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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

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File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(拾壹) 202X年8月19日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年8月19日 午前9時12分

富ノ森市内 二級河川真名川(まながわ) 河川敷


 一歩を踏み出すごとに、足を(なまり)の沼に突っ込んでいる気分だった。

 背骨に氷柱(つらら)を差し込まれたような怖気(おぞけ)が走る。頭上から照り付ける真夏の太陽に、寒気がする。

 耳朶(じだ)(おお)い尽くす(せみ)の合唱に、吐く息が白い。

 心臓の鼓動は制御弁(せいぎょべん)を壊されたように荒く波打つのに、全身の血の巡りがコールタールのように(ねば)ついて遅くなる心地(ここち)


 圧。


 怖い、分からない、苦しい、痛い、寂しい、寒い、暑い、悲しい、重い。


 景色が白くて、赤くて、青いのに、紫で灰色だ。


 風吹(ふぶき)の気配が覆い隠された橋に、足を進めるたび、自分が立っているのか歩いているのか、座っているのか泣いているのか、よくわからなくて冷や汗が止まらない。

 息を吸うと、肺の中がカラカラとなってきゅう、と(きし)む。

 音ではなく、体そのものが鳴った。


 河川敷の草は膝の高さまで伸び、風に(こす)れ合ってさらさらと音を立てている。

 遠くで草刈り機の唸りが、金属の粒みたいに空気を(ふる)わせた。

 焼けたアスファルトの匂いと、川から上がる湿気が混ざり合っている。

 水面にはトンボが飛び、光を反射して青い線を描いた。

 太陽は容赦(ようしゃ)なく、誰にでも平等に降り注いでいる。


 いつもと同じ、田舎町の真夏の昼。

 なのに、自分だけがこの世に居る心地がしない。知っているのに知らない世界に迷い込んだようだった。


 それでも、歩みを進める。風吹の気配が、消えたその橋を目指して。

 一歩踏み出すごとに息が苦しくなり、吸っているのに酸素が頭に回らず気が遠くなる。

 なぜ、こんなつらい思いをしながら足を引き()るのかすら、曖昧(あいまい)になっていく。


 冷や汗が伝う(まぶた)を閉じると、その裏に揺れるポニーテールが見えた気がした。


 陽炎(かげろう)(にじ)んで、白いTシャツが揺れる。

 汗に濡れた布地が風を(はら)み、デニムの短パンの(すそ)が光を散らす。

 小麦色の肌が、夏の太陽をそのまま閉じ込めたように輝いていた。

 桜色の指ぬき手袋(フィンガーレス)が、薄い光を反射している。


 彼女は笑って言った。


 桜。


 額の汗をぬぐい、足を踏み出す。

 膝は引き()ってケラケラと(わら)う。


 この先、風吹を覆い隠すナニかは、間違いなく叶匣(かなえばこ)の呪いに関係するものだ。

 そして、それは恐ろしく大きく、恐ろしく強いなにか。


 怖い。怖いに決まっている。


 それでも、そこに風吹がいる可能性があるのなら。

 俺は、嫌がる足を切り落としてでも、()いつくばってそこへ向かうだろう。



 坂を登り切り、橋に足を一歩踏み入れた瞬間、脳が軋んだ。


 湿った夏の空気が、(こけ)むした祈りの匂いに変わる。

 線香でも土でもない、もっと古い──神社の石畳が夜露(よつゆ)を吸った朝の匂い。


 視界に写るのは、ただの橋。

 欄干(らんかん)()びて、片側一車線ずつ。舗装(ほそう)の割れ目に草が伸びている。

 車は通らず、空は晴れ渡っている。


 なのに、蝉の声が、風鈴の音に変わった。

 冷たい。夏なのに、冷気が白く滲む。

 耳の奥で“ちりりん”と音が鳴るたび、世界の色がひとつずつ剥がれていく。


 赤が嗤い出し、青が苦しみにのたうち回って、黄がそれを見て歌い出したかと思えば、黒が色を食べて円舞曲(ワルツ)を踊りだす。

 匂いが形を持ち、太陽の光が絵の具に代わって花弁を()き散らす。


 橋の上に差す光が、まるで水底からの反射のように万華鏡(まんげきょう)のように増えて減って一つになって、宇宙を描きながらゆらめく。

 まぶしいのに、暗い。

 目に入る、”ただの橋”の光景と、身体が感じる現実が、まったく()み合わない。


 息を吸えば、肺が膨らむ音が金属の木魚のように鳴る。

 吐けば、川風の代わりに花の粉の匂いが舞う。

 それは、咲いてもいない藤の匂いだった。


 橋桁(はしげた)の影が、逆様(さかさま)に揺れる。

 まるで川面と空が裏返り、橋そのものが鏡の中に沈んでいくようだった。


 鼻腔をかすめる匂いが、夏草から線香に変わる。

 鉄の匂いと混じり、甘く、焦げたように重たい。

 それは墓前の匂いにも似ていた。


 水面に映るのは、橋でも空でもない。

 朱塗(しゅぬ)りの鳥居(とりい)灯籠(とうろう)、石段、苔むした(やしろ)


 一瞬で消えた。


 けれど皮膚は、確かに神域(しんいき)の冷たさを覚えている。

 祈りと(うら)みの境目にいるような、底のない静けさ。

 喉が鳴り、体温が引かれていく。


 ──ここだ。

 風吹の気配が、完全に消えた場所。

 その理由が、今ならわかる。


 ここは橋ではない。

 名のない“あちら側”に、地図ごと沈んでいる。

 ここは、なにかの境界だ。


 そして、橋の真ん中に、”それ”はあった。


 黒。


 それは色ではなかった。

 音と匂いと温度が、ひとつの方向へ沈み込んでできた“空洞”だった。


 黒い靄(のろい)が、橋の中央に立っていた。

 形はない。けれど、形がないこと自体が形のように確かだった。

 風も吹かないのに、(すそ)のような影が揺れ、そこに触れた光は音を立てて消える。

 太陽を、灯りを、熱を、色を、全部喰う。


 音がない。

 なのに、胸の奥で“波”のような脈が聞こえる。

 心臓の鼓動と微妙にずれていて、まるで別の生き物が体の中で息をしているみたいだ。

 喉の奥が勝手に鳴り、声にならない(うめ)きが()れた。


 黒は、夜の色ではない。

 夜には星がある。風がある。人の営みの残滓(ざんし)がある。

 だが、あれには何もない。

 “見た”ことを許される代わりに、見るたび少しずつ自分が削り取られていくような感覚。


 ゆらゆらと、それが息をした。

 橋の上に、影が波のように広がる。

 アスファルトの上を這うそれは、黒い墨汁(ぼくじゅう)が自分の輪郭(りんかく)をなぞるみたいに、じわりと()み出してくる。


 見えないはずの“目”が、確かにこちらを見た。

 その瞬間、頭蓋(ずがい)の内側に冷たい指が差し込まれる。

 脳の表面をなぞられ、記憶の(しわ)がひとつひとつ数えられていく。


 その黒は、生きていた。

 呼吸のように膨らみ、縮み、空気を脈打たせている。

 見ているだけで、心臓が内側から握り(つぶ)される感覚。

 怖い。けれど、目が離せない。

 この恐怖を“知っている”気がした。


 圧倒的な悪意でも、怒りでもない。

 それはもっと深い。


 これは悪意じゃない。

 しかして善意でもない。


 底が見えないほど静かで、澄み切った何かが、すべてを抱きしめている。

 見下ろすでも、赦すでもなく──飲み込むように。


 脳裏に言葉が浮かんだ。

 “愛”。


 理解よりも先に、肉体がそう感じた。

 焼かれてもいい、溶けてもいい、この闇の中に(かえ)りたいと。


 ──底なしの愛。


 その語が心を通過した瞬間、背骨の奥を氷が駆け上がる。

 生が裏返る音がした。


 これは呪いそのものだ。

 だが、愛の形をしている。

 すべてを()み込み、(ゆる)し、(こわ)す。


 それが、黒の正体だと、過程のすべてを飛ばして理解だけが叩き込まれた。


 背骨の奥に、ぬるりとした舌が這う。

 冷たいのに、濡れている。

 皮膚の裏をゆっくりと舐め上げられていくような錯覚(さっかく)に、息が漏れた。

 吐いた息が凍り、胸の奥で音を立てて割れた。


 視界が波打つ。

 地面が、橋が、世界が液状化していく。

 呼吸ができない。

 息を吸うたび、肺の中に黒い墨を流し込まれているようだ。


 (ひざ)をついた。

 (てのひら)が震え、皮膚の下で血がざわめく。

 視界が遠のきながらも、目だけは逸らせなかった。


 焦点が合わない思考の中で、理解だけが脳髄(のうずい)に叩きつけられる。

 

 目の前にあるのは──叶匣そのものだ、と。


 そして、その黒にしては黒すぎて黒に沈む黒の中に、白い(もや)が一筋、(とら)われたように包まれていた。


 風吹だった。


 その白は、脈を打つように揺れていた。


 黒の中心で、風でもないのに流れている。

 すべてが黒に溶ける黒の存在の輪郭だけが異様に鮮やかだった。

 生きている光──それが、胸の奥を()いた。


 白が、こちらを振り向いた気がした。

 距離も、表情も、わからない。

 ただ、見られたと感じた瞬間、呼吸が止まった。


「風吹──」


 声が空気を震わせた刹那、白が弾けた。


 眩しさではない。

 風圧とともに、光そのものが加速した。

 黒を裂き、真上へ。


 流星のような白の尾が、空を一直線に駆け抜ける。

 地鳴りのような静寂が、橋全体を震わせた。


 その勢いは、神々しいほど力強かった。

 なのに、どうしてだろう。

 光の軌跡が、心細さに、泣いているように見えた。


 叫んでも届かないと知っている者の背中。

 遠ざかるたびに、胸の奥で何かが()がれ落ちていく。


 白い靄は、空の彼方へ消えた。

 残光が瞼の裏に焼き付き、涙のような光の線を引いた。


 次の瞬間、残された黒が脈動した。


 白の抜けた空洞を埋めるように、ゆっくりと、しかし確実に膨れ上がっていく。


 ありもせず、見えもしない目と目があった瞬間、内臓が捩じ切れたかと思った。


 橋が鳴る。

 光が、潰されて悲鳴を上げた。


 “それ”は、嗤った。


 音はなかった。

 それでも、耳の奥で確かに響いた。


 おろし金が肉を削ぐような、粘りついた擦過音(さっかおん)

 肉の中で骨がささくれだち、血が逆流する。

 脳の芯に、直接、触れられた。

 痛みではなく、“理解”に近い。


 皮膚の下を、冷たい指が這い回る。

 背骨を撫で、髄液(ずいえき)を混ぜ、心臓を包んでゆっくり握り潰す。

 喉の奥に、生ぬるい呼気が流れ込む。


 それは自分の息ではなかった。

 他人の“笑い”が、口の中に入り込み、甘ったるい(よだれ)に肺の中を往復されるような不快感だった。


 ──にたり。


 声ではなく、体の内側で嗤いが鳴った。

 空間が歪み、視界の端で黒が形を持つ。


 歯列(しれつ)めいた裂け目が笑い、赤に裂けた。

 空に浮かぶ三日月の笑みが、こちらを覗き込む。


 笑いは甘く、そして、祈りに似ていた。

 赦しと拒絶が同じ声で響く──世界の終わりに流れる子守唄のように。


 背骨の中で、誰かが(ささや)いた。

「はやく、終わらせてちょうだい」


 闇が、破裂した。

 空気が反転し、音も匂いも吸い込まれる。

 世界が、一度まばたきをした。


 ──耳鳴り。


 鼓膜の奥で世界が震え、静けさが膨らむ。

 蝉の声が遠くから戻ってくる。

 自分の心臓の音が、それに重なった。


 生きている。

 その事実だけが、最後に残った。


 空は澄み、太陽が照りつけている。

 どこにでもある、真夏の昼。


 息を吸う。

 肺が熱い空気を受け入れ、ようやく“現実”が戻った気がした。


 ゆっくりと立ち上がる。

 橋の向こうを見た。


 橋の向こう。


 陽炎の向こうに、灰色の箱が群れていた。

 窓は割れ、手すりは錆び、雑草が階段を覆っている。

 誰もいないのに、風だけがそこを通り抜けている。


 廃団地──かつての社宅群。

 たしか十五年前から止まった時間の塊。


 目を細めたとき、風が頬を撫でた。

 どこかで、風鈴が鳴った気がした。

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