File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(參) 202X年8月16日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
◆202X年8月16日 午前0時58分
富ノ森市内 住宅地 無人のバス停
零時を過ぎても暑い。舗装の熱を踏みながら、息を浅くした。
風吹の気配が、また遠ざかる。
呼びかけを噛み殺す。生きていることが、青木にバレたら死ぬ。
追うほど音が減り、最後に残るのは靴底の水音だけ。
引き返す。風向きが変わった。
暑気の中で冷気が告げる──今夜も会えない、と。
◆202X年8月16日 午前1時47分
富ノ森市 相川家
家は、音を忘れていた。
ブレーカーを落としてから三日。
電気の匂いも、冷蔵庫の唸りも、もう思い出せない。
息を吸うと、重たい空気が動いた。
壁時計だけが勤勉に時間を刻んでいる。
静寂の中で、心臓の鼓動だけ、やけに大きかった。
外の空気がかすかに震えた。
ニュースの音が隣の家から漏れてくる。
壁を透かして届く電子音。
それが、まるで水の底から誰かが話しているみたいに響いた。
『本日未明、富ノ森市内で新たに三名の死亡が確認されました──これで、これまでの“連続衝突死事件”の被害者は、九名となりました』
声は、壁を震わせて胸の奥に入り込んだ。冷たいのに、焼けるようだった。視界の端が、白く滲む。
「九人」という数字が、頭の奥で鳴った。
九人。九人も、死んだ。
思考より先に体が止まる。
考えたくないのに、心の奥で名が浮かぶ。
風吹。
その名前を思っただけで、背骨が冷えた。
……違う、そんなはずはない。
けれど否定の言葉の奥で、もう“もしも”が動き出していた。
“信じたい”というより、“信じていないと壊れる”──。
そんな感覚が、胸の奥で軋んだ。
心が否定しても、頭が勝手に動く。
“もしも”を考えた瞬間、信じていたものが崩れる。
血の味がして、拳を握った。
またかよ俺は。
あいつを。
誰よりも信じるって決めていたくせに。
吐き気が込み上げ、壁に額を押しつけた。
──俺は何をしている。
青木に見つかれば終わる。
それでも夜を歩いたのは、もう一度あいつに会いたかったからだ。
命を賭けてきたくせに。たった一つのニュースで揺らぐ。
そのことが、一番、恥ずかしかった。
拳を壁に叩きつける。
鈍い音が骨の奥に響く。
痛みが少し遅れてきた。
ようやく息が戻る。
……違う。あいつは、やってない。
そんな疑いを抱いた自分が、情けなかった。
罪悪感が胸の奥で固まり、息を押し出す。
青木に殺されるより、あいつを疑うほうが痛い。
だから、俺はまだ生きていられる。
自室。机の上。闇の中で、マフラーを握る。
その布の温度が、まるで“生きろ”って言ってるみたいだった。
俺は顔を上げた。
信じる。もう一度、最初から。
◆202X年8月16日 午前2時04分
ならば──やる。
考えるより先に、胸の底で何かが跳ねた。
震えなんてどうでもいい。止める方法なんて、最初からない。
俺の手がまだ動くうちは、“あいつは殺していない”と書き殴る。
それが、生きてる証拠だ。
それが、俺の呼吸だ。
追いかけても、手応えは風。
なら、風の通った跡を掴む。
どんなに足掻いても、あいつが見つからないのなら、今、俺が殴れるのは目の前の現実だけだ。
衝突死事件の中にいる“誰か”。
その誰かを暴いて、全部ひっくり返す。
心臓の鼓動が、静けさを割った。
青木に見つかれば、終わり。
でも、じっとしてるほうが、もっと終わってる。
窓の外の風がカーテンを揺らした。
湿った夜気が部屋に入り、髪を撫でていく。
その感触が、どこかであいつの呼吸と重なった気がした。
……遠ざかる風吹より、衝突死事件を先に追う。
風吹はやっていない。それを先に証明する。
真夏の汗ばむ首に、マフラーを巻く。
布が肌に触れるたび、心拍がひとつ跳ねる。
止まっていた血が、また流れ出す。
息を整え、机の上にノートを広げた。
雨戸を閉めきった部屋は、真っ黒な箱だ。
外の世界が存在している気配すらない。
壁の向こうに青木がいるかもしれない、そんな錯覚を押し殺しながら、俺は机の上にノートパソコンとスマホを並べた。
両方、充電警告の赤が点滅している。
構わない。
燃え尽きるまで使い切ればいい。
冷えた指先でキーボードを叩く。
画面の光が頬の内側に刺さる。
ブラウザを開いて、検索を打つ。
「富ノ森」「衝突」「死亡」「目撃」。
Enter。
画面の中で文字が爆ぜる。
スクロール、スクロール。画面の奥で光が流れる。
情報の亡骸を掘り起こすみたいに、指先が熱を帯びた。
画面の文字が滲み、黒と白がぐちゃぐちゃに混ざって、何を探しているのかもわからないまま、それでも探さなければ“死ぬ気がした”。
どの記事も死の匂いを残していた。
書いても書いても、全体が見えない。
SNSの断片を掘る。信憑性なんてどうでもいい。
指が痛む。紙に落とす。
赤、青、黒。インクの匂いが鼻を刺す。
滲んだ線が、息の証みたいに増えていく。
ペンの擦れる音だけが、生きている証拠だった。
充電が尽き画面が落ちた。部屋が闇に沈む。
それでもペンの音だけが、生きていた。
……外で犬が吠えた。
その声で、ようやく自分が息をしていると気づく。
風が雨戸を撫でた瞬間、ペンを止めた。
これが、俺のやり方だ。
掴めなくても、書く。
ページをめくる音だけが、心臓の鼓動を真似していた。
◆202X年8月16日 午前8時27分
夜が、完全に明けていた。
雨戸の隙間から射す光が、机の上の紙を細く切り裂く。
手元のノートは膨らみ、湿ったインクがまだ乾かない。
金属のペン先がわずかに錆びていた。
眠っていない。
被害者九人。場所も時間もばらばら。
まだ、点は線にならない。外に出て確かめるしかない。
人目のある外を思うだけで喉が痛む。
青木に見つかれば終わり。
この家にいれば何も変わらない。
恐怖と理性の隙間で、何かが弾けた。
首元のマフラーを掴む。
「行こう」
その声は、誰か他人のものみたいだった。
◆202X年8月16日 午前10時42分
富ノ森市内
日差しが濁っている。
空の端に残る雲が、夜の残骸みたいに貼りついている。
街はもう夏休みの熱に満ちて、俺の動揺なんて誰も気づかない。
バス停の前を通る。あの夜と同じ場所。
舗装の端に、靴の跡。
まだ乾いていない。──誰のだ。
手には地図。
ノートに写した被害者の住所を順に指でなぞる。
第一の事件と第二の事件のみ。
コンビニ前、横断歩道、トンネルの入り口、踏切脇。
並べると、一見無秩序に見える。
だが、共通しているのは“動線”だ。
同じ方向に通う人間が、殺されている。
ならば、“通勤圏”。
仮説①:生活動線。
被害者たちは同じ時間帯、同じ通りを行き来していた。
犯人はその道に“張っている”。
足を使って確かめる。
現場を歩くと、思ったより狭い。
ガードレールは欠け、街灯は一つ消えていた。
ここなら夜、人影は薄い。
ノートに線を引く。
俺の推理は、理屈では正しい……はずだった。
けれど、その日の夕方、スマホに通知が来た。
『住宅街連続衝突死事件、第三の現場は山郷町地域』
山郷町。地図の端。俺が描いた線の、まるで反対側だ。
──崩れた。
地図を握り潰す。
紙がぐしゃりと音を立てた。
仮説①、失敗。
◆202X年8月16日 午後2時19分
富ノ森市 相川家
再び雨戸を閉める。
光を遮り、モバイルバッテリーを繋ぎ直す。
ノートPCがかろうじて蘇った。
画面の光が目を突く。
次に探すのは、時間。
仮説②:発生時間帯の共通点。
記事を並べ、時刻を横一列に書き出す。
夕方、朝方、深夜。
まるでバラバラ。
それでも、見落としはないかと指で追う。
動画を再生。第一・第二の事件。どの現場も路面が濡れている。
──雨上がり?
思わず呟く。
“水”が媒介になっている。
まさか、青木の呪いも関係が?
耳の奥で“滴る音”がした。
見間違いかと思うほど、画面の端に水の染みが広がっていく。
瞬きをしたら消えた。
眠っていない脳が、幻を見せ始めている。
いや、違う。違う。
自然条件だ。偶然の一致。
記事をさらに追う。
その下に並ぶ、第三の事件の被害者の記事。
六月十六日 夜零時頃発生。
昨日も一昨日も晴れ。
仮説②も、崩れた。
水は関係ない。
俺の頭が、青木の呪いを勝手に探していただけ。
……でも、本当にそうか?
偶然? そんなはずがあるか。
“偶然”で九人は死なない。
九。く。死。──笑うな。馬鹿げてる。そう言い聞かせても、喉の奥で何かが笑った。
でも“九”が続く。数字の癖みたいに。
何かある。必ず“規則”がある。
見落としているだけだ。
見落としているのは、俺だけだ。
ノートを閉じる。湿った紙が掌に貼りついた。
爪が白くなる。痛い。
でも止めるな。止めたら、青木に追いつかれる。風吹には追いつけない。
机の上でスマホが一度だけ震えた。
森崎。……通知だけ。未読。
目を逸らした。見たら、戻れなくなる気がした。
書け。書け。書け。止まるな。
焦りが胃の奥で泡になって弾ける。
音がないのに、胸の中で何かが爆ぜた。
──落ち着け。焦ってるのは、俺だけじゃない。
そう思いたかった。
◆202X年8月16日 午後6時02分
富ノ森市 相川家
気づけば夕方だった。時間が進む音が聞こえない。
雨戸の隙間が、夕焼けの色に染まっていた。
光の筋が壁を斜めに切り、ノートの紙を焼く。
携行用のモバイルバッテリーの残量一目盛り。
それでも、まだ終われない。
「まだ、残ってる……」
呟きは乾いた。
検索履歴をすべて消し、再び指を動かす。
「富ノ森」「衝突」「死亡」「身元」「勤務」
Enter。
画面が切り替わり、記事がひとつ増えていた。
“被害者四名の勤務先を判明──それぞれ異なる職場”。
視線が止まる。
……待て。
勤務先なんて、まだ洗っていなかった。
ノートをめくる。空白がある。
ブラウザを戻す。指が震える。
ひとつずつ、名前を検索する。
SNS、ニュース、求人サイト、会社ページ。
──坂本運送。
もう一人。
さらに、もう一人。
ノートをめくる。
九人目の被害者の欄に、小さく書いたその名前。
もう一度確認する。確かに、同じ。
偶然か?
違う。
確かめるために、さらに掘る。
SNS。追悼コメント。
第二の事件の投稿写真。
作業服。青いライン。白抜きのロゴ。
──坂本運送。
息が詰まった。
第二の被害者の投稿。家族のコメント。
“夜勤続きで疲れていたのに、まさかこんなことになるなんて”
指が震える。
画面を切り替え、会社の公式サイトを開く。
白地に青のロゴ。
配送トラック。
社員紹介欄。
──見覚えのある顔が、三つ並んでいた。
九人中、三人。
第一、第二、第三。
ひとつの事件に社員がひとりづつ。
三つの事件に三人の社員。連続。順番。
頭の奥で何かがはじけた。
冷たく、音もなく、世界の骨格が変わる。
ノートの中央に“坂本運送”。
三人の名を丸で囲む。インクが滲み、手が震えた。
笑いが漏れた。乾いた音だった。
止まらない。喉の奥で笑いが反響して、涙の代わりに熱が滲む。
……怖い。
“偶然”なんて、どこにもない。あるわけがない。
ペン先が紙を突き抜け、インクが飛び散る。
血のように見えた。
──いや、違う。違うだろ。
でも手が止まらない。
なら、他の六人は──何だ?
ペンが止まったとき、胸の奥がぞっとした。
この推理が、もし当たっていたら。
……届いてしまう。理屈ではわかるが、理解は決して出来ない地獄へ。
「──カモフラージュ?」
“無差別事件”に見せかけるための、カモフラージュ。
巻き添え。
頭の奥で、何かがゆっくり軋む。
たった今まで“偶然”だと思っていた"九人の死"が、“計算された死”に変わる。
ペンが転げ落ちた。
机の下で音が響いたのに、距離感がない。
森崎にメッセージを送ろうとスマホを操作する指。
『坂本運送、被害者三名。明日、会社に行く』
親指が止まる。
送信ボタンが、呼吸のように点滅した。
……やめた。
言えば、止められる。
画面を閉じる。
液晶の光が消えた瞬間、部屋が静寂に沈んだ。
マフラーを手に取る。
布の端が、まだ熱を覚えている。
外の風が雨戸を叩いた。誰かが呼ぶ声のようだと思った。
──行く。
自分の目と耳で確かめる。
息を吸う。
胸の奥で音が戻る。心臓か風か、もうわからなかった。




