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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

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File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(捌) 202X年8月18日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年8月18日 午前8時51分

富ノ森市内 森崎宅


 通話が終わって、五分が過ぎた。

 何も、動かない。


 立ち上がろうとして、脚が動かなかった。

 息が乱れる。

 (せみ)の声が、遠くで震えていた。


 机の上には、放り出されたの警察手帳。森崎は視線をそこから外さない。

 壁にかかった時計の秒針が、六時三十五分で止まっているのに気付く。


 口が乾いた。

 息を吸い込み、言葉を探す。



「……これから、どうしますか」



 森崎はすぐには反応せず、机を指でなぞり、ゆっくりと顔を上げる。


「お前、年いくつだ」


「二十一です」


「若ぇな。……飲めるな」


 森崎は机の脚元(あしもと)からセカンドバッグを取り出す。

 中から(しわ)のある一万円札を一枚、無造作(むぞうさ)に差し出した。


「強いの買ってこい。つまみも」


 俺は(くちびる)()んだまま、受け取った一万円札を見つめた。

 森崎の指先は、(かす)かに(ふる)えていた。

 その震えが、机の木目の影と同じリズムで()れているのが見えた。


「現実逃避ですか」


 ようやく出た言葉は、乾いた空気に吸い込まれて消えた。





「馬鹿野郎。逃げねえから、まず飲むんだよ」





◆202X年8月18日 午前9時02分


 ビニール袋が手からぶら下がって、缶同士が軽くぶつかり合う音を立てた。


 森崎は窓の前に立っていた。煙草の先が光を割っている。


 机に袋を置くと、音が乾いた部屋に弾けた。

 油と塩の匂いが広がる。


 ストロングゼロ、ハイボール、スパークリングの小瓶(こびん)

 唐揚げ、とん平焼き、スモークチーズ、ポテトチップス、(あぶ)り明太子、塩枝豆。


 彼は椅子に腰を下ろし、缶を一本取る。

「わかってんじゃねぇか。ストゼロ」


「強けりゃいいんですよね」


「そう。強けりゃ正義だ」


「辛い時はストゼロって、学校で習いました」


「どこの学校だそりゃ……ちげえねぇ」


 ふたり、同時に缶を開けた。炭酸の破裂音(はれつおん)が、静かな部屋を貫いた。


「いい音だな」

「音?」

「生きてる音だ」


 一口目でむせた。

 (のど)に刺さる炭酸が痛くて、思わず笑いが漏れた。

 その笑いが、自分のものじゃないみたいに(ひび)いた。


 泡が弾ける音が耳の奥に残った。


 森崎は半分ほどを一息で飲み干し、息を吐くたびに酒の匂いがゆるく(ただよ)う。


 しばらくは、何も言葉が出なかった。

 缶を持つ手の汗が、冷えた金属を(すべ)っていく。

 時計の針は止まったまま。





 森崎が缶を指で(はじ)いた。乾いた音が()ね返る。

 低い声が落ちた。



「お前、なんで大学行ってねえんだ」



 唐突(とうとつ)だった。でも、責める響きじゃなかった。

 ただ、何かを確かめるような声。


「前に言ったとおりですよ。家庭の事情で」


「もう隠し事はなしにしようや。命までかかった一蓮托生(いちれんたくしょう)だ」


 飲み込んでいた炭酸が、喉の奥で()ぜた。

 逃げ場がなくなった気がして、俺は視線を落とす。

 指先に触れる缶の冷たさだけが、現実の輪郭(りんかく)だった。




「……幼馴染がいたんです」




 ぽつりぽつりと、口が動く。


 幼馴染の風吹(ふぶき)が病で死んだこと。

 その日から自分が止まってしまったこと。


 キャンバス。家の近くの緑地公園。信号待ちの交差点。駅。

 どこにいても、居るはずのない彼女を探して、大学に行けなくなってしまったこと。


 彼女の笑顔がまだ頭に残っていること。

 生まれてからずっと二人一緒で、なぜ自分だけ生きているのか分からなくなったこと。

 朝が来ても息をしているだけで、何も続いていかない日々。


 森崎は何も言わなかった。

 空になった缶を、手の中で転がす音だけが響いた。


 俺は言葉を終えると、黙ってストロングを口に運んだ。

 甘ったるい酒精(アルコール)が喉を焼く。


 一気に飲み干すと、胃の底で火が(とも)ったみたいに熱くなった。

 缶を机に置いたときの音が、やけに(かた)く響いた。


 無意識に、缶を落とした。金属が床で跳ねて、(にぶ)い音が響く。

 中身が少しこぼれて、足元がぬるくなった。

 拾おうとした手が震えて、また落とした。


 森崎が一瞬だけ目を動かした。何も言わない。

 その沈黙が、痛かった。




「……三つ、聞きてぇことがある」




 ようやく落ちた声は、低くて(かす)れていた。

 さっきまでとは違う音色だった。


「まず、お前の異能(のろい)はどういうモンだ」


 俺は指先で缶の縁をなぞりながら、ゆっくり言葉を探した。



「俺の異能(のろい)は、一人の居場所が分かるだけです」



「居場所がわかる? 一人?」


「女の子です」


 名前を出した瞬間、何かが壊れる気がして、舌が止まった。

 喉が痛くて、言葉が引っかかる。


「どっちにいるか、近いか遠いか、それだけ。声も姿も見えません」


 森崎は短くうなずいた。

祈る者(プレイヤー)の感知ってことか? 瀬川のことは?」


「感じません。その子だけです」


 その言葉を吐いたあと、部屋の空気が少し沈んだ。



 一拍(いっぱく)



 森崎が何かを言いかけて、やめた。


叶匣(かなえばこ)にはどうやって選ばれるんだ」


「正直、俺は何も覚えてないんです──選ばれてるとき(おそ)われたらしくて、俊兄(しゅんにい)が助けてくれて……気づいたらもう、選ばれてた」


 自分でも何を先に話してるのか分からなかった。

 頭の中で順番がバラバラになっていく。


 森崎が(まゆ)を寄せ、短く(うな)る。


「ふむ……他にも、そういうやつは?」


「さっき言ってた女の子は。自分の名前も含めて記憶喪失で」


「なるほど。なにがなんだか、ってワケね」


 森崎は黙って、缶を干し、握った。

 金属が割れるような音が、静かな部屋を打つ。

 森崎は何も言わず、(つぶ)れた缶を灰皿の横に置いた。


 俺も、缶を(あお)る。さらに、もう一本を開ける。

 酒と油の匂いが部屋に漂う。


「もう一つ」

 森崎さんが言った。

「勝ったら、何を願う」





 喉が詰まる。

 心臓の音が、鼓膜の裏で鳴っていた。


「……いや、別に……」

 声が裏返る。笑って誤魔化(ごまか)すつもりが、うまくいかない。


「わかんないっすよ、そんなの」


 森崎は、視線を逸らさない。一言、低く言った。


「答えろ」


 その声に押し出されるように、喉の奥が勝手に動いた。



「……幼馴染を──」



 心臓。

 五月蠅い。




水瀬(みなせ) 風吹(ふぶき)を、生き返らせたい」




 笑うしかなかった。馬鹿みたいだった。

 人が死んでるのに、生き返らせたいなんて──。


 それでも、その願いだけは嘘にできなかった。


 言いながら、笑ってしまった。

 笑いながら、自分でも何が可笑しいのか分からなかった。

 視界が(にじ)んだ。


「やばいっすよね。人が死んでんのにさ、生き返らせたいとか。バカですよ。……ほんと」


 森崎は何も言わない。

 缶の表面を指でなぞる音が、静まり返った部屋に小さく響いた。



「そのために、他の奴を殺すことになってもか」



 笑いが止まった。


 息が浅くなる。

 冷めきった酒の匂いが、鼻の奥にまとわりつく。


「……殺すとか、正直、嫌です……。そんなの、嫌に決まってるけど……」


 手が震えた。


「でも、“でも”しか出てこねぇんですよ。嫌だし、無理だし、……でも、風吹に、風吹に会いてぇ」


 景色が、回って見える。


「会いたいって思うだけで、もう頭ぐちゃぐちゃで、……何が正しいのかも分かんなくなって、……あー、クソッ!」


 缶を掴んで、机に叩きつけた。金属が潰れる音がして、液が飛んだ。

 視界がぼやけた。


 涙が出ているのか、汗なのか分からない。

 顔が熱かった。


 泣きたくなかった。ここで泣いたら、負けな気がした。


「それでも……俺、どうしても願いたいんです。風吹を、生き返らせたいって」


「でも、それが誰のためなのか、もう分かんねぇ。風吹だって、生きたかったはずで、もしもう一度生きられるなら──たぶん喜んでくれると思う」


「でも、もし俺が誰かを殺して──その上で風吹が生きることになったら、あいつ……きっと壊れる」


「人の犠牲で生きるなんて、あいつ、絶対そんなの望まねぇ。……絶対に」


 喉が焼ける。(ほお)が熱い。


「だから……もう、どうすりゃいいか分かんねぇんです。なんで俺なんだよ。なんで、こんな時に俺なんだよ。なんで風吹じゃねぇんだよ……」

 声が裏返った。

 自分の声が自分の耳に刺さった。


 息が()れて、笑った。笑ってないのに笑った。


「叶匣のこと聞いたとき、真っ先に浮かんだのは風吹を生き返らせる、それだけだったのに。

 でも叶えても、多分俺が(こわ)れる。風吹も壊れる。……それでも、願いたくて。意味わかんねぇ、マジで」


 言葉が途切れた。




「クソだよ……マジでクソだ」




「優しいとか言われんのも腹立つし、俺、そんなんじゃねぇのに。

 風吹のこと思い出すだけで気持ち悪くて、でも……でも、会いてぇんだよ。死ぬほど」


「殺すなんて、嫌に決まってるのに。でも、どうすればいいか分かんないんです。

 生き返ってほしいって思うほど、間違ってる気もして。どこまで何が正しいのか、もう分かんない」


 そう言って、無理やり笑った。

 冗談みたいに肩をすくめて、空になった缶を持ち上げた。


「……飲みすぎですよね。俺」

 笑いながら、涙が滲んで視界が歪んだ。


 沈黙。

 森崎は視線を動かさなかった。

 酒が滴る音が三度、床に落ちた。


 缶の重みを腕に感じたまま、しばらく何もできなかった。

 液が手を伝って冷たく固まる。


 森崎は煙草(たばこ)に火をつけ、ゆっくり吸い込んだ。白い煙が流れる。


「最初は、お前を疑ってた」

 声は平坦で、どこか遠かった。


「そりゃあ、どの事件にもお前の影があったからな。関係者だと思うのは当たり前だろ……まあ、当たってたけど」


 俺は答えられなかった。喉に何かが引っかかって、声にならない。舌先に酒の熱が残った。


「……はい」


 短く返すと、森崎は小さく息を漏らした。(けむり)がゆるく揺れて、天井の白に溶けていく。視線は床の一点に固定されている。


「でも今は違う」

 言葉の中に、何かが溶けて落ちる音がした。

「お前は……人を傷つけたい奴じゃねぇ」


 胸の奥が、ぎゅっとなる。言葉が俺の身体の中で振動した。どこかで待っていた答えが、今出てきたような気持ちだった。感謝とか安堵(あんど)とか、そういう似た声を探したけれど、見つからない。


 森崎は顔を上げ、短く鼻で笑った。

「お前、優しいな」


 それが、短い評価だった。言い方に含まれる重みが、俺の胸を押し潰す。優しさが欠点だと小さく宣告される。俺は咄嗟(とっさ)に「それが一番の欠点ですね」と返した。冗談交じりの乾いた声が震えた。


「確かに優しさだけじゃ何もできやしねえ」

 森崎の眼が真剣になった。


「力が足りねぇ時は、借りろ。できねぇ時は、叫べ。……俺みたいに、独りに逃げる前にな」


 間が開く。空気がそこに引っかかって、ふたりの呼吸だけが残る。森崎が視線を上げ、俺をじっと見据(みす)えた。目にあったのは、叱責(しっせき)でも励ましでもない、どこか渇いた期待の形だった。


「本当にどうしようもなくなったら、助けて達也さんって言え。……俺に」


 言葉が、静かに部屋に落ちた。

 俺は息を漏らした。


「言える気しません」


 文字通りに言ってしまう。自分が卑怯(ひきょう)だと感じた。小さく、負け犬みたいに。


 森崎は笑っていなかった。彼の顔の筋肉がわずかに震えるのが見えた。


「言え」

 声が震えていた。


「……俺が、言ってもらいてぇんだ」

 森崎の声が途切れた。小さく咳をした。

 かすれた笑いで誤魔化した。


「……俺も昔、言えなかった。……いや、違ぇな。言わなかったんだ」


 煙が揺れて、目の奥が赤く見えた。

 言葉を失う。


「……はい」

 それしか言えなかった。


 床には潰れた缶と酒の痕跡(こんせき)が点々と続いていた。森崎の煙が、天井へゆらゆら昇る。


 二人、言葉を使い果たしたみたいに黙った。

 俺は潰れた缶を一つ拾い上げ、机に立て直そうとして失敗した。


 金属が転がって、床で静かに止まる。

 その音が、最後の呼吸みたいに響いた。


 喉の奥で、助けてって言葉が()びついていた。出せなかった。


 森崎の煙が、薄くなっていた。


 俺は喉に指を当てた。声を出そうとして、息が漏れた。

 その瞬間、蝉の声が止んだ。


 床に落ちた缶が、ゆっくりと転がっていく。


 夏しか、もう動いていなかった。

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