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『異世界転生でアイドル目指します。』  作者: 星空りん
第二章 響きあう想い
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短編 王都の灯りと、守られているということ

 王都の朝は、屋敷の中まで静かに満ちている。


 遠くで扉が閉まる音。廊下を歩く足音がひとつ、すぐに止まる。使用人たちの気配はあるのに、どこか抑えられていて、空気そのものが整えられている。


 学院の朝とは違う。


 学院では、鐘の音がすべての始まりになる。

 時間が先にあって、人がそれに合わせて動く。


 ここでは、人の動きに合わせて時間が流れる。


 目を覚ましてもしばらく起き上がらず、天井を見つめた。今日が休みだという事実を、身体に落とし込むみたいに。


(今日は……街で食事)


 昨夜、リリカ姉様がそう言った。

 学院の予定もなく、急ぎの用もない日。

 だから三人で、外へ出よう、と。


 理由はそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなる。


 学院には、毎日馬車で通っている。

 決まった時間に玄関を出て、決まった揺れの中で窓の外を眺め、気づけば門の前に着く。

 それが当たり前で、それ以上考えることはなかった。


 だからこそ、今日は少し違う。

 馬車に乗らず、自分の足で街に出る。

 それだけで、空気の触れ方が変わる気がした。



 身支度を整えて部屋を出ると、廊下の先から足音が近づいてきた。一定の速度。迷いのない歩幅。


 リート兄様だと、すぐにわかる。


「行けるか」


 短い一言。

 それで十分だった。


「はい」


 返事をすると、兄様はそれ以上何も言わずに歩き出す。先に行くのに、置いていかれる感じはしない。ついてくる前提の歩き方だ。


 階段を下りると、リリカ姉様が待っていた。外出用の装いで、いつもより少し明るい色合いの外套を羽織っている。


「おはよう、シオン。ちゃんと起きてる顔ね」


「……はい」


 そう言われると、少しだけ安心する。自分の状態を、もう見抜かれている気がして。


「今日は街でご飯よ。堅い顔、必要ない日」


 リリカ姉様はそう言って、私の手袋の留め具を指先で直した。小さな仕草だけど、それだけで気持ちが落ち着く。


 リート兄様が淡々と付け足す。


「顔色は悪くない」


「……はい」


「ただ、考えごとが多い」


 否定できない。

 でも、責められている感じはなかった。

 気づいたことを、そのまま置かれただけ。


 リリカ姉様が、そこで話を切る。


「今日は説明しなくていい日。行きましょう」



 屋敷を出ると、王都の空気が一気に流れ込んできた。


 焼きたてのパンの匂い。

 果物の甘さ。

 遠くの呼び声と、近くを通る人の衣擦れ。


 学院へ向かうときは、馬車の窓越しに見ていた景色だ。

 今日は、足音と一緒にそれが近づいてくる。


 三人で並んで歩く。

 リート兄様は少し前。

 リリカ姉様は私の隣。


 人の多い場所では、この並びが自然になる。

 兄様は周囲を見て、姉様は私の歩幅に合わせる。

 何も言わなくても、そうなる。


「最近、屋敷に戻ったときの空気が少し違うの」


 歩きながら、リリカ姉様が言った。


「違う、ですか」


「ええ。前より、息が深い」


 言われて、自分の呼吸を確かめる。

 確かに、今は苦しくない。


 リート兄様が短く言う。


「慣れたんだろう」


「……そう、かもしれません」


 慣れる、という言葉は便利だ。

 説明しすぎなくていい。


 姉様はそれ以上踏み込まない。


「なら、いいこと」


 それだけで終わる。


 露店の並ぶ通りに入ると、色と音が増えた。

 布の色。

 木箱の果実。

 鍋から立つ湯気。


「見て、あれ」


 リリカ姉様が指さしたのは、小さな飾りの並ぶ店だった。派手ではないけれど、丁寧につくられているのがわかる。


「……かわいい」


 思わず声が出る。


「でしょう?」


 姉様が笑う。


「寒くないか」


 兄様の声が、少し後ろから届く。


「大丈夫です」


「ならいい」


 それだけなのに、胸の奥がふっと温かくなる。


 しばらく歩いて、姉様が言った。


「今日は、時間を気にしないで食べましょう」


 私は頷いた。


 学院では、何をするにも時間が先に立つ。

 でも今日は、家族と一緒だ。


 路地の奥に、控えめな灯りが見えてきた。

 これから入る店だと、すぐにわかる。


 私は小さく息を整えた。


◇ ◇ ◇


 ――今日は、ただの食事の日。


 そうであってほしい、と自然に思いながら、扉の前に立った。 



 扉を開けると、空気が変わった。


 外の喧騒が一段落ちて、代わりに、食事の匂いが鼻先に届く。煮込みの甘い香りと、焼いた肉の香ばしさ。床は木張りで、足音が柔らかく返ってくる。


 店の中は、思っていたより落ち着いていた。

 昼時には少し早い時間らしく、席は半分ほどしか埋まっていない。


 案内されたのは、壁際のテーブルだった。

 背中に壁があり、視界は店内を広く見渡せる。


 リート兄様は、椅子に腰を下ろす前に、さりげなく一度だけ視線を巡らせた。

 それで終わり。

 何かを警戒するというより、いつもの確認作業みたいな動きだった。


 リリカ姉様は、私の向かいに座る。


「落ち着くお店でしょう?」


「……はい」


 声を出したとき、自分でも驚くくらい、自然だった。

 こういう場所で、こういう返事ができることが、少し嬉しい。



 水が運ばれてくる。

 透明なグラスに注がれた水は、光を受けて静かに揺れていた。


「何にする?」


 リリカ姉様が、メニューを差し出す。


 文字を追いながら、少しだけ考える。

 学院の食堂なら、悩むほどの選択肢はない。

 でも、ここでは選べる。


「……スープと、パンで」


「それだけ?」


 責める響きはない。確認だ。


「……はい」


 言い切ると、姉様は頷いた。


「じゃあ、それ。あと、少しだけ甘いものも頼みましょう」


「……え」


「食後。今日はいい日だから」


 “いい日”という言葉が、さらっと置かれる。

 理由を聞かなくていいのが、ありがたい。


 リート兄様は、短く言った。


「煮込み」


「了解」


 それで注文は決まった。



 料理が来るまでの間、しばらく静かな時間が流れる。


 店の中の音が、自然に耳に入ってくる。

 食器が触れる音。

 小さな笑い声。

 椅子を引く音。


 学院にいると、沈黙は少しだけ気になる。

 何か言わなければ、と考えてしまうからだ。


 でも今は違う。

 沈黙が、そのままでいられる。


 リリカ姉様が、ふと口を開いた。


「最近、食事の量はどう?」


「……前よりは、食べられてます」


 正直な答えだった。

 量そのものより、「食べよう」と思えることが増えた。


 姉様はそれを聞いて、少しだけ安心した顔になる。


「それならいいわ」


 それ以上、何も言わない。


 リート兄様は、テーブルに置いた手を動かさずに言った。


「無理に増やす必要はない」


「……はい」


 増やせ、でも、減らすな、でもない。

 ただの事実としての言葉。


 その距離感が、ちょうどいい。



 スープが運ばれてきた。


 湯気が立ちのぼり、香りが広がる。

 一口すくって口に運ぶと、身体の奥に温かさが落ちていく。


「……おいしい」


 小さく呟くと、リリカ姉様が頷いた。


「ね」


 兄様は煮込みを一口食べて、短く言う。


「悪くない」


 それだけで、この店は合格なのだとわかる。


 しばらく、三人とも黙って食べる。

 言葉がなくても、気まずくならない。


 そのときだった。


◇ ◇ ◇


 椅子が、強く鳴った。


 音の方向を見ると、少し離れた席で、年配の男性が立ち上がっていた。

 片手で喉を押さえ、もう片方の手が宙を掴むように揺れている。


 声が出ていない。


 その瞬間、店の空気が変わった。


 ざわり、と音が走る。


(……詰まった)


 考えるより先に、身体が反応した。


 椅子から立ち上がろうとした、そのとき――


 リート兄様が、もう動いていた。



「リリカ」


 低い声。


 それだけで十分だった。


 リリカ姉様は即座に立ち上がり、男性の正面へ向かう。

 声は落ち着いている。


「大丈夫。今、手当てします。息、止めなくていいですよ」


 言葉の選び方が、はっきりしている。

 男性の目が、わずかに焦点を取り戻す。


 その背後に、リート兄様が回った。

 距離を測り、位置を確認する動きに迷いがない。


 ――一度。


 ――二度。


 短く、確実な動作。


 床に、何かが落ちる音がした。


 次の瞬間、男性が大きく息を吸い込む。


「……っ、は……!」


 咳と一緒に、呼吸が戻る。


 店の中の空気が、一気に緩んだ。



 リリカ姉様は、男性の背中を軽くさすりながら言う。


「もう大丈夫。ゆっくり呼吸してください」


 男性は何度も頷き、周囲の人たちが安堵の声を漏らす。


 リート兄様は一歩下がり、短く告げた。


「……大事には至らない」


 それだけ。


 私は、立ち上がりかけたまま、その場にいた。


 心臓が、少しだけ早い。

 でも、混乱はしていない。


 ――間に合っていた。


 自分が何かを考える前に。

 動く前に。


 胸の奥に残ったのは、驚きと、そして――


(……すごい)


 それだけだった。


◇ ◇ ◇


 店の中は、ゆっくりと元の音を取り戻していた。


 さっきまで張りつめていた空気が、少しずつほどけていく。

 食器の触れ合う音や、小さな話し声が、あるべき場所に戻ってくる。


 助けられた男性は、何度も頭を下げていた。

 言葉は多くない。

 けれど、声の震えが、さっきの出来事を十分に伝えている。


「本当に……ありがとうございました」


 リリカ姉様は、静かに首を振った。


「もう大丈夫ですから。どうぞ、落ち着いて」


 それだけ言って、席へ戻る。


 リート兄様も、特別な様子は見せず、椅子を引いた。

 まるで、最初から立ち上がっていなかったみたいに。


 私は、少し遅れて腰を下ろす。


 スープは、まだ温かい。

 けれど、さっきより湯気が少なくなっているのに気づいて、時間が確かに進んでいたことを知る。



「……食べられる?」


 リリカ姉様が、私の顔を見て言った。


 自分の状態を確かめる。

 手は震えていない。

 呼吸も、もう乱れていない。


「はい……大丈夫です」


 そう答えると、姉様は小さく頷いた。


「なら、続きましょう。冷めてしまうわ」


 それは命令でも、無理な気遣いでもない。

 “日常に戻ろう”という、静かな合図だった。


 私はスープを一口飲む。

 味は変わらない。

 でも、身体に落ちていく感覚が、さっきとは少し違う。


 向かいで、リート兄様が煮込みを口に運ぶ。


「……」


 何も言わない。

 それが、いつもどおりだ。


 けれど、その沈黙には、ほんのわずかな重さがあった。

 悪い意味ではない。

 意識されないまま、そこに残っている重さ。


(……間に合ってた)


 頭の中で、同じ言葉がもう一度浮かぶ。


 自分が立ち上がる前に。

 何かを考えるよりも先に。


 兄様と姉様は、もう動いていた。



 食事を終える頃には、店の中はすっかり落ち着いていた。


 最後に運ばれてきた小さな甘い菓子を前に、リリカ姉様が言う。


「ね。甘いもの、あってよかったでしょう」


「……はい」


 素直に頷く。

 今は、それでいい。


 会計を済ませ、店を出る。


 扉を開けると、夕方の光が目に入った。

 昼と夜のあいだの、やわらかい色。



 外に出て少し歩くと、露店の並ぶ通りに戻った。


 人の流れは、さっきよりも少し増えている。

 街が、次の時間へ移ろうとしているのがわかる。


 私は、さっきまでの出来事を、まだうまく言葉にできずにいた。


 何か言うべきなのか。

 それとも、言わないほうがいいのか。


 迷っていると、リート兄様が足を止めた。


 露店の端で、小さな布袋を手に取っている。


「兄様?」


 声をかけると、兄様は短く言った。


「……今日は、人が多かった」


 それだけ。


 店主に小銭を渡し、布袋を私の手に置く。


「匂いがあると、落ち着く」


 説明は、それ以上なかった。


 掌に収まる小さな重み。

 指先に、やさしい香りが移る。


 胸の奥が、じわっと熱くなる。


「……ありがとう」


 言うと、兄様は視線を逸らしたまま答えた。


「必要だと思った」


 理由を言わないところが、兄様らしい。


 リリカ姉様が、そのやりとりを見て、ふっと笑った。


「今日は、よく歩いたものね」


 それ以上、何も言わない。

 買った理由も、さっきのことも、結びつけない。


 でも、その笑顔が、すべてを包んでいた。


◇ ◇ ◇


 屋敷に戻る頃には、空が少し暗くなっていた。


 部屋に入り、外套を脱ぐ。

 机の上に、香り袋をそっと置く。


 夜の屋敷は静かだ。

 昼よりも、音が遠くなる。


 ベッドに横になり、香り袋を枕元に置いた。


 やさしい香りが、ほんのりと広がる。


 目を閉じると、今日の光景が浮かんだ。


 食事の匂い。

 店のざわめき。

 兄様の迷いのない動き。

 姉様の落ち着いた声。


(……すごい)


 それは大きな言葉じゃない。


 守られている、という感覚。

 それだけが、静かに胸に残っていた。


 香りに包まれながら、私はゆっくり眠りに落ちていく。


 明日になれば、また学院がある。

 馬車に乗って、いつもの時間へ向かう。


 でも今日は、ちゃんと“帰ってきた日”だった。

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