短編 王都の灯りと、守られているということ
王都の朝は、屋敷の中まで静かに満ちている。
遠くで扉が閉まる音。廊下を歩く足音がひとつ、すぐに止まる。使用人たちの気配はあるのに、どこか抑えられていて、空気そのものが整えられている。
学院の朝とは違う。
学院では、鐘の音がすべての始まりになる。
時間が先にあって、人がそれに合わせて動く。
ここでは、人の動きに合わせて時間が流れる。
目を覚ましてもしばらく起き上がらず、天井を見つめた。今日が休みだという事実を、身体に落とし込むみたいに。
(今日は……街で食事)
昨夜、リリカ姉様がそう言った。
学院の予定もなく、急ぎの用もない日。
だから三人で、外へ出よう、と。
理由はそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなる。
学院には、毎日馬車で通っている。
決まった時間に玄関を出て、決まった揺れの中で窓の外を眺め、気づけば門の前に着く。
それが当たり前で、それ以上考えることはなかった。
だからこそ、今日は少し違う。
馬車に乗らず、自分の足で街に出る。
それだけで、空気の触れ方が変わる気がした。
◇
身支度を整えて部屋を出ると、廊下の先から足音が近づいてきた。一定の速度。迷いのない歩幅。
リート兄様だと、すぐにわかる。
「行けるか」
短い一言。
それで十分だった。
「はい」
返事をすると、兄様はそれ以上何も言わずに歩き出す。先に行くのに、置いていかれる感じはしない。ついてくる前提の歩き方だ。
階段を下りると、リリカ姉様が待っていた。外出用の装いで、いつもより少し明るい色合いの外套を羽織っている。
「おはよう、シオン。ちゃんと起きてる顔ね」
「……はい」
そう言われると、少しだけ安心する。自分の状態を、もう見抜かれている気がして。
「今日は街でご飯よ。堅い顔、必要ない日」
リリカ姉様はそう言って、私の手袋の留め具を指先で直した。小さな仕草だけど、それだけで気持ちが落ち着く。
リート兄様が淡々と付け足す。
「顔色は悪くない」
「……はい」
「ただ、考えごとが多い」
否定できない。
でも、責められている感じはなかった。
気づいたことを、そのまま置かれただけ。
リリカ姉様が、そこで話を切る。
「今日は説明しなくていい日。行きましょう」
◇
屋敷を出ると、王都の空気が一気に流れ込んできた。
焼きたてのパンの匂い。
果物の甘さ。
遠くの呼び声と、近くを通る人の衣擦れ。
学院へ向かうときは、馬車の窓越しに見ていた景色だ。
今日は、足音と一緒にそれが近づいてくる。
三人で並んで歩く。
リート兄様は少し前。
リリカ姉様は私の隣。
人の多い場所では、この並びが自然になる。
兄様は周囲を見て、姉様は私の歩幅に合わせる。
何も言わなくても、そうなる。
「最近、屋敷に戻ったときの空気が少し違うの」
歩きながら、リリカ姉様が言った。
「違う、ですか」
「ええ。前より、息が深い」
言われて、自分の呼吸を確かめる。
確かに、今は苦しくない。
リート兄様が短く言う。
「慣れたんだろう」
「……そう、かもしれません」
慣れる、という言葉は便利だ。
説明しすぎなくていい。
姉様はそれ以上踏み込まない。
「なら、いいこと」
それだけで終わる。
露店の並ぶ通りに入ると、色と音が増えた。
布の色。
木箱の果実。
鍋から立つ湯気。
「見て、あれ」
リリカ姉様が指さしたのは、小さな飾りの並ぶ店だった。派手ではないけれど、丁寧につくられているのがわかる。
「……かわいい」
思わず声が出る。
「でしょう?」
姉様が笑う。
「寒くないか」
兄様の声が、少し後ろから届く。
「大丈夫です」
「ならいい」
それだけなのに、胸の奥がふっと温かくなる。
しばらく歩いて、姉様が言った。
「今日は、時間を気にしないで食べましょう」
私は頷いた。
学院では、何をするにも時間が先に立つ。
でも今日は、家族と一緒だ。
路地の奥に、控えめな灯りが見えてきた。
これから入る店だと、すぐにわかる。
私は小さく息を整えた。
◇ ◇ ◇
――今日は、ただの食事の日。
そうであってほしい、と自然に思いながら、扉の前に立った。
⸻
扉を開けると、空気が変わった。
外の喧騒が一段落ちて、代わりに、食事の匂いが鼻先に届く。煮込みの甘い香りと、焼いた肉の香ばしさ。床は木張りで、足音が柔らかく返ってくる。
店の中は、思っていたより落ち着いていた。
昼時には少し早い時間らしく、席は半分ほどしか埋まっていない。
案内されたのは、壁際のテーブルだった。
背中に壁があり、視界は店内を広く見渡せる。
リート兄様は、椅子に腰を下ろす前に、さりげなく一度だけ視線を巡らせた。
それで終わり。
何かを警戒するというより、いつもの確認作業みたいな動きだった。
リリカ姉様は、私の向かいに座る。
「落ち着くお店でしょう?」
「……はい」
声を出したとき、自分でも驚くくらい、自然だった。
こういう場所で、こういう返事ができることが、少し嬉しい。
◇
水が運ばれてくる。
透明なグラスに注がれた水は、光を受けて静かに揺れていた。
「何にする?」
リリカ姉様が、メニューを差し出す。
文字を追いながら、少しだけ考える。
学院の食堂なら、悩むほどの選択肢はない。
でも、ここでは選べる。
「……スープと、パンで」
「それだけ?」
責める響きはない。確認だ。
「……はい」
言い切ると、姉様は頷いた。
「じゃあ、それ。あと、少しだけ甘いものも頼みましょう」
「……え」
「食後。今日はいい日だから」
“いい日”という言葉が、さらっと置かれる。
理由を聞かなくていいのが、ありがたい。
リート兄様は、短く言った。
「煮込み」
「了解」
それで注文は決まった。
◇
料理が来るまでの間、しばらく静かな時間が流れる。
店の中の音が、自然に耳に入ってくる。
食器が触れる音。
小さな笑い声。
椅子を引く音。
学院にいると、沈黙は少しだけ気になる。
何か言わなければ、と考えてしまうからだ。
でも今は違う。
沈黙が、そのままでいられる。
リリカ姉様が、ふと口を開いた。
「最近、食事の量はどう?」
「……前よりは、食べられてます」
正直な答えだった。
量そのものより、「食べよう」と思えることが増えた。
姉様はそれを聞いて、少しだけ安心した顔になる。
「それならいいわ」
それ以上、何も言わない。
リート兄様は、テーブルに置いた手を動かさずに言った。
「無理に増やす必要はない」
「……はい」
増やせ、でも、減らすな、でもない。
ただの事実としての言葉。
その距離感が、ちょうどいい。
◇
スープが運ばれてきた。
湯気が立ちのぼり、香りが広がる。
一口すくって口に運ぶと、身体の奥に温かさが落ちていく。
「……おいしい」
小さく呟くと、リリカ姉様が頷いた。
「ね」
兄様は煮込みを一口食べて、短く言う。
「悪くない」
それだけで、この店は合格なのだとわかる。
しばらく、三人とも黙って食べる。
言葉がなくても、気まずくならない。
そのときだった。
◇ ◇ ◇
椅子が、強く鳴った。
音の方向を見ると、少し離れた席で、年配の男性が立ち上がっていた。
片手で喉を押さえ、もう片方の手が宙を掴むように揺れている。
声が出ていない。
その瞬間、店の空気が変わった。
ざわり、と音が走る。
(……詰まった)
考えるより先に、身体が反応した。
椅子から立ち上がろうとした、そのとき――
リート兄様が、もう動いていた。
◇
「リリカ」
低い声。
それだけで十分だった。
リリカ姉様は即座に立ち上がり、男性の正面へ向かう。
声は落ち着いている。
「大丈夫。今、手当てします。息、止めなくていいですよ」
言葉の選び方が、はっきりしている。
男性の目が、わずかに焦点を取り戻す。
その背後に、リート兄様が回った。
距離を測り、位置を確認する動きに迷いがない。
――一度。
――二度。
短く、確実な動作。
床に、何かが落ちる音がした。
次の瞬間、男性が大きく息を吸い込む。
「……っ、は……!」
咳と一緒に、呼吸が戻る。
店の中の空気が、一気に緩んだ。
◇
リリカ姉様は、男性の背中を軽くさすりながら言う。
「もう大丈夫。ゆっくり呼吸してください」
男性は何度も頷き、周囲の人たちが安堵の声を漏らす。
リート兄様は一歩下がり、短く告げた。
「……大事には至らない」
それだけ。
私は、立ち上がりかけたまま、その場にいた。
心臓が、少しだけ早い。
でも、混乱はしていない。
――間に合っていた。
自分が何かを考える前に。
動く前に。
胸の奥に残ったのは、驚きと、そして――
(……すごい)
それだけだった。
◇ ◇ ◇
店の中は、ゆっくりと元の音を取り戻していた。
さっきまで張りつめていた空気が、少しずつほどけていく。
食器の触れ合う音や、小さな話し声が、あるべき場所に戻ってくる。
助けられた男性は、何度も頭を下げていた。
言葉は多くない。
けれど、声の震えが、さっきの出来事を十分に伝えている。
「本当に……ありがとうございました」
リリカ姉様は、静かに首を振った。
「もう大丈夫ですから。どうぞ、落ち着いて」
それだけ言って、席へ戻る。
リート兄様も、特別な様子は見せず、椅子を引いた。
まるで、最初から立ち上がっていなかったみたいに。
私は、少し遅れて腰を下ろす。
スープは、まだ温かい。
けれど、さっきより湯気が少なくなっているのに気づいて、時間が確かに進んでいたことを知る。
◇
「……食べられる?」
リリカ姉様が、私の顔を見て言った。
自分の状態を確かめる。
手は震えていない。
呼吸も、もう乱れていない。
「はい……大丈夫です」
そう答えると、姉様は小さく頷いた。
「なら、続きましょう。冷めてしまうわ」
それは命令でも、無理な気遣いでもない。
“日常に戻ろう”という、静かな合図だった。
私はスープを一口飲む。
味は変わらない。
でも、身体に落ちていく感覚が、さっきとは少し違う。
向かいで、リート兄様が煮込みを口に運ぶ。
「……」
何も言わない。
それが、いつもどおりだ。
けれど、その沈黙には、ほんのわずかな重さがあった。
悪い意味ではない。
意識されないまま、そこに残っている重さ。
(……間に合ってた)
頭の中で、同じ言葉がもう一度浮かぶ。
自分が立ち上がる前に。
何かを考えるよりも先に。
兄様と姉様は、もう動いていた。
◇
食事を終える頃には、店の中はすっかり落ち着いていた。
最後に運ばれてきた小さな甘い菓子を前に、リリカ姉様が言う。
「ね。甘いもの、あってよかったでしょう」
「……はい」
素直に頷く。
今は、それでいい。
会計を済ませ、店を出る。
扉を開けると、夕方の光が目に入った。
昼と夜のあいだの、やわらかい色。
◇
外に出て少し歩くと、露店の並ぶ通りに戻った。
人の流れは、さっきよりも少し増えている。
街が、次の時間へ移ろうとしているのがわかる。
私は、さっきまでの出来事を、まだうまく言葉にできずにいた。
何か言うべきなのか。
それとも、言わないほうがいいのか。
迷っていると、リート兄様が足を止めた。
露店の端で、小さな布袋を手に取っている。
「兄様?」
声をかけると、兄様は短く言った。
「……今日は、人が多かった」
それだけ。
店主に小銭を渡し、布袋を私の手に置く。
「匂いがあると、落ち着く」
説明は、それ以上なかった。
掌に収まる小さな重み。
指先に、やさしい香りが移る。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……ありがとう」
言うと、兄様は視線を逸らしたまま答えた。
「必要だと思った」
理由を言わないところが、兄様らしい。
リリカ姉様が、そのやりとりを見て、ふっと笑った。
「今日は、よく歩いたものね」
それ以上、何も言わない。
買った理由も、さっきのことも、結びつけない。
でも、その笑顔が、すべてを包んでいた。
◇ ◇ ◇
屋敷に戻る頃には、空が少し暗くなっていた。
部屋に入り、外套を脱ぐ。
机の上に、香り袋をそっと置く。
夜の屋敷は静かだ。
昼よりも、音が遠くなる。
ベッドに横になり、香り袋を枕元に置いた。
やさしい香りが、ほんのりと広がる。
目を閉じると、今日の光景が浮かんだ。
食事の匂い。
店のざわめき。
兄様の迷いのない動き。
姉様の落ち着いた声。
(……すごい)
それは大きな言葉じゃない。
守られている、という感覚。
それだけが、静かに胸に残っていた。
香りに包まれながら、私はゆっくり眠りに落ちていく。
明日になれば、また学院がある。
馬車に乗って、いつもの時間へ向かう。
でも今日は、ちゃんと“帰ってきた日”だった。




