File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(伍) 202X年8月17日
──Side 元主婦 青木 葵──
◆202X年8月17日 午後9時12分
富ノ森市 自宅
画面の白は舞台照明に近い。熱を削る光。
指先がガラスを撫でるたび、数字が脈を打つ。
観客のいない劇場で、私は呼吸を段取りへ合わせる。
広告屋の癖は抜けない。トレンドは社会の呼吸──そのテンポは私が設計する。数値は潮汐、コメントは風向、関心は温度。
SNSは情報じゃない、群衆の皮膚。触れた熱が隣の神経へ走る。私は読むのではなく撫でて整える──体温を上げる。
スクロールに未解決が浮沈する。飲食店不審死、月曜日の通り魔、廃映画館崩落、連続衝突死。
一番古い事件なのに一番手掛かりの少ない飲食店の件は、それでも、おそらく間違いなく祈る者の仕業だ。だから私も何度もあの店に足を運んでいる。
廃映画館崩落では、一人の女子学生が犠牲になった。SNSの跡に、富ノ森調査事務所の若い男が彼女を追っていた影が残る。
そして、藤田直哉。
通称──月曜日の通り魔。
四十代まで引きこもって、親の金でゲーム三昧。子供部屋で社会に見向きもされず育った怪物は、実の母を“殺した”と知られることで、皮肉にも日本中から注目を浴びた。
母親を殺すなんて。
私は笑った。
彼にとっては、母親が最後の鎖だったのだろう。
母親である私は知っている。愛情は時に息を奪う。溺死の予備動作だ。
彼は母の愛を啜って肥え、そして愛を注ぐその手を血に沈めた。
そんな彼を、母である私が沈めた。それで舞台は整った。
私の《胎中水》は、その矛盾を終幕へ運ぶ演出。
母の愛で肺を満たし、呼吸を奪って静かに幕を下ろす。
罪ではない。拍手のない救済。
論理が閉じる音は、水の拍手に似ていた。
しかしまあ、誰も彼も、絶望に押し潰され、復讐の匂いを纏う。
自分を壊した相手を呪って、破滅の先でようやく呼吸を取り戻す。滑稽だ。幼い。
叶匣は、私にとって幼いころに憧れた、愛と希望を振りまく魔法のステッキそのものだ。
絶望を燃料に動く爛れた色の魔法。余計な復讐を願うたび、動きが重くなる。
私は違う。私が狙うのは勝利だ。
私から目を逸らした夫を殺すでも、娘の死を嘆くでも、私を叩いた連中に報いを与えるでもない。
そんなもの、無意味な寄り道。何の意味も持たない。
私は最短距離で、最後の一人として勝利を掴む。
藤田、富ノ森調査事務所の相川桜、少なくとも八人中二人を私が墜とした。あと多くても、五人。
目下狙うのは、派手に動き回っている連続衝突死事件の犯人。
指先でハッシュタグをもう一度なぞる。#富ノ森。
街の湿度がスマホ越しに伝わる。血と排気ガスと線香が、デジタルの隙間で混ざり合っている。
画面を下へ滑らせる。タイムラインは刃物の裏側みたいに切れ切れで、断面から匂いが滲む。誰かの昼飯、誰かの嘔吐、誰かの線香。小さな声が群れている。
私はざわめきを餌の密度で測る。熱は足りるか。噛まずに飲めるか。
すると、端の方で小さな泡が跳ねた。ユーザー名もプロフィール写真も凡庸な、地元の「くたびれたドライバー」のアカウントだ。
文章は短く、顔文字まみれ。だけど写真が付いている。人は写真を載せたがる。写真は嘘をつくなら手数がいる。見る価値がある。
二本の指で写真を拡大する。
『今日会社に変な兄ちゃん来たww』
『うち祟られてるのにまだ来るかw』
『#心霊スポット認定 #富ノ森』
写真は二枚。後ろ姿と横顔。差し込む夏の日が、髪一本を金色に染めている。
指先が止まり、スクロールが止まる。ピクセルを吐き出すように視線が寄り、輪郭が齧られるように記憶が蘇る。
──まさか。
光が皮膚を刺す。喉が縮み、肺が水を思い出す。
泡立つ呼気のあと、理性が追いつく──命令はまだ体に残っている。
相川 桜。
喉にその名が刺さり、背筋が泡立つ。
胸の奥に沈めたはずの水が、もう一度肺を叩く。
どうして生きている──。
その名を思うと、思考が震えた。
息が止まって崩れるところまでは見届けた。
あの状態から助かった? そんなバカな。
恐怖は即、思考に変換される。救命介入、二重干渉、異能の相互作用、白い靄の女──どれも薄い。 手応えが欲しい。
私は顔を上げ、窓の外を見た。夜風が葉を撫で、遠いヘッドライトが湿った空気を裂く。室内は静かで、冷房の吐息が輪郭を削ぐ。
私は香水の蓋を一度回し、指先にほんの一滴だけ落とした。匂いは自分の印。匂いは私の合図であり、私の宣言だ。
画面の男は、確かに桜だった。
あの夜、死を受け入れた顔だ。だが、彼はまだ生きている。
理屈が崩れた。検証する。
確かめ方はひとつ──呼ぶ。
「相川……」
舌の裏が熱を帯び、喉の奥で泡が弾けた。
黒い靄が胸の底で脈を打ち、唇の形を支配する。
「さ──」
発音の瞬間、肺が疼いた。水が、歓喜している。
口にしようとしたその時、ふと鏡のようなスマホの黒い画面に、自分の顔が映った。
画面の中の私が、演技過剰に見えた。
止める。
終幕の瞬間は私が決める。
殺すのは容易い。
ならば、少し長く踊ってもらったほうが、舞台は映える。
森崎達也──刑事。いまは謹慎で動きが鈍っている。だが見ている。私のことを、画面の向こう側から。
監視は光の角度に敏い。私は歓迎する。見られることは生だ。香水が教えた。花は見られてこそ、見られない女は死ぬ。
スマートフォンを手に取る。白い入力欄が、照明の光より冷たい。
香水の分量を決めるように文字を並べる。強すぎれば男は逃げ、弱ければもう一度嗅ぎたくなる。
「こんばんは、森の人。夏の桜が、まだ咲いているわね。
枯らせたくないので──舞台裏で続けましょう。DMで」
投稿。
通知音が舞台袖の拍手に変わる。青い光が頬を撫で、泡がひとつ弾けた。
観客のいない劇場で、私は口角だけを上げる──
次回更新も明日22:30を予定しております。




