File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(肆) 202X年8月17日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年8月17日 午前10時02分
富ノ森市郊外・坂本運送前
午前の陽は、焦げたアスファルトの匂いを放っている。
駅から十五分。錆びた「坂本運送」の看板は、墓標のように暑さに揺らめいていた。
立ち止まり、看板を見上げる。会社というより、見た目は廃工場の成れの果て。
風が動くたびに、プレハブの屋根が金属音を立てた。
──行くしかない。
◆202X年8月17日 午前10時05分
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
風がない。油と埃が重なって、皮膚に貼りつく。
敷地の奥に並ぶトラックが三台。どれも塗装が剥げ、古びている。
タイヤの溝に詰まった砂が熱で焼けて、整備より放置の匂いを放っていた。
プレハブのドアが、がたりと開く。
作業服の男が出てきた。三十代、煙草を噛みながら俺を見た。
「……なんだお前。配達の兄ちゃんか?」
「いえ、配送の協力会社を探していて。坂本運送さん、ですよね」
「協力? へえ……若いな。人足りなくても安月給だからこれ以上仕事増えてもなァ」
短く笑い、疲れの混じった煙を吐く。
「うちは辞めといたほうがいいよ、兄ちゃん」
無愛想というより、諦めた口調だった。
「朝から晩まで走らされて、ボーナスもねぇし。人死に出ても社長は黙ってるような会社だ」
「人死に……最近よくわからない事故、多いですよね」
男の目が硬くなった。
「多い? そりゃあ“多い”どころじゃねえな。常務と同僚二人、うちは三人まとめて死んでる。歩いててだぞ? 電柱やらに頭ぶつけて。意味わかるか」
笑っているのか怒っているのか、声の温度が読めなかった。
煙草の灰を地面に落としながら、男は唾を吐いた。
「前にもあった。若いドライバーが一人、事故って辞めたんだよ。あれからツキがねぇ。ま、祟られてるんじゃねえの」
声は冗談でも、目は違った。
「若いドライバーが事故を起こして……って、どんな事故だったんですか?」
口に出した瞬間、男の目が細くなった。
「……なんだ、お前。mytuberか? ネタ探しか?」
「いえ、違います。ただ……気になって」
「気にすんな。終わった話だ」
煙草をくわえ直し、顔を逸らす。
それでも俺は食い下がった。
「亡くなったとか、そういう──」
「死んじゃいねぇよ。あのあと自殺でもしてなきゃな。けど、二度とここには来ねえだろ」
唇の端から煙が漏れる。
「名前は?」「忘れたよ。帰んな」
低く吐き捨てるような声だった。
それ以上は無理だと悟り、俺は小さく頭を下げた。
プレハブの奥、整備ピットの影にトラックの残骸が見える。
骨だけになった車体。熱を吸った鉄が鈍く光っていた。
ロゴの下には黒ずんだ擦過痕。
プレハブの中に視線を移す。
窓の向こうには、遺影と萎れた花。
笑う男の写真の前で、灰皿の煙が細く立っている。
あわただしく生気のない顔で走り回る社員たち。
まるで壊れた機械の中で、人間だけが惰性で動き続けているようだった。
──止まれない世界。
門を出た瞬間、電子音──いや、耳鳴りかもしれない。
反射的に振り返る。昼光を浴びたトラックのボディが光を弾いて、鈍く光っていた。
歩道に出ると、風が止んでいた。
蝉の声だけが、遠くの空気を裂くように鳴いている。
誰もいない通りを歩いた。
足音が熱の上で揺れて、現実の縁が少しずつ薄れていく。
◆202X年8月17日 午前11時26分
富ノ森市内 相川家
帰りにコンビニでモバイルバッテリーを買い、玄関を閉めると息が荒れた。喉に油の臭いが残る。
ちょっとコンビニで買い物をするだけなのに、帽子とマスクの中で息を詰め、この瞬間にも青木に見つかるんじゃないかと胸が痛かった。
眠れぬ夜が続く。息詰まりの夜が蘇り、風吹の声が浮かんでは消えた。
──あの瞬間、助けてくれたのは確かに風吹だった。
その姿を見てはいないのに、心臓の奥底がそう理解している。
けれど彼女の気配は、追えど探せど遠のくばかりだった。
“なぜだ”。
答えの出ない時間が、何より怖かった。
居間の椅子に掛け、ノートパソコンの電源を入れようとして、バッテリーが切れているのに気づく。
舌打ちが漏れた。
スマホを手に取り、指で画面を叩く。
検索窓に文字を叩き込む。
──坂本運送 事故 富ノ森。
指が震える。
風吹に会わなければ。
あの衝突死事件との関係を、どこかで断ち切らなければ。
今のままじゃ、何も前に進んでいない。
結果には「配送車事故」「軽傷」「物損」など短い記事ばかりが並んだ。
日付は五月四日。
被害者の名も、ドライバーの名もない。
ただの数字と状況説明だけが並んでいた。
検索ワードを変えても結果は同じだった。
記事の内容も、使いまわしたような文面ばかり。
ドライバーの名前も顔も、どこにも出てこない。
次々とページを遷移しながら、爪がスマホケースを軋ませた。
死人もいないのに、なぜ祟りと言う?
ページの読み込み中、ため息が熱に変わる。
顔を上げたとき、視界の隅に光が反射した。
事故現場の写真。白いトラックの塗装。社名の位置。
側面の擦り跡。
──間違いない。
今日、坂本運送の敷地で見た残骸と同じ車両だ。
三件の衝突死──どの事件にも坂本運送の人間。
そして今日聞いた話──五月四日に、若いドライバーが事故を起こして会社を辞めている。
もし、会社を辞めたドライバーの起こした事故が、”何か”の「起点」だったとしたら。
そのあと彼が、祈る者になったのだとしたら。
スマホを握る手に力が入る。
森崎に伝えなければ。
これだけの断片でも、もしかしたら──。
メッセージ画面を開く。
『坂本運送の社員が三件の衝突死事件で亡くなっています。そこを辞めた若いドライバーが鍵かもしれません。
一連の衝突死が起こる以前の五月にトラック事故あり。ドライバー名不明。事故後退職。ドライバーが祈る者なら怨恨で説明可』
送信した。手のひらが汗ばんだ。
やっと一息、意識して吐く。ずっと肩を強張らせていた。
水でも、飲もうと立ち上がった瞬間、スマホが震えた。液晶に「森崎刑事」の文字。
心臓が跳ねた。電話は苦手だ。けれど出ないわけにはいかない。
「……もしもし」
「お前、よく調べたな」
低い声が、耳の奥を叩いた。
通話越しの森崎は、淡々としているのに、どこか熱があった。
「坂本運送は本線だ。謹慎が解けりゃ、こっちでもドライバーの名前も割り出せる」
その一言で、息が戻った。
今まで掴めなかった何かが、ようやく形になり始めている気がした。
肺が熱く、視界がじんわり滲む。
「ほんとに、坂本運送が……」
「確証はねぇ。ただ、線は細くても途切れちゃいねぇ」
通話越しに、森崎が息を吐く音。
「無理すんなよ。お前は一旦休んでりゃ──」
カーテンが微かに揺れた。窓は閉じている。
次の瞬間、音が消え、空気が裂けた。
背筋を撫でる冷気。
肌の内側で何かがざわめく。
見えない“それ”が、確かに近づいていた。
通話を切った。
立ち上がり、玄関へ走る。
ドアを開けた瞬間、
夏の光が肌を焼き、ふわりと、夏草のような香りが鼻を抜けた気がした。
世界の境界が一枚、裏返る感覚。
──風吹……? ……風吹だ。
言葉より先に、身体が震えた。
空気がざわつく。皮膚の裏で、誰かの息が脈を打つ。
立ち上がり、玄関を飛び出した。
◆202X年8月17日 午後0時07分
富ノ森市・住宅街
照り返しが痛い。空気が異質でに感じられて、世界の呼吸が止まったようだった。
角を曲がった瞬間、視界の端で何かが揺れた。
陽炎の残光の中に、ずっと追い探していた彼女の背中があった。
風吹。
白いTシャツが陽を反射し、デニムのショートパンツの裾が風に揺れている。
汗に濡れた浅黒い肌が光を弾き、背筋の線がまっすぐに伸びていた。
束ねた髪が風を裂き、ポニーテールの先が陽光を切った。
──見つけた。
何度も手を伸ばしても、届かなかった。
それでも確かにそこにいる。
ようやく追いつけた。
ようやく、この手が触れられるところまで来た。
「風吹!」
声が熱に溶ける。
振り返った彼女の瞳が、藍の光を宿して揺れた。
胸の奥で、何かが弾けた。
息が詰まる。
叫びたくても、声の出し方を忘れていた。
笑うように、泣くように、次の言葉を紡ごうとする。
──その瞬間。
風が止んだ。
蝉の声が、遠い夢のように霞んだ。
視線の先、彼女の足元。
アスファルトに、赤が滲んでいた。
光を呑み込みながら、まるで世界の輪郭だけが溶け出したように静かだった。
太陽の欠片を映して、血はゆっくり呼吸している。
電柱の根元に、砕けた車体の破片。
その脇で、叩きつけられた”もの”が崩れていた。
形を失った人影が二つ、赤を滲ませていた。
風に混じる血の匂いだけが、現実を突きつけてくる。
風吹の足元にあるものは──二人の人間の死体だった。
「……嘘……だろ」
声が、喉から漏れた。
足が勝手に前へ出た。
ただ一歩、彼女へ近づくだけで、靴底が血を踏んだ。
靴越しに触れた温度もわからないはずの液体。熱いはずが、氷みたいに冷たく思えた。
風吹は動かない。
ただ、その場に立っていた。
何かを見下ろすでもなく、祈るでもなく。
無表情に、世界の外から、転がるふたつの”もの”を眺めているような眼。
藍の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
心臓が、殴られたみたいに痛い。
怒りでも、悲しみでもない。
頭の奥で何かが千切れた。
その瞳には、感情そのものがないように思えた。
「風吹……違う、だろ……?」
口に出さなければ、自分が、壊れる気がした。
「違うって言えよ……風吹!」
叫びは熱に潰れ、空気の底へ落ちる。
風吹は何も言わず、ただ瞬きを一度した。
その唇が一瞬だけ震えた。
まるで、何かを思い出そうとして──けれど届かず、風にほどけていくように。
次に、空気が爆ぜた音がした。
それが、世界の裏返る音に聞こえた。
彼女が地面を蹴った圧で、白いTシャツの裾がふわりと浮く。
陽炎に揺らめいた輪郭が、風そのものに変わっていく。
ポニーテールが鞭のように弧を描き、アスファルトの上に残された血を巻き上げて散らした。
轟、と風が遅れて吹き込む。
風圧だけで塵が吹き飛び、電柱が軋む。
俺は反射的に顔を覆った。
次に目を開けたとき、彼女の姿はもうなかった。
足が前へ出た。何もない空気を掴もうとして、指先が震えた。
膝が抜け、吐き気が込み上げた。声は出なかった。
もう彼女の欠片さえなかった。
──届いた瞬間、永遠に届かなくなった。そんな言葉が脳裏を掠める。
違う。これは幻覚かもしれない。
そう思いたかった。
残ったのは、赤と冷たい空気だけ。
息ができない。
彼女は──去った。
なぜ、あんな目で俺を見た?
サイレンが遠くから近づく音がする、赤が昼に滲む。
それでも足は動かなかった。
どうして──お前なんだ。
救ってくれたのは、あの夜、お前だったろ。
それなのに、今は俺を置いていくのか。
胸の奥が焼けた。怒りか、絶望か、自分でもわからない。
汗と夏草の熱だけが、まだ肌の上で微かに息をしていた。
【坂本運送 とある社員によるSNS投稿】
『今日会社に変な兄ちゃん来たww』
『うち祟られてるのにまだ来るかw』
『#心霊スポット認定 #富ノ森』
添付された写真には10~20代の若い男性の後ろ姿と、その横顔が写っていた。




