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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

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File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(拾貮) 202X年8月22日

──Side Third-person point of view──

◆202X年8月22日 午後10時08分

富ノ森市 山中


 夜は濃い墨のように沈み、月だけが山肌をかすめていた。

 目が慣れるまで、闇は形を持たない。


 その中を、一つの影が音を立てずに進む。

 木々の隙間からこぼれる光が、足元を短く照らしては消えた。


 土の道は湿り、靴の底が吸い付く。

 足を上げるたび、泥の糸が切れるような音がした。息は浅く、吐くたびに白い気配が空気を曇らせる。

 夜気には、冷えた土と枯れ葉の匂いが混ざっていた。


 坂を登り切った先、闇の輪郭の中に小屋が見えた。


 古い管理小屋──林業者の残した木の箱。

 木造の外壁は黒ずみ、屋根の錆が月光を鈍く跳ね返す。

 扉の錠は外れたままぶら下がり、風に合わせて小さく揺れている。


 影は立ち止まり、音を殺して近づいた。

 手のひらが扉に触れる。

 冷たさとともに、長く乾いた軋みが夜を切った。


 中は暗かった。

 月の光は届かず、湿った空気が層になって沈んでいる。


 靴の底が木の床を鈍く叩く。

 埃の匂いと古い油の臭気が混ざり、呼吸のたびに喉を焼いた。

 指先が壁を探り、角に置かれたポリタンクをそっと避ける。

 そこに、何度も通った人間の癖があった。


 床の砂が擦れ、乾いた音を立てた。

 影は奥まで進み、壁に背を預けてしゃがみ込む。


 闇に目が慣れるにつれ、木の節や釘の錆が浮かび上がっていく。

 息を吸うたび、湿った木の匂いが肺の奥まで満ちていった。

 呼吸の隙間で、黴臭いの味が舌に触れる。


 やがて、唇がかすかに動いた。

 声にならないほど小さく。

「……帰ってきた」


 音は木壁に吸われ、夜へ溶けた。

 ここは隠れ家。

 世界と切り離された自分の、唯一の居場所だった。


 壁にもたれ、目を閉じた。

 瞼の裏に、熱が浮かんだ。

 その熱が形を持つ前に、今夜、自分の行いを回想する。


 街灯の白が濡れた道路を照らしていた。

 夜気の中で、何かが弾ける。


 鈍い衝突音とともに、男の体が宙を舞った。

 それは、自分が振るった力の結果だった。


 骨が砕ける音が、湿った空気の膜を破る。

 肉の重さが地面を滑り、金属が擦れる。

 街灯の明滅に合わせて、血が光を吸い込みながら広がっていった。


 その光景を見つめる自分の呼吸が、熱を帯びていく。


 恐怖ではなかった。

 胸の奥で脈が強く跳ね、手のひらに汗が滲む。

 喉が焼け、肺が熱を求める。

 世界が自分の鼓動に合わせて震えた。


 何もかもが音を失い、夜の色だけが残る。


 唇が動いた。

 誰に向けたでもない、ひとり言のように。


「……また、やった」


 声は笑いとも嗚咽ともつかない。

 その胸の奥で、何かがまだ脈打っていた。


 潰れたモノから染み出す赤を見るたびに、胸の奥が熱くなった。

 吐き気に似た熱が、胃のあたりまでせり上がる。


 あの日以来、色を失った空っぽでモノクロの自分。

 白と黒に代わってしまった味気のない自分に、流れた赤が目から沁み込んでくる感覚。

 心臓がゆっくりと動き出し、呼吸が深くなる。


 血の赤が、自分という存在に色を取り戻させる。

 ──生きている。


 血を見るたび、そう思う。

 他人の命の終わりの中で、自分が確かに動いていると知る。

 その確信が、すべてだった。


 黴と埃のにおいが混ざった空気が、肺の奥でゆっくり広がる。

 腐りかけた木の匂いと湿り気になぜか気持ちが落ち着いた。

 家の中よりも真夏の星空の下よりも、今は、この淀んだ空間の方が静かで、安心できた。


 影は壁にもたれ、目を閉じる。


 指先に残る木のざらつきをなぞりながら、──どうして、こんなことになってしまったんだろう。胸の奥にそんな言葉が浮かび、微かに笑った。


 声にならないその笑いが、埃を含んだ空気に溶けた。



 そのとき、外で何かが動いた。



 砂を踏みしめる音。


 それは一度きりではなく、二歩、三歩──。

 木の根をこすり、枝を折る小さな音が続いた。

 距離は近い。壁のすぐ外。


 影の背中を、木板越しに冷気がなぞる。

 空気の流れが変わった。

 黴と埃に沈んだ空間に、外の温度が紛れ込む。

 その境目で、肌の産毛が逆立った。


 風ではない。獣でもない。

 人だ。

 誰かがこの小屋の外に立っている。


 影は息を止めた。

 板の隙間から漏れる月明かりが、わずかに揺れる。

 壁一枚の向こうに、確かな“生き物の呼吸”があった。


 壁越しに、向こうの息遣いを探る。


 向こうからこちらへ向けられた視線の重さが伝わる。

 ──見られている。向こうも、こっちに気づいている。


 そんな夜更けに、こんな山裾まで偶然来る者はいない。


 空気が緊張で硬くなる。

 影の脳内で瞬間が展開する。狙いは自分か。相手は祈る者か。

 思考は刃物のように研ぎ澄まされ、身体は自ずと応答を用意する。


 息を押し殺す。胸の膨らみを止め、耳を板壁に近づける。

 外の呼吸が伝わる。向こうの影もまた、こちらを探っている。

 規則正しく、背筋の伸びた息遣い。


 ゆっくりと背筋に力を込める。手は自然と扉の縁に伸び、指先がざらつきを確かめた。

 計る。距離を、間合いを。音を出さずに飛び出せば、奇襲は可能か。


 獣じみた獰猛な静けさが体を満たしていく。

 四肢の感覚が鋭くなる。外へ飛び出し、不意打ちをかける準備が整う。


 影は一息で動いた。


 扉を押し開け、夜気を切り裂くように外へ飛び出す。

 靴底が湿った土を叩き、音が山に跳ね返った。

 月明かりが一瞬、視界を白く染める。


 だが、そこには何もいなかった。


 風の音も、枝の軋みもない。

 わずか前まで確かにあった気配は、煙のように消えていた。

 板壁の影も、人の姿もない。

 ただ、月光に照らされた地面の上で、夜露を含んだ空気がゆっくり揺れている。


 影は呼吸を整えようとしたが、胸の奥がまだ熱を持っていた。

 冷えた空気が肌を刺す。

 あの視線の重さが、まだ背中に貼りついている気がする。


 外を見渡す。

 足元に何かが光った。

 白いものが、土の上で月を反射している。


 影は慎重に近づいた。

 誰もいない。だが、確かに「何か」が置かれている。


 ビニールの光沢が、夜気の中でかすかに瞬いた。

 ジップバックの中に、紙の束。


 しゃがみ込み、手を伸ばす。

 ビニールの表面に夜露が溜まり、指先に冷たさが移った。

 湿ったジップを開けると、紙の束がわずかに反り返る。


 そこに印字された活字が、月明かりを反射して薄く光った。


『祈る者:青木葵について』


 呼吸が止まった。

 胸の奥で心臓がひとつ、大きく鳴る。

 指が震え、紙の端を握り潰してしまう。

 ページの下には、短い文が続いていた。

 外見・居所・生活パターン・行動予測。


 文字を追うたびに、熱が戻ってくる。

 喉の奥が渇き、唇が小さく開いた。


 笑いが、こみ上げる。


 喉がかすれて声にならず、頬だけが勝手に引きつった。

 それは驚きでも恐怖でもない。

 胸の奥から漏れ出る、獣のような歓喜だった。


 紙の束を胸の前に掲げ、影はゆっくり息を吸った。

 空気が甘い。血の匂いに似ている。


 視界の端で月が滲んだ。

 そのとき、山の上から一陣の風が降りてきた。

 紙がふわりと揺れ、影の頬をかすめる。


 立ち上がり、紙の束を見下ろした。

 誰が、これをここに置いたのか。

 答えは一つしかない。

 ──祈る者。


 狙いは明白だった。

 自分と青木葵を、同じ檻に放り込み、互いに食い合わせるつもりだ。


 どちらかが残り、どちらかが消える。

 それを遠くから眺め、笑う者がいる。


 影は短く息を吐いた。


 誰が、何を狙っていようとも、どうでもいい。

 ──願いを叶えるためなら、乗ればいいのだ。どうせもう失うものもない。


 紙を握り締めた手に力がこもる。

 指の関節が白く浮かび上がる。

 胸の奥に熱が戻り、心臓が速く打ち始めた。


 ぶら下げられた餌に、本能のまま喰らいつこう。


 笑った。

 声のないその笑いが、夜気に溶けていった。

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