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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

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File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(拾) 202X年8月19日

──Side 富ノ森(とみのもり)署 刑事課 警部補(謹慎中) 森崎 達也──

◆202X年8月19日 午前10時18分

富ノ森市郊外 小田切 誠の居住アパート前


 ハンドルの上で息を整えた。

 外気温計は三十四度。暑さにアスファルトも()け出さんばかりだ。

 カーナビの時計が九時三十五分を示す。ドアをあけると、暑気が車内に(なだ)れ込んだ。


 坂本運送を五月に辞めたドライバー、小田切(おだぎり) (まこと)

 その元住所が、ここだ。通りから外れた古い集合住宅。見たところ築五十年ではきかない様相。


 外壁の白は灰色を通り越して半ば黒に変わり、階段の鉄が赤く()びている。

 夏の光が、()げた塗料(とりょう)の粒をぎらつかせていた。


 手帳を胸ポケットに滑り込ませ、外に出る。

 (わだち)が複雑に残る狭い駐車場。

 ブロックで造られた輪止めの脇に、誰かが捨てた空き缶が転がっていた。

 (つぶ)れかけた銀色の表面に、光が(にじ)む。


 階段を上がる。

 鉄骨が鳴り、乾いた音が靴の底に(ひび)いた。

 踊り場に積もった(ほこり)が、風もないのに浮く。


 二階の突き当たり。表札は外され、粘着跡(ねんちゃくあと)に汚れが残っていた。

 郵便受けの口が閉まりきらず、封筒が何通も突き出している。

 電気料金の督促(とくそく)、DM、チラシ。

 端が黄ばみ、雨を吸った紙が波打っていた。


 ドアノブを軽く回す。鍵はかかっている。

 取っ手の金属が焼けるように熱い。

 ドアの下の隙間には砂と蜘蛛の巣。このところ一度も掃かれていないようだった。


 誰もいない。

 それが、詳しく見ずとも分かる。

 生活の息遣(いきづか)いというものが、抜け落ちている。


 手すり()しに下を見る。

 昼の光を浴びた砂利(じゃり)の地面。

 他より少しだけ色の浅い箇所(かしょ)が、楕円に沈んでいた。

 光の具合か、あるいは──。


 その時、背中の方でドアが開く音がした。

 金属の蝶番(ちょうつがい)がきしみ、スリッパの音が近づく。


「あらお兄さん、小田切さんに用?」


 振り返ると、隣の部屋から女が顔を出していた。五十代半ば。エプロン姿のまま、洗濯物を抱えている。

 暑さに負けてか、(ひたい)の汗を洗濯ものでぬぐいながら言った。


「小田切さんなら、ここんとこ見てないよ。だいぶ前に出かけたっきり」


「そうですか。いつ頃の話です?」


「いつって言っても……五月の中頃かな。昼間に救急車が来てね。

 奥さんがそこの手すり超えて落ちたって話。

 そのあと、しばらくして旦那さんがでかけて、それっきり」


 共用部の手すりに近づく。


 ()を受けて金属が熱を帯びている。(てのひら)をかざすと、焦げるような感触。

 柵の中央、腰のあたりの一本が、わずかに外側へ曲がっていた。


 古い鉄。直された形跡はあるが、まだ(ゆが)んでいる。

 ぶつかったのか、それとも、もたれたまま押し出されたのか。

 風の通らない空気の中で、金属の匂いだけが濃かった。


「そのとき、誰か見てたんですか」


「私じゃないけど、角の家の人が見たんだって。昼間だったし、窓開けてたから。

 “小田切さんとこの奥さんが手すりから飛び出して、落ちた”って。あっという間にだったらしいよ」


「争ってる声とかは?」


「さあねえ。あたしゃ家の中に居たんだけど、あの日も奥さん怒鳴ってたかしら。日常茶飯事だからあんまりおぼえてないわ。ああ、でも奥さんが落ちたときはなんか、一人で勝手に落ちたらしいわよ」


 洗濯(かご)を持ち直しながら、彼女はため息をつく。

「奥さん、気が強い人だったから。旦那さん、いつも怒鳴られててね。

 “何度言わせるの”って声が、よくここまで聞こえてきたのよ。

 小田切さんとこ、旦那さん、年下だったでしょ? ヒステリーな奥さんで大変そうだったわよ」


「夫婦仲、悪かったんですね」


「どうだか。みーんなあの奥さんキツいって話してたから、見てる方は、もう慣れちゃってたけどね。

 でも、奥さんが死んだときは、さすがにみんな黙ったわ。昼の静かな時間に、すごい音がしたんだから」


「音?」


「ドン、って。地面が震えた気がしたって。あたしも家の中でテレビみてたけど、聞こえたくらい」


 話を聞いていると、雲間から抜けてきた陽の光に目が眩んだ。

 女の顔の輪郭(りんかく)が飛び、まぶたの裏まで焼けるようだ。

 視界が白飛びして、呼吸を忘れた。


 目を細め、手すりの歪みを見る。

 塗装の下の(さび)が、光を吸い込むように(にぶ)く光っていた。


「……怖い話よね。このあたり、昼間でも静かすぎるから。……小田切さん、戻ってくる気なんてないんじゃない?」


「そうかもしれません」


 掌を離す。鉄の熱が皮膚に残ったまま、じわりと(うず)いた。


「まあでも、あそこのご夫婦、もともと上手くいってなかったのよ。

 奥さん、昔は百貨店勤めだったんだって。

 “信じて寿(ことぶき)退社したのに、裏切られた”──とかなんとか酔うとそんなのばっかり。

 でもね……落ちた瞬間、笑ってたって話よ。見てた人が言ってたの」


「なるほど」


「なんか旦那さんが仕事で事故起こしたらしくって、ますますギスギスしてね。

 あの奥さん、人の失敗を許せないーって感じだったから。

 “あんたは一生、誰かに尻拭いしてもらうんだね”って隣のこっちまで聞こえてたわ」


 言いながら、彼女はわずかに眉をひそめた。

「最初は口きいてたけど、あの調子でしょ。あたしも(から)まれたくないもんだから、挨拶くらいの付き合いにしてたわ」


 どうでもいい昔話のように言うが、声には妙な熱が残っていた。


「落ちた日、旦那さんはどうしてました?」


「そう、"旦那さんがついにキレちゃったんじゃないか"って近所でも噂になったんだけど、奥さんひとりで落ちたのよ。旦那さんは家の中にいたみたい。警察も来てたけど事故か自殺みたいな話だったらしいわよ」


 五月半ばなら俺もカフェ・リミュエール(あの店)の事件でてんてこ舞いではあったが、なるほど、確かに、殺人事件(人身モノ)なら流石に署内で話にも挙がるし、俺だって調書は目にいれるはずだ。

 事故で話がついてしまったのなら、記憶にないのも(うなず)ける。


 それで女はようやく息を吐いた。

 洗濯かごを胸の前に抱え直し、「あらやだ、長々とごめんなさいね」と笑ってドアを閉めた。

 廊下に残ったのは、洗剤の香りと息すら躊躇(ためら)うほどの湿った暑さ。


 俺はしばらく、その場に立ち尽くした。

 昼間に柵を()えて落ちた。目撃者あり。

 争う声。旦那は家の中。

 事故か自殺。


 柵の曲がり具合を見ながら、女の話を頭の中で組み立て直す。

 喉の奥がひりつく。息を飲むたびに違和感の苦みが走る。

 この暑さのせいか、それとも──。


 自分で飛び降りたにしては、柵が高い。

 誰かに押された様子なし、目撃者曰く被害者(ガイシャ)はひとりで落ちた。

 妙に胸の奥がざわついていた。


 ポケットの中の手帳の角が指に当たる。

 ページをめくる。

 そこに、ただ一行だけ記す。

 【小田切 誠 妻転落死 再調査】


 文字が熱で滲んで見えた。

 空気が少し歪んでいる。

 目の奥に、違和感が残る。


 誰かに見られている気がした。

 いや、そんなはずはない。


 ──暑さのせいだ。

 ……そう言い聞かせる声が、自分のものじゃない気がした。

 桜の手前、力強く振舞ってはいるが、俺も張りつめていたのかもしれない。


 喉が鳴る。笑ったのか、怯えたのか、参っているのか、自分でもよく分からない。


 階段を下りる。

 踏み板の鉄が焼けて、靴底のゴムが軋む。

 昼の光が、真上から降ってくる。

 熱が皮膚の表面で跳ね返り、空気そのものが音を立てているようだった。


 駐車場の砂利が陽に白く光っていた。

 歩くたび、足裏から鈍い痛みが伝わる。


 風はない。木の葉ひとつ動かない。


 どこかの家の風鈴が、一度だけ鳴った。

 風もないのに。


 骨の中で金属が鳴ったような音がして、背を冷たさが這う。

 耳鳴りかと思った。だが耳を塞いでも、脊髄(せきずい)()く。


 いや、音はなかったのかもしれない。暑気(しょき)にやられたのか。


 車に近づく。

 暑いのに、冷や汗が伝う。


 フロントガラスの中で、青空が溶けていた。

 ドアの取っ手に手をかける。

 金属が熱くて、指先の皮膚が貼りつく。

 手を離しかけた、その瞬間。


 背中の方で、音がした。


 ──靴が砂を()む音。


 細かく、乾いた音。

 ひとつ、ふたつ。

 リズムが妙に一定だった。

 メトロノームのような、精密さで。


 喉が乾く。

 車体の影が、地面の上でじりじりと揺れた。

 汗が背中を伝うのが分かる。


 砂利がもう一度、擦れた。

 音が背後、ほんの一歩の距離で止まった。

 陽射しの中の自分の影が、二つに割れた気がした。

 呼吸が合わない。息が肺の中で迷子になる。


 思わず身構えて、振り返る。


 白い光が、目の奥を焼いた。

 逆光の中に、人影が立っていた。

 背筋の伸びた細い影。


 口が、勝手に動いた。


「……何だ。お前か」


 自分の口から出たはずの言葉が、妙に白々しくて笑えてしまった。

 相手の輪郭が、陽炎(かげろう)みたいに揺れている。


 夏が、呼吸を忘れたように静まった。

 その静寂が、耳の奥で膨らんでいく。


 頭が、音を思い出せずにいるようだった。


 ……そして、どこかで蝉が一匹だけ、鼓膜を破らんばかりに鳴いた。

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