったのである。

 沙石はまぶたの裏ににじむ涙をこらえて、声を振り絞った。

「やっぱ忘れられねえよ。そんなにオレたちのことを考えてくれるアンタのことを忘れちまうなんて、できねえよ」

「それでも忘れろ」

 泰善は身を裂くような台詞を残して、その場から姿を消した。まるで幻のように、空気の中へ掻き消えたのである。瞬間移動という能力に違いないとは思うが、記憶もそんなふうに消してしまうのかと思うと、皆いたたまれない気分におちいった。


 おかげで会場は祝賀会という雰囲気ではなくなった。大人はヤケになって酒をあおったが、沙石はまだ子供なのでそうもできない。やり場のない想いに縛られながら、ただイスに腰かけていた。

 そこへ寄っていって声をかけたのは、ふんわりとした桜色の髪と桃色の瞳を持つ天位四の女神、雲春咲迦丞麗(うんしゅんさかのじょうれい)である。

「大丈夫?」

 目の前にさりげなく果汁の入ったグラスを差し出し、ニコリと微笑む。その笑顔は春の日差しのようである。

 沙石は目をしばたたかせながら、グラスを受け取った。

「あ、ありがとう」

「となり、いい?」

「あ、ああ」

 十六、七と見た目の年も近い。そんな少女の髪からは、いい匂いがする。沙石は一気に緊張した。

「え、ええっと、あの?」

「雲春咲迦丞麗って言うの。麗って呼んでね」

「ああ、うん。オレは沙石」

「あら、うふふ。知ってるわ。有名ですもの。それにさっき」

「あ、そうだな。でも呼ぶ時は崇って呼んでくれよ」

「たかし?」

「沙石は名字でさ、名前は崇なんだ」

「そうなの!? 神族なのに珍しいわね」

「うん、そうだな。神族は名字か名前のどっちかだけだもんな」

「どうしてなの?」

「いや、いろいろあるんだよ。親のジジョーが。それより年は? 近いっぽいけど」

「そうね。十六で止まったけど、四千年は生きてるの」

「えっ!?」

「驚いた?」

「うん」

「使族の天位者ではよくあるのよ? 十代後半で止まること」

「そうなんだ」

 沙石はもらったグラスを傾けて、ようやくひと口、飲み物を胃袋に収めた。麗はその様子を横で眺めて、クスリと笑った。

「少しは落ち着いた?」

「ああ、ありがとう」

「あら、お礼を言うのはこっちよ?」

「へ?」

「私たちの想いを界王様にぶつけてくれたでしょ? ありがとう。さっきのあなた、カッコよかったわ」

 沙石の顔はみるみる赤くなった。が、次の瞬間には青くなった。

「界王に食ってかかるなんて、やべえことしたかなあ」

「あら大丈夫よ。怒ってなさそうだったし。むしろ嬉しかったんじゃないかしら」

「え?」

「絶対に忘れたくないって気持ちは、伝わったと思うわ」

 ニコッと微笑む麗を見て、沙石は胸が暖かくなると同時に、目頭が熱くなった。

「本当に、伝わったかな?」

「伝わったわよ」

 沙石は「そうならいい」と思う反面、そんな感情さえも自分たちの中から消えてしまう時を思って、なおさら悲しくなった。


 あんた本当にそれでいいのか? 思い出だけで生きていけんのかよ。


 そう、心の中で問いつつ。

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