表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第肆章;歪み、歪んだ道標──

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/68

File6:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【後】(貮) 202X年8月12日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年8月12日 午後3時28分

富ノ森市立病院 305号室


 キーボードの音が、点滴の(しずく)と競い合っていた。

 一滴。ひと打鍵(だけん)。静かな病室をざらつかせる。


「……何してるんですか」


 森崎は振り返らない。

(えさ)を投げただけだ。魚が食うかどうか、見ものだな」


 画面。青木(あおい)のアカウントへのDM。

 そこに浮かぶ文字が目を刺す。


『お前が相川桜を殺したんだな。俺を泳がせて、何を狙ってる?』


 息を()む。

 “殺した”の赤が、脳に焼きついた。


「……信じると思いますか」

「“信じさせる”んだよ」


 森崎はPCを閉じた。

「青木葵は承認欲求の(かたまり)だ。自分の物語に()ってる」


 声が低い。

 ベッドの脇に置かれた酸素計が一度だけ鳴って、また沈黙した。


「青木は『お前を殺した』と思いたい。なら、その幻想に(ひた)らせろ」


「……名前を呼ばれたら、死ぬんですよね」

「そうだ。今までのあいつの言動を照合すると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことが異能(のろい)の発動条件だ」


「だから歩道橋から落ちた藤田の顔を確認して、そのときには殺せずに、わざわざ藤田が入院してる病室の前まで行ったんだよ。名札だ。病室前のな」


 焦って、病室のドアへ視線を走らせる。

 森崎は指を動かし、笑った。振り向かずに言う。


「心配すんな。もう病院に頼んで偽名の名札に替えてもらったよ。受付も、看護師にも説明済みだ。お前の本名は病院からは漏れない」


 言葉が落ちると同時に、胸の奥の石が少しだけ動く。安堵よりも、皮膚の下で何かが冷えた。


「名前を呼ばれたら死ぬ。まさしく呪いですね」


「オカルトは知らねえが──呪いは、”誰かの口”から始まるもんだ」

 重い話を軽く告げる。


「とにかく青木の関心は、俺のほうに引きつけておく」

 森崎はモニターの電源を落とし、短く息を吐いた。


「俺が挑発すれば、向こうは“監視してる”気になれる。要は構ってほしい、承認欲求で(くも)った目だ。──お前はその死角に(もぐ)れ」


「……(おとり)になるってことですか」

「違ぇよ。俺は餌だ。お前は海の底で息を(ひそ)めていろ」

 机の上のカルテを指で叩きながら、淡々と条件を並べた。


「退院したらブレーカーを落とせ。灯りは禁止、窓は閉めっぱなし。外出は深夜だけだ。帽子とマスクを忘れるな。SNSも通話も──全部切っとけ」


「……まるで、幽霊みたいですね」


「違う。“死体”だ」


 森崎の声は冷たかった。磨かれた刃のように。──そう言いながら、(わず)かに眉を寄せた。


「青木はもうお前の顔も名前も知っている。だから、“生きている”と(さと)られた瞬間、口にされる。たった一言、それだけでお前の短い人生は終わる」


 点滴の音が(ひつぎ)(ふた)に変わる。

 桜はただ(うなず)いた。


 生き延びるために、死んだふりをするしかない──そんな彼辺此辺(あべこべ)な理屈が、皮膚の下で(きし)んだ。


◆202X年8月13日 午前1時28分


 眠れない夜。呼吸のたび、心臓だけが勝手に鳴る。

 非常口を押すと、()びた蝶番(ちょうつがい)が短く悲鳴を上げた。


 夜気の温度が変わる。

 遠くに、風吹(ふぶき)の気配。


「風吹──」


 呼んだ。でも、届かない。

 指先の前に、透明な膜。

 思考も音も、跳ね返された。


 (のど)が乾く。肺が焼ける。


 その“気配”だけが、俺を生かしていた。

 風吹はまだ、この町にいる。


 けれど、気配はまるでこちらを見ようとしない。

 見つめても、目が合わない。


 風がひとすじ流れ、植え込みがざわめいた。


 さくら。


 空気が名前の形をした──そう感じた。

 その瞬間、心臓が跳ね、足元から血の気が引いた。


 森崎の声が脳の奥で反響する。

 ──生きていると悟られた瞬間、終わる。


 息を吸うのが怖い。

 動けば“生きている”と告げてしまう気がした。


 中庭に背を向け、走り出した。


 廊下の蛍光灯が(はじ)けるように()く。

 白が押し寄せる。

 ナースステーションの奥で、笑い声が波打つ。

 名前の音に似ていて、胸が軋んだ。


 息を荒げながら病室に戻り、背中で扉を閉める。

 薄暗い室内に、自分の鼓動だけが残った。


◆202X年8月13日 午前9時12分

富ノ森市立病院 正面玄関


 朝の光が、やけに白かった。

 退院の書類にサインをすると、看護師が軽く会釈(えしゃく)した。

 俺は帽子を深くかぶり、マスクを鼻筋(はなすじ)まで引き上げる。


 通路の向こうでは、別の患者たちが笑っていた。

 その声の粒が、風に乗って漂う。

 一瞬、また“さくら”と聞こえた気がして、足が止まる。


 息を吸い込む。

 胸の奥の鼓動がまだ止まらない。

 ──違う。ただの雑音だ。

 そう言い聞かせ、(うつむ)いたまま自動ドアをくぐる。


 外気が肌を叩く。

 病院前のロータリーに、タクシーが一台、ゆっくりと停まった。


 運転手が窓を開け、「乗りますか」と声をかける。

 声が名前に聞こえ、喉が鳴る。


 黙ったまま、後部座席のドアを開けた。

 汗で手が滑る。

 車内の冷気が逃げ出し、陽炎(かげろう)のように揺れた。


 ドアを閉めると、病院がガラス越しに流れた。

 誰も追ってこない。

 それなのに、胸の奥ではまだ“声”が鳴っていた。


 さくら、と。


 聞こえないふりをして、行き先を告げる声が震えた。

「……富ノ森、市営住宅前まで」


 運転手は無言で頷き、メーターを押した。

 エンジン音が、心臓の鼓動と重なった。


 生きている証拠が、これほど五月蠅(うるさ)いものだとは思わなかった。


◆202X年8月13日 午前9時48分

富ノ森市内・相川宅


 家の空気は淀んでいた。


 電気を落とし、雨戸、カーテン。

 音を失った暗闇に、鼓動だけが響く。


 ポケットからスマホを取り出す。

 SNSのアイコンをひとつずつ削除していく。

 消えるたび、心臓がひと拍ごとに強く鳴った。


 息をしているだけで、死が近づく気がした。


 電源を切り、机の上に伏せる。

 静けさが一瞬で満ちた。

 冷蔵庫も時計も、音を失っていた。


 聞こえるのは、自分の心臓だけ。

 バクバクと、肉を叩く音。

 鼓膜の裏から、命が暴れている。


 あるはずのない視線を感じて、背もたれを振り返る。


 当然のように、独りの家の暗がりが居るだけだった。


「……こんなんで、どうやって生きろってんだ」


 吐き出した言葉が、壁にぶつかってすぐ消えた。

 返事がない静けさが、かえって胸を締めつける。


 ソファの端に腰を下ろす。

 沈み込みが左右で違う。

 風吹の座っていた側だけ柔らかい。

 手を置くと、(かす)かに温度が残っている気がした。


 視線の先に、テーブル。

 マグカップが転がるように置かれている。

 (ふち)に、唇の跡が乾いてこびりついていた。

 底には、砂糖の結晶が一粒だけ残っている。


 乱雑なのに、懐かしかった。

 棚の上にはメモ帳。殴り書きの字で『カレー<中辛>辛い』。

 その下に、丸い落書き──犬か猫かもわからない生き物。


 紙に触れた指先が震える。


 その瞬間、スマホの画面が光った。

 森崎からの未読通知。


『青木が動いた。お前と同じく衝突死事件に興味を示している。捜査状況の探りあり。外出は控えろ』


 世界が、ほんの少しだけ息をした。


 もう一度、紙のざらつきを指でなぞると、胸の奥の音が恐怖とは違う響きに変わった。


「……それでも、もう一度、会うんだ」


 呟く声が、部屋の暗がりに吸い込まれていく。

 たった一人なのに、今は少しだけ、呼吸が楽になった。


◆202X年8月14日 午前1時03分


 時計の針が一を指した。

 窓の外は、夜というより“静止”だった。

 呼吸するたびに胸の奥がざわつく。


 ソファから立ち上がり、玄関へ向かう。


 玄関の鍵をそっと回す。

 金属の擦れる音が、やけに大きい。

 外の空気が狭い隙間から流れ込むと、湿気の冷たさが(ほお)を撫でた。


 街は息を潜めていた。

 音が消え、世界が俺を見張るように静かだ。


 ゆっくりと目を閉じる。

 肺の奥に溜まった空気を吐き、意識を沈めた。

 光でも音でもない。

 五感の奥、もっと深い場所――そこに彼女の痕跡がある。


 脳の裏側に、微かな反応が走った。

 空気の密度が変わる。

 遠くに──いる。

 透明な脈動。温度でも音でもない、ただ確かに存在する“圧”。


 風吹だ。


 胸が跳ねた。

 視界が鮮明になる。


 北──富ノ森の山沿い地域。そこにいる。


 足が動く。

 夜気を割りながら、気配を追う。

 歩くたび、風が逆らい肌を打つ。


 ところが、近づこうとするほど、輪郭(りんかく)が曖昧になっていく。

 気配が遠ざかる。


 (こば)んでいる?


「……風吹?」


 口にした瞬間、空気の流れる方向が変わった。

 頬を撫で、背中へ抜け、冷たい渦になって消える。


 なら、確かめなきゃいけない。

 死ぬことより、風吹に拒まれているかもしれないことが怖かった。


 気配がどんどん遠ざかる。俺が来た方向とは、真逆へ。


 拒まれた──いや、そんなはずはない。


 風吹が俺を()ける理由なんて、あるものか。


 そう言い聞かせながら、俺は走り出した。


 夜の街が流れる。

 靴音(くつおと)と呼吸が混ざり、(あか)りが遠ざかる。


 気配は前方にある。

 追うほど、逃げる。


「風吹! 待ってくれ!」


 風が唸り、耳が焼ける。

 ──追いつかなきゃ、もう二度と会えない気がした。


 異能(のろい)の感覚を()ぎ澄ます。

 意識の奥に、彼女の温度。確かに“いる”。

 それでも届かない。


 空気が波を打った。

 風の渦が、俺の周囲で弾ける。

 音が吸い込まれ、視界が一瞬だけ真っ白になる。


「……避けられてるのか?」


 口にした瞬間、胸の奥が砂を噛む。


 夜風が頬に触れる。

 涙がひとすじ、冷たく乾いた。


◆202X年8月14日 午前4時27分

富ノ森市街・河川敷のベンチ


 走るのをやめた。

 肺の奥が焼けつくように痛い。

 (ひざ)(ふる)え、街灯の下のベンチに倒れ込むように座った。


 鉄の冷たさが背骨を伝う。

 街灯の光が、俺の影の輪郭(りんかく)()いでいく。


「……呼ばれたら死ぬのに」

 息を吐く。白い煙が夜に消えた。


「桜って……呼ばれたくて、仕方ないんだ」


 そのとき、耳元で(かす)かに声がした。


 ──行かないで。


 反射的に振り向く。

 けれど、誰もいなかった。

 風だけが、夜と朝の境をすり抜けていく。


 空が明るむ。黒と青のあいだに(だいだい)


 両手で顔を(おお)う。指の隙間から光が(こぼ)れる。

 それは、夜明けというより、夜の残り火だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ