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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

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File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(漆) 202X年8月18日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年8月18日 午前8時23分

富ノ森市内 住宅街


 森崎の家に、呼び出されていた。青木(あおい)と通話をするために。


 ふらつく足取り。真夏の午前を進む。


 朝の光が、痛い。

 昨夜はほとんど眠れず。

 (まぶた)を閉じても、あの血の色が(ひとみ)の裏に()げ付いている。


 ──風吹(ふぶき)が、人を殺したかもしれない。


 砕けた車体。血の中に立ち尽くす背中。

 その映像を、脳が(こば)む。


 同時に、思い出す。

 朝の台所で焦げたトーストの匂い。苦いコーヒーに顔を(しか)めた声。

 ささやかな空気が、まだ胸の奥で息をしていた。


 昨夜。八日ぶりに再会した風吹。この八日間ずっと追いかけ続けてきた彼女が、目の前に居た。

 それだけで(むく)われるはずだった。なのに、あの瞬間、(こわ)れた。


 青木の異能(のろい)(おぼ)れたあの夜。

 自分が“生きていた”ことが救いではなく──(ばつ)のように思える。


 (のぞ)き込んだ風吹の瞳には、感情がなかった。

 喜ぶでもない。怒るでもない。


 ただ、血の匂いの中で俺を見た、その目が忘れられない。


 胸の奥に、冷たい手の(あと)が沈む。


 ──本当に、彼女がやったのか?

 考えるたび、脳の奥が引き()る。


 もしそうなら、俺が救われた夜は何だった?

 命をくれたその手が、誰かの命を奪ったのか?


 理屈も感情も混ざり合って、体の内側で音を立てる。

 吐く息が熱く、喉の奥が()びていく。


 蝉が(わめ)く。焼けた空気の中で、空気が笑っていた。

 風が通った。夏草の匂いが喉を震わせた。


 風が途切れても、その匂いだけ鼻に残る。


 そんなことを考えている自分が、呑気(のんき)で、笑ってしまいそうになる。


 青木(あおい)

 顔と名前を知るだけで殺せる祈る者(プレイヤー)

 一度、俺を殺そうと、いや、一度殺した女。


 青木の口が、一言俺の名前を結ぶだけで、俺の生涯(しょうがい)は幕を閉じる。


 それを知っていて、今、歩いている。

 息を吸うたび、肺の奥で「生きている」という音がずれる。

 いつ止まってもおかしくない機械を、手動で回しているような感覚。


 今、止めるわけにはいかない。


 この歩みを止めたら、何も確かめられないまま終わってしまう。

 風吹がどうして俺を避けるのか、本当に衝突死事件の犯人は風吹なのか、青木がなぜ俺を生かしているのか──その理由を知らずに、ただ死ぬのは違う。


 怖い。けれど、怖いまま進む。

 (ふる)える足で。

 生かされている理由を、自分の手で(つか)むために。


 俺はまだ死ねない。


◆202X年8月18日 午前8時52分

富ノ森市内 森崎宅


 外階段の鉄が、朝の熱を(はら)んでいる。

 靴底が鳴るたび、乾いた音が壁に反射して返る。

 二階の踊り場。プレートには小さく「MORISAKI」。


 インターホン。

 数秒もせず、内側から鍵の回る音。


「来たか」


 ドアの隙間から、煙草(たばこ)とコーヒーの()い匂い。

 眠気(ねむけ)の抜けない声。目だけは()えている。


 通されたのはワン・エルディーケイの殺風景(さっぷうけい)な部屋だった。

 玄関を抜けるとすぐ、細い廊下の突き当たりにリビング。


 十二(じょう)程度の部屋に、金属と紙の匂いが沈んでいた。


 (かざ)り気はない。散らかりもない。

 片付けというより、不要なものが最初から存在しない部屋。

 蛍光灯の光が、灰皿を白く照らしていた。



 音のない時間が二人の間に沈む。



「座れ」


 森崎が(あご)で示した先。折り畳みのアウトドアチェア。

 布地の端が擦れて少し色あせている。普段から人を招くことがないのだろう。

 簡素で、居場所のない椅子。妙にこの部屋には似合(にあ)っていた。


 俺は無言で腰を下ろす。

 金属の骨組みがわずかに(きし)み、布地が身体の形に沈む。

 隣で、森崎が革張りのPCチェアに腰を掛け、革が鳴いた。


 男二人、肩を並べてデスクに向かう。


「森崎さんの部屋って意外と……」

 言いかけて、口の中で言葉を探す。

 机の片隅に、(みが)かれたバイクの模型(もけい)。少しの人間味。

「なんだ、強引な奴だから散らかってるとでも思ってたか」

 森崎が小さく(まゆ)を動かし、かすかな笑いが混じる。


「まあ……事務所の鍵ピッキングして突入してきた人なので、マメなイメージはなかったです」

 森崎の口角がわずかに上がる。


「言ってろ、ガキが。俺だって(あせ)ってたんだ」

 照明の白が(ほお)に反射し、一瞬だけ、声の底に柔らかい熱が(とも)った。


「今もな」

 机の中央にスマホが一台。

 液晶の黒が、二人の顔を(ゆが)める。


 森崎は無造作(むぞうさ)に指を置き、通話アプリを開いた。

 その動作の一つひとつが、警察官というより解体工(かいたいこう)のように荒々しい。


「録音は入れておく。スピーカーにする」

 低く、(にご)りのない声。

 その言葉が、これから起こることの輪郭(りんかく)を冷たくなぞる。


「……一旦お前が隣にいることだけ伝わればいい。そのあと、お前は黙っていろ」


 (うなず)く。

 自分の(つば)を飲み込む音が、やけに大きく(ひび)く。

 外では蝉が鳴いている。

 季節の音だけが現実で、この部屋の空気はすでに別の世界に入っていた。


「……殺されるかもしれませんね」


 森崎の手が止まった。

 顔を上げず、静かに言う。


「……そうならねぇように、俺がいる……つもりだ。異能(のろい)なんてもん相手に何ができるかわかんねぇけどな」


 言葉に、わずかな熱。職務でもなく、(なぐさ)めでもない。

 死を前提にした人間の、覚悟の温度。


 スマホの液晶が、蛍光灯の光を跳ね返して(あわ)明滅(めいめつ)している。

 画面の上で、自分の影が揺れて見えた。


 この黒の向こうに、殺意を持つ相手がいる。

 その現実が、肺の奥を重くした。


 森崎が一言も発さないまま、親指で通話ボタンを押した。

 発信音が鳴る。

 一定のリズムで、乾いた電子音が空間を叩く。


 息を止める。

 時間がひとつ、長く伸びた。


 ──そして、静寂(せいじゃく)


 音が途切れた瞬間、“ぽたり”と水音が落ちた。


 通話の向こうから、声が(すべ)り込む。

 湿(しめ)った空気を吐くように。



「おはよう。……二人とも、聞こえてる?」



 女の声が、近い。

 鼓膜の裏を()でるような、ぬめりがあった。


 森崎が目線で合図を送ってくる。ひとまず、この場に俺がいることを証明するため、呼び()ける。


「あんたが……青木(あおい)か」


「あら、はじめまして。でも、フルネームで呼ばないで。縁起(えんぎ)でもないわ」

 軽い笑い声。

 水面に小石を落としたような、かすかな波紋(はもん)だけが残る。


 女の息が近づいた気配。

 その響きが、鼓膜のすぐ裏で震える。


「ねえ、相川くん」


 名前が出た瞬間、肩がわずかに()ねた。

 体の奥が凍りつく。呼吸をひとつでも誤れば、肺に水が流れ込むような緊張(きんちょう)


「どうして生きてるの?」



「私、ちゃんとあなたの顔を見つけてから、呼んだのよ。どうしてなのかしら?」


 森崎の手がわずかに動く。

 反射的に(くちびる)を結び、息を殺した。

 机の上のスマホが、まるで生き物のように光を脈打つ。


 沈黙。


 空気が、呼吸を忘れた。


 森崎が低く割り込む。

「話は俺とだ」


 一拍の間をおいて、青木が笑う。

 その笑いは冷たくも、どこか甘い。

 液晶の向こうで、誰かが唇を濡らす音がした。


「いいえ、刑事さん。あなたは聞いてて」

 (ささや)くように。

 呼吸がひとつ混じるたび、空気が湿っていく。


「ねえ、相川くん」

 また名を呼ばれる。

 背筋の奥、骨の芯が冷たく締まる。


「あなたの異能(のろい)、他の力を打ち消すの?」

 響きが微かに笑みを含む。



「……違うわね。きっと無効化じゃない」



 声がわずかに沈む。

「今ここで確かめてみようか?」


 空気が止まった。


 森崎の指が机の上で小さく動き、俺は反射的に息を吸った。

 喉の奥で声が勝手に(はじ)ける。


「やめろ」


 森崎が横目でこちらを(にら)む。

 叱責(しっせき)ではなく、覚悟を確認するような視線だった。

 青木の笑い声が、その瞬間に落ちる。


「……あら、反応した。焦ったほうがかわいい声ね」

 声が柔らかくなる。

「もう少し(しぶ)みがかかったほうが私の好みだけど……青い頃でも、あなたは美味(おい)しそう」


 ぞっとするほどの静寂。


 笑い声が水飴(みずあめ)のように(とろ)けて落ちる。

 液晶越しに、見えもしない青木の息づかいが、首筋を撫でるよう。


「ふふ、なるほど」

 笑いは、喉の奥で湿った音を立てた。


「やっぱり、異能(のろい)を無効化できるわけじゃないのね」


 聞き手の呼吸を確かめるような間。

 その“間”に、自分の心臓が一拍だけ遅れた。


「じゃあ、あの夜あなたが助かったのは──何か別の要因」


 森崎の眉がわずかに動く。

 俺は唇を噛む。

 青木の言葉がじくじくと部屋に広がり、温度を少しずつ奪っていく。


「興味が湧いてきたわ」

 囁きが、わずかに弾んだ。

 そこに怒りも敵意もない。

 ただ、未知の玩具を前にした子供の好奇心。


「あなたを助けた“何か”──それってどんな祈りかしら」


 机の上のスマホが震えた気がした。

 音も匂いも、全部がその女の支配下にあるような錯覚。


 森崎の(こぶし)が机の上で、一つ(にぶ)い音を立てる。

 その音が唯一、この空気を現実に引き戻した。


 押し黙る。

 喉の奥に何かを詰め込んだまま、息を殺して座る。

 青木の笑みが、液晶の向こうで形を変えたように思えた。


「それじゃあ、本題に入りましょうか」

 青木の声は変わらず(おだ)やかだった。


「連日の衝突死事件──当然、知っているわね」

 だが水底の(どろ)がゆっくりと混ざり、(にご)っていくような感覚がある。


「当たり前だけれど、あの事件は“偶然”じゃない。他の事件と同じ、常識では測れない”現象”」


「……現象ね」

 青木の中ではもう、“十一人もの死”が現象のひとつに過ぎないらしい。


「あなたたちは、犯人の顔と名前を調べて、私に伝えてちょうだい」


 声が、ひと(きわ)()んだ。

 取引というより、もはや命令。


 俺は息を詰めた。

 あまりにあっさりした言い方だったからこそ、逆に逃げ場がなかった。


「もしくは、あなたたちが直接”誰かを”()()()()()()わ。()()()()()()なら、私はどちらでも構わない」


 森崎の指先が動く。

 その意味を理解する前に、口が勝手に動いていた。


「……俺を、いや、俺たちを使って人を殺す気ですか」


 間が落ちる。


 スピーカーの向こうで、吐息がひとつ混じった。

 ()()()()()()。人を衝突死させるという凶行(きょうこう)を止める、ではない。青木の言う止めるものは……人の息の根だ。


「そんな怖い言葉、やめましょう。私は顔と名前を知りたいだけ。“殺す”なんて、まるで犯罪者みたいに言わないで」


 青木の声が、ひどく優しく笑う。

 その“優しさ”が皮膚(ひふ)の裏まで滑り込んでくる。


「“現象を止める”──そう言ったほうが、正義っぽく聞こえるでしょ?」


 脳が熱を帯びた。

 冷静でいようとするほど、体温が裏返る。

 正義。

 その言葉を、こいつの口から聞くことになるとは思わなかった。


「私だって止めたいのよ」

 言い切ったあと、ほんの少しだけ間があった。

 通話の向こうで、水が静かに動いた気がする。


 そして、声のトーンが下がる。


「顔と名前があれば、ね」


 心臓が逆流した。


「役に立てば安全は保証する。役に立たなければ──刑事さんか坊や。どちらの名前を呼ぶか、私の気分次第」



 無音が、刃のように張り詰める。




 森崎の低い声が、ようやくそれを断ち切った。

「具体的にどうする」


「二週間あげるわ。調べて、報告して。それで終わり」


 水の向こうで、笑い声が泡になって弾けた。


「約束を破れば──森か、夏の桜は枯れるわ」


 名前を呼ばれた瞬間、体が強張(こわば)った。

 胸の奥で何かが一拍、狂ったように跳ねる。

 冷たい(まく)が喉もとにまとわりつく。

 水圧のように、ゆっくりと命の境を締めていく。


 森崎の(こぶし)が再び机を叩いた。




 やがて、森崎が口を開く。

「……わかった、一晩考える」


 短い沈黙。

 通話の奥で、静かな水音が跳ねた。


「私、待つのは嫌いなの」

 声が一段、近づく。

 液晶の黒い光が波打ち、森崎の頬をかすかに照らした。


「そんなにすぐ決められる話じゃな「今、決めて」


 灰皿の中の吸い殻が転がった。

 壁が、呼吸を忘れた。


「……わかった」


「いい返事。じゃあ、二週間後までに”結果”を待ってるわね」


 通話が途切れた。

 時計の音だけが、薄い水膜(すいまく)のように部屋に残る。


 俺は唇を開いた。

「……俺たち、今のを受けたってことは……」


 言葉の続きを、森崎が引き取った。

「ああ。殺人者に手を貸すことになる」


 森崎は息を吐き、背もたれに体を預けた。


「……くそったれ」

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