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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第三章 回顧
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05【寅瞳】

 少年は、まるで過去などなかったように暮らしている今が信じられなかった。

 白い髪と黄色い瞳の少年、寅瞳。前世の名はグランスウォールだ。

 種族が分からず孤児院で虐待を受けていた時は、それほどの罪を犯したのだと諦めていた。自分だけが転生を果たし普通に暮らせるなどと思っていたわけではないが、そこまで過酷な運命が待っているとも思っておらず、「甘かった」と後悔し、毎日泣いたのだ。

 それが今では有名校へ進学し、順風満帆の生活を送っているのだから、人生とは分からない。

 寅瞳は鏡の前で髪にくしを当てながら、少し昔のことを思い出した。泰善に拾われた日のことだ。

 経緯などは知らない。気がついたら見知らぬ家のベッドの上で、子供心にも見とれるような美貌の人が、心配そうに覗いていたのだ。

 起き上がってみると、体中にあった生死をさまようほどの傷は跡形もなく、栄養状態の悪かった面影もない。寅瞳は不思議だった。泰善に治癒能力があるのかと一瞬疑ったが、まさかと打ち消した。核を担った者を治癒できる能力者は存在しないからだ。

 治癒能力は核になる者だけが持つ力である。そして核は地上に生きる者すべてに対して治癒をおこなえるが、自身や同じ核に対してはおこなえないのだ。

 結局のところ「飛鳥泰善は医学的な知識と薬草を調合する技に優れているのだ」と思うことで、落ち着いている。


「遅れるぞ?」

 不意に声がかかり、寅瞳は慌てた。泰善が注意してきたのだ。

「す、すみません」

「謝ることはない。遅れて困るのはおまえだ。俺じゃない」

 寅瞳が振り返って見ると、泰善は顔をほころばせていた。劣情こそ抱かないものの、花より美しく光より眩しい笑顔は自然と寅瞳の頬を紅潮させる。

(なんでこんな人がいるんでしょう)

 寅瞳は強い意志で視線をそらせると、そそくさと支度をすませ、「いってきます」と言って部屋を出た。そして廊下で溜め息ついた。

 泰善の善意は有り難い。だが、いつまでそれに甘えていられるのかと思うと、不安でしかたなかった。


 核の役割を放棄したに等しい自分——それに与えられている今の幸福はひとときのことに違いないという想いが、寅瞳にはあった。孤児院で味わったような苦難が必ず待ち受けているはずだと予感しているのだ。

 界王に許されているはずがない。にもかかわらず転生したのは、現世で罪を償わなければならないからだ。楽をして償えるわけがない。

 そんなふうに思っているのである。


***


 いろいろ考え込みすぎたせいで、寅瞳は冗談抜きに遅刻しそうだった。いけないと思いつつ廊下を駆けるという行為におよんでいると、運の悪いことに帝人に見つかり呼び止められた。

「緊急事態でもないかぎり、通路を走るな」

「うわわわ、すみません! でも緊急事態です! 遅刻しちゃいますよ!」

「余裕を持って出ないのが悪い。歩け」

「ううっ。今度から気を付けますので、今日はお見逃しください」

 寅瞳が懇願すると、帝人は「ふむ」と言って腕を組んだ。

「では学校から帰ったら、一度私のもとへ来い。泰善には言うな」

「えっ……」

「嫌なら遅刻しろ」

「そ、そんな」

 寅瞳は迷った。理由を聞いてから考えようかとも思ったが、答えてくれそうもなければ暇もない。即決せねばならなかった。

 有名校だけあって厳しい学校だ。一度の遅刻で内申点がグッと下がる。「人様のお金で学校に通っている手前、落第してはいけない」と寅瞳は決心した。

「わかりました。お伺い致します」

「では行け」

 帝人は道を開け、寅瞳は一礼して走り去った。


***


 学校には間に合った。だが冷静になった寅瞳は青ざめた。魔族で天位五の地位にある帝人が自分を呼び出す理由など、ろくなものであるはずがないと思い至ったからだ。それでもどんなことなのかは想像つかなかったのだが……

 帰ってみて納得した。

 帝人の部屋を訪ねると、迎え入れた彼は自分だけイスに座り、寅瞳を立たせたまま渋い顔をして見据えた。

「おぬしの主は我々の許可も得ず二度も神族代表と面会している。いかに捕らえた本人とはいえ、勝手なことをされては困るのだ。付人として注意するくらいの責任はあるんじゃないのか」

 寅瞳は肩をすくめるしかなかった。

「……すみません」

「ともかく何を企んでいるやら分からぬ。私はこれから直接、神族代表に会って泰善と何を話したのか問うつもりだ。そこで、おぬしに同行願いたい」

「は?」

 思いもかけないことに、寅瞳は茫然とした。

「どうして私が?」

「内情を聞き出したとなれば、あの男は黙っていないだろう。だがおぬしが立会人としていたのなら、悪態もつけまい」

「えええええ〜!?」

「断るというなら、おぬしを人質にして泰善の行動に制限をかける。こちらとしても、これ以上なめられた真似をされてはかなわんのだ」

 これは随分と前からストレスをかけていたようだと、寅瞳は察した。今日たまたま廊下を走っていた寅瞳を咎めたのは、口実作りにほかならない。帝人は、付人とは名ばかりで実の子のように大切にされている寅瞳に目をつけ、何かあれば理由をこじつけて接触する機会をうかがっていたのだ。

 寅瞳はギュッと目をつむって隙を作ってしまった己の失態を泰善に謝り、拳を握った。

「わかりました。立ち会います。ですから飛鳥様の自由を奪ったりしないでください」

 帝人は黙ってうなずいた。


 こうして寅瞳は、帝人の後ろをチョコチョコついて行きながら、地下牢の入口をくぐった。

 神族代表の燈月が捕らえられているのは一ブロック目の奥の牢だと言う。そこまでの通路はおよそ百メートルあり、牢がある少し手前で左折する。

 その曲がり角で、帝人が急に足を止めた。

「声がする」

 小声で注意された寅瞳は息をひそめて耳を澄ませた。シンとして、音が反響する地下牢だ。囁き声ならともかく、普通に会話する声はハッキリと聞こえた。


「くっそ〜。どうなってんだこの印。どうやっても解けねえ」

「もう俺のことなど放っておいて、誰かに見つからないうちに出て行け」

「こっちが手ぶらじゃまずいって言ってんじゃん」

「それは始めの動機で、今の本心は違うはずだ」

「な、なに言ってんだよ」

「配慮はいらん」

「配慮?」

「俺が恩を感じたりしないように気を遣っているのだろう」

「ば、ばっきゃろー! そういうことは気づかないふりするもんだぜっ」

「とにかく、おまえが捕まるのは良くない。核なんだろう?」

「へーきへーき。オレ強いから」

「そういう問題か。おまえがグランスウォールと同じ立場だと思うだけで、俺はひどく居たたまれない。頼むから逃げてくれ」


「え……?」

 寅瞳はドキッとして胸を押さえた。そんな寅瞳を帝人は振り返って見た。

「どうした」

 とは聞いたものの、血の気の引いた寅瞳の顔を見て、帝人が悟るのは早かった。伊達に長年、人の心を読んできたわけではない。能力を失っても感情の動きには敏感なのだ。

 帝人は寅瞳の腕を引いて、少しその場から遠のいた。声は相変わらずひそめているが、口調は力強い。

「グランスウォールと言っていたな? おまえがそれなのか」

 真っ青な寅瞳は震えながらうなずいた。帝人はそれを少しでも落ち着かせようと、かがんで目線を合わせた。

「声だけだったが、その名を呼んだのは代表のほうだな。もう一人は子供の声だった。聞き覚えのある声か?」

「わ、わかりません。ここは声が響いていますし。それに……」

「それに?」

「怖いです」

 寅瞳はぐっと拳を握って、自分の胸に押し当てた。

「もし私が会いたいほうの人じゃなかったら、怖いです」

 いつわりなく恐怖に震えている寅瞳に対して、帝人は少し思案した。そして、

「代表の特徴を教えよう。それならば顔を見ずとも判断がつくだろう。おぬしが恐怖している相手であれば、今回の私の申し出はなかったことにしてやる」

 と提案した。寅瞳は帝人の意外な優しさに驚いた。状況がままならないようなら寅瞳を人質に取るとまで言った彼とは別人のようだ。

 戸惑いを隠せないまま、寅瞳はこくりと頭を下げた。

「ありがとう……ございます」

「代表の身長は一八五。髪は象牙色、目は黄金だ」

 寅瞳の目が見開かれた。顔中に広がっていく笑みが、彼にとっての「正解」を表していることは明らかで、帝人はホッと胸をなで下ろした。

「では行こう」

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