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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

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File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(玖) 202X年8月19日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年8月19日 午前7時36分

富ノ森市 森崎宅


『富ノ森 住宅街でまた衝突死 二名死亡』──その赤帯(あかおび)が、朝より早く目を覚ました。

 テレビの光が天井を赤く染めている。昨夜の記憶は、途中で切れている。

 “また”という二文字が、(まぶた)の裏に重く残る。それを見ても、何も感じない。


 一拍(いっぱく)おいて、その無反応が、自分で怖かった。


 いつの間にか森崎が出してくれた寝袋の中で眠っていたようだ。


 部屋には酒と油の匂いが残っている。ベッドでは森崎が仰向けで眠っていた。呼吸は浅いが、顔は昨日より穏やかだ。


 体を起こすと、肩の骨が軽く鳴った。

 久しぶりにぐっすり眠ったせいか、視界がやけに()んでいる。

 寝袋を抜け出し、台所で水を飲む。ぬるいのに(のど)を通る感触だけが冷たい。


 テーブルの上では、警察手帳が光を吸って黒く沈んでいた。

 昨夜あれを見たとき、森崎の顔は(かた)く、何かを押し殺していた。


 森崎が小さく(うめ)く。体を起こし、寝ぼけ眼でこちらを見た。

「……もう起きたのか」

「はい。すみません、音立てました」

「いい。どうせすぐ目が覚める」


 テレビの中でキャスターが事件の見出しを読み上げている。

 救急車の赤色灯が白い(かべ)に反射し、画面を()める。


「……お前が見たって言ってた件か」


「はい。一昨日、家の近くで。二人です」


 森崎は無言でチャンネルを変えた。どの局も同じニュースを流している。

 住宅街の交差点。ビニールシートの(はじ)が、朝の風に()れている。

 画面の隅に映った作業服の(そで)──白地に青の刺繍(ししゅう)


 坂本運送のロゴだった。


「……坂本だな」

「はい。間違いないです」

「四件で四人。全部、坂本の社員が死んでる」


 ニュースが終わり、無音だけが残った。


「で、お前はどうする。衝突死事件の犯人を調べて、青木に顔と名前を引き渡すのか」

 低い声だった。


 迷わず首を横に振る。

「出したら最後です。あの人は、殺す」


「なら、お前は?」


「……誰も死んでほしくない。風吹(ふぶき)が生き返るとしても、そんなの、違う。違うんだよ」

 (ふる)えた声が、最後の言葉で割れた。


「……そうか」


 しばらく黙って、森崎は息を吐いた。


「捕まえるチャンスがあるなら、やる価値はある」


「どんな異能(のろい)かは、わかりませんけど、俺は殺さずに止めたいって思ってます」


「まあ、お前のキャラなら、そうするよな……」


 森崎は立ち上がり、肩を鳴らした。

「出るぞ。坂本運送だ」


 缶コーヒーを飲み干した胸の奥が、静かに熱を帯びた。


 状況は何も良くなっていない。

 それでも、今日から一歩進める気がした。


◆202X年8月19日 午前8時12分

富ノ森市郊外 坂本運送


 油の(まく)が舌に貼りついた。国道を外れた途端(とたん)だ。

 看板は()び、白い文字が茶色に沈んでいた。


 森崎が車を停め、ハンドルから手を離す。

「……ここだな」

「はい。二日前にも一度来ました」


 その一言で、森崎の眉間に(しわ)が刻まれる。

「二日前?」

 ……あ。


「この素人が」

 声が低い。

「ちょろちょろ外出すんなって言っただろ。だから青木に見つかるんだよ」


 森崎は短く息を吐き、ドアを開けた。

「今更言っても無駄だな。行くぞ」

 言いながら煙草(たばこ)に火をつけ、灰を指で落とした。


 その背に続き、俺も車を降りた。

 夏の光が()ね返る。じりじり、肌が()げた。


◆202X年8月19日 午前8時14分


 ドアノブを握ると、金属の熱さより先に油のぬめりが伝わった。

 開いた瞬間、煙草の匂いが鼻を刺した。


 ──臭い。


 黒光りした床、割れたタイムカード機。

 冷房の風が、(くさ)った紙の臭いを散らした。最悪な空気だった。


「連続衝突死事件についてお伺いしたい」

 森崎は無言で警察手帳を開くと、中間管理職らしい男が硬直(こうちょく)

 近くの運転手に目で「外に出てろ」と合図を送り、課長を名乗った。


「全四件、十一人の被害者の中で、四人。おたくの社員が亡くなってるね」


 課長はうつむき、紙を揃えながら答えた。

「……知ってます。うちは被害者ですから」

 紙を(そろ)える音が、やけに五月蠅(うるさ)かった。


「被害者、ね」


 被害者、という言葉が妙に引っかかった。

 何が間違っているのかは分からない。ただ、何かが違うと思った。


 男は視線を逸らし、机の上の封筒を整える手を止められない。


 森崎は、沈黙した課長の指先を見た。揃えた紙が震えている。

「……何を怖がってんだ」


 一瞬、課長の目が揺れた。


「話してくれたら、何か力になれるかもしれない」



 沈黙を()くように、奥の扉が開く。

 革靴の音とふんぞり返った中年男が現れ、後ろから細身の女が続く。


「社長の坂本です。こっちは妻で専務(せんむ)

 男は椅子にどっかと腰を下ろし、机を指で小突く。


「また刑事さん? 好きですねえ、うちの社員ばっかり」

 社長は笑いながら指で机を叩いた。


 専務がその隣で言う。


「事件に死人に、人手が足りない上に労基に警察にまでつつき廻されて、現場が止まるんですよ。

 納期が飛ぶ。事故だか事件だか知りませんけど、あんなので死んでも保険も降りないし、損しかしてません。

 うちは物流で時間が命なんです。死人が出るたびに生きてる方が止まるんです──ほんと、迷惑なんですよ」


 一気にまくし立て、彼女は爪の先で書類の角を弾いた。軽い音が、返事の代わりみたいに響いた。


「それは失礼。少し話を聞くだけです」

 森崎の淡々とした口調に、室内の温度が下がる。


「で、何べんも来て何を聞きたいんですか。うちはちゃんとやってる」

 “ちゃんと”という言葉に、埃を被った書類棚が小さく反射した。


 森崎は視線をテーブルに落としたまま、切り出す。

「お宅の会社、五月に一人ドライバーが事故を起こして辞めてますね」

 課長が小さく息をのむ。

「ドライバーの名前は?」


「そ、それは……」

 課長が視線を泳がせる。社長がすぐに口を挟んだ。

「退職者だ。今さら関係ねぇだろ」

 その口調は、悪びれもせず、子どもが嘘をつくように軽かった。


 森崎はその言葉を無視し、専務の方を見た。


「教えてください」

 低い声。

 専務は一瞬だけ笑い、乾いた声で言う。



「……小田切です。小田切 誠」



 課長が書類を揃える手を止め、専務の女が笑みを作る。

「事故の件も処理済みです。警察にも全部話しました」

 社長が早口に言う。


 森崎は、問い詰める視線を落ち着かない様子の課長に向けていた。


 その横で、俺は壁に目をやる。

 掲示板の端に貼られた集合写真。色褪せた笑顔の列の中に、作業服の若い男が写っていた。

 名札に──小田切の文字。


「この写真、名札が見えますね」

 俺が指先で示した瞬間、課長の顔から血の気が引いた。

 小田切という男の件について、”言ってはいけないことを抱えている”──そう感じた。


 森崎がゆっくり写真に近づく。

「これだな」

 課長が慌てて声を上げた。

「す、すみません、それは社内用で──」

「ああ、結構です」


 森崎は短く言い、スマホを取り出した。

 カメラのシャッター音が、狭い室内に乾いた音を立てる。


「彼が小田切誠ですね」

 問いながらも、森崎の指はすでに写真を拡大していた。


 専務が笑みを保ったまま、わずかに眉を引く。

「……そうです。うちにいた頃の写真です」


「住所は?」

「古い集合住宅です。給与の控えに……」

 課長が引き出しからバインダーを出し、埃を払う。

 紙の擦れる音が、沈黙を細かく刻んだ。


「ここです」

 指先が止まり、住所欄を示す。


「辞めた奴だ。もううちとは関係ない」

 社長が椅子を軋ませ、机をコツコツ叩く。


 専務が冷たく言った。

「もういいわ、戻って作業続けて」

 課長の肩がわずかに震え、視線を落とす。


 森崎は無言で名刺を一枚置いた。

「この小田切さんの顔写真データ、もしも他にあれば追加で送ってくれ。連絡はこの番号だ」


 誰も受け取ろうとしない。


 社長がわざとらしくため息をつき、椅子を軋ませた。

「もういいか。忙しいんでね」


「行くぞ」

 森崎は短くそう言い、踵を返す。

 俺も小さく会釈して後を追った。


 ドアを閉めた瞬間、内側から怒声が上がる。

 机を叩く音。紙の散らばる音。


 外の空気は、排気ガスの匂いがするのに、中より空気が澄んでいる気がした。

 森崎は煙を吐き、言った。


「腐ってんな」


◆202X年8月19日 午前8時22分

富ノ森市郊外 坂本運送 駐車場


 車に戻るまでの間、空気が油の膜みたいに肌にまとわりつく。


 森崎は無言のまま運転席に座り、煙草を咥えた。


「何か(かく)してますよね」

 俺が口を開くと、森崎はわずかに頷く。

「見りゃわかる。あのタイプは、腐っても隠す側の人間だ」


 森崎は煙草に火をつけ、ハンドルを握った。

「小田切の住所に行くぞ」


「俺は……」

 言葉を探して、口をつぐむ。


 窓の外、熱で揺れる空気の向こうに信号が(にじ)んで見えた。


「昨日言ってた“女の子”を探します。もう青木には俺が生きていることがバレたんだ。昼でも動ける」


 森崎が目だけをこちらに向けた。


「女の子?」


「俺が気配を感じられるっていってた女の子です。第四の現場で、事件があった夜に見たんです」

「見た?」


 叱責の前の間。


 森崎はしばらく黙っていた。

 その沈黙が、蝉の声より重く感じた。


「……なんで黙ってた」

 ようやく落ちた声は、怒りと、疑惑と、落胆を孕んでいた。


 俺はフロントガラスの向こうを見たまま、言葉を探す。

「……自分の見たものが信じられなかったんです。見間違いかもって」

 俺が風吹を、見間違えるはずなんて、ありはしないけれど。


「見間違いでも報告しろ!」

 森崎が声を荒げ、ダッシュボードを叩いた。


 沈黙。


「お前の“かもしれない”が──人を殺す。殺すんだよ」

 その声が胸を貫いた。怒りというより、焦りに近い熱だった。

 その怒りが、森崎自身にも向いているように見えた。


「……分かるか!」

 森崎の声が胸の奥に焼きついた。

 何も言えなかった。

 空気が止まったように感じた。

 その静けさが、痛かった。




 一拍ののち、森崎の視線がフロントガラスの先へ抜けた。


「叱ったって時間は戻らねぇ。……けど、次は俺を信用しろ」

 そう言って、シートにもたれた。


「……で、今行く意味は?」


「彼女も祈る者(プレイヤー)です。でも……“殺す側”じゃない。彼女は彼女で何か掴んでるかもしれない」

「現場で見たならその”女の子”が犯」「ありえません」


 沈黙。



 やがて、森崎は小さく息をついた。

「わかった。お前はその“女の子”を追え」

 森崎は息を吐き、少しだけ口元を緩めた。


「……危ないことはすんな。何か掴んだらすぐ連絡しろ」


 一拍のあと、低く続けた。



「いいな──桜」


 その声は、怒鳴ったときよりもずっと静かで、あたたかかった。


◆202X年8月19日 午前9時03分

富ノ森市内 真名川沿い


 車を降りたあと、異能で風吹の気配を辿り、森崎とは別方向へ歩いた。


 真名川の堤防沿い。

 歩くたび、靴底が砂利を噛んだ。

 川風(かわかぜ)はまだ生ぬるい。


 空は澄んでいるのに、遠くの雲がやけに低い。

 蝉の声、車の音、川に吸われるように薄くなる。


 風の向きが変わった。

 さっきまで湿っていた暑気が、突然、乾いた氷みたいに冷える。


 音が遠ざかっていく。

 街の音、蝉の声、流れていた風。全部、膜の向こうに閉じ込められたみたい。


 耳鳴りの感覚があるのに、それすら聞こえない。

 鼓動も、呼吸も、知覚の奥に吸われていく。


 風吹。


 呼んでも、何も返らない。

 それどころか、さっきまで確かにあった“気配”そのものが、大きな手に(おおい)い隠されたように感じた。


 胸の奥が、静かに沈む。

 探ろうとしても、何も掴めなかった。

 あの日と同じだ──青木に襲われた夜、風吹の気配を感じられなかった、あの瞬間と。


 立ち尽くしたまま、拳を握る。

 皮膚の下の血の温度だけが、かろうじて現実を繋いでいた。


 胸が、内側から押し出されるように浮いた。

 焼けつく陽射しの中、橋の影が一瞬、逆流した。

 ──まただ。世界が、(ゆが)んでいく。誰かの笑いが、喉の奥に入り込んだ。

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