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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
幕間

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Intermezzo; 富ノ森調査事務所 202X年7月28日

──Side Third-person point of view──

◆202X年7月28日 午後5時48分

富ノ森調査事務所


 クーラーは沈黙したまま、扇風機の羽根が弱々しく空気を裂く。

 蝉の声が止むことなく続き、熱だけがゆっくり積もっていく。

 紙の焦げた匂いと、冷めたコーヒーの渋みがまじり、()せた琥珀色(こはくいろ)の熱が部屋に沈殿(ちんでん)していた。


 九日前──廃映画館が崩れ、白石彩花の事件がその幕を閉じたあと。

 街は驚くほど静かだった。通りの向日葵(ひまわり)が風に()れ、いつもの夏が戻っている。


 桜は(えり)を指で引き、机の上に腕を投げ出した。

 額の汗が紙に滲み、インクの匂いが濃くなる。

 指先でボールペンを転がすたびに、金属の芯がかすかに鳴った。


 ソファに掛けた風吹(ふぶき)が「……あつ」と呟いて動かなくなる。

 髪が首筋に張りつき、手首を振っても離れない。

 桜は「夏って、こんなに重かったっけ」と(うめ)き、ぬるい麦茶に顔をしかめた。


 窓の外では、電線に止まった蝉が鳴きやまず、その響きが空気の膜のように部屋を包んでいる。

 音があまりに多すぎて、逆に静かだった。


 桜は頬杖(ほおづえ)をつき、時計の秒針を目で追う。

「……死ぬほど暑いな」


 風吹はだるげに片手を上げる。

「死ぬほどって、今日だけで十回目」


「なら、あと一回で記録更新だな」

 二人の声を包むように蝉の声が膨らんだ。


 白い光がガラスに貼りつき、室内の空気が紙みたいに乾いた音を立てた。

 真昼の残り火がまだ引かない。風吹がソファに五体を投げ出す。


「海、行きたい」

 声は熱気に押されて、少し歪んで聞こえた。


 桜は顔だけ上げ、ゆるく目を細めた。

「行けねえよ。俺、(アシ)ないし」

 乾いた声が扇風機の風に削られ、部屋の隅へ消える。


 風吹は、ソファの背にもたれたまま、じっと瀬川のほうを見た。

 視線は真剣というより、どこか“ねだる”ようだった。

 扇風機の風が二人の間を抜け、瀬川の髪をわずかに揺らす。


 瀬川はその視線に気づき、書類を閉じると、眼鏡の奥で目を細めた。


 ──間。


 外で、蝉の声がひときわ大きく鳴いた。


「……俺は泳げん」


 静かな声だった。何を聞かされたのか理解できず、桜も風吹も反応が遅れた。

 沈黙のなか、扇風機がカタカタと震え、氷の溶ける音が間を埋める。


 そしてようやく、風吹が噴き出した。

 桜もつられるように笑い、肩を震わせた。

 笑い声が室内の熱を少しだけ和らげ、蝉の声が遠のくように感じた。


 瀬川がわずかに眉をひそめ、耳のあたりを掻く。


 桜は笑いながら言う。

「俊兄、子供のころから頼りになるのに、泳げないなんて知らなかった」

 言葉を口にした瞬間、桜の蟀谷(こめかみ)を痛みが突き抜けた。


「──あ、()って……」


 思わず声が漏れ、蟀谷を押さえたまま机に突っ伏す。

 紙の端がかすかに揺れた。


 風吹が驚いたように顔をのぞきこむ。

「え、大丈夫、桜?」


「いや……ちょっと頭が、な」

 ずくん、ずくん、と鈍い痛みが続く。

 そのうちの一拍の裏で、貼り合わせたなにかの継ぎ目が、(きし)むようにわずかに動いた。

 形はない。けれど合わせ目だけが触れた。


 桜は息を詰め、痛みが過ぎるのを待つ。蝉の声が遠くで波のようにうねった。


 瀬川は何も言わず、桜の様子を見ていた。

 書類を閉じたまま、視線を動かさない。

 その瞳の奥にあるものが何なのか、桜には見えない。


 桜はゆっくりと上体を起こし、目を細める。

「……もう平気だ」

 そう言いながら、なにかを踏み外した感覚だけが、舌の裏に残っていた。


「熱気にやられたか。横になれ。水分をとれ」

 瀬川の声はいつもと同じだった。


「平気です、こんなの。たぶん夏バテですよ」


 そう言いながら、机の上のグラスを手探りで引き寄せる。

 麦茶はぬるい飴色(あめいろ)。舌の奥に金属の味が残る。

 冷たさもなく(のど)を通り、体の熱に飲み込まれていった。


 瀬川は何かを量るように桜を見て、やがて小さく(うなづ)いた。


 風吹が、緊張をほどくように両手を上げて言った。

「海行けないなら、せめて涼しくて、夏っぽくて、水分とれるやつ!」


 桜が顔を上げる。

「なんだよそれ」


 瀬川が(あご)に手を当てて数秒考え、短く言った。

「……スイカでも買ってくるか」


 風吹と桜が同時に顔を上げ、無言で目を合わせた。

 数拍のあと、二人の口から同時に声が漏れる。



「「賛成」」



◆202X年7月28日 午後6時14分

富ノ森調査事務所


 瀬川が両手にスイカを抱え、汗をぬぐいながら入ってくる。

 灰色のシャツの背が濡れ、太陽の匂いがした。


「でっけぇ!」

 風吹が椅子から跳ね起きる。


俊兄(しゅんにい)、三人で食べるには大き過ぎません?」

 桜が机越しに覗き込み、感心したように言う。


「小玉の方が割高だった」


「そこ気にするんだ……」

 桜が笑い、タオルで首筋を拭いながら立ち上がる。

 キッチンから包丁を手に取り、「切るか」と言った。


「待て!」

 風吹が勢いよく手を上げる。

「せっかくだし、スイカ割りしよう!」


「事務所で!? 汁まみれになるぞ!」


「ドラマで見たんだもん。スイカ割り。あれ、夏っぽくていいじゃん」


「やめとけ、絶対怒られる」

 二人で軽く押し合いながら、自然と瀬川へ視線が向かう。


 瀬川は顎に手を当て、数秒考えたあとで短く言った。

「……お前らが片付けるなら、いいだろう」


「マジかよ!」

 桜が目を見開く。


「よしやろう!!」

 風吹が立ち上がり、壁際のモップをつかんだ。


「こんなとこで出来るか、何か壊すだろ!」


「じゃあどうすんだよ!」


 瀬川が短く考え、顎を上げた。

「屋上ならいいだろう」


 風吹の顔がぱっと明るくなる。

「よしいこう!」


「マジでやるんだ……」

 桜のぼやきが、熱気の中に吸い込まれていった。


「終わったら俺にも持ってきてくれ」


「瀬川ァ、お前も来るんだよ!」

 風吹が笑いながら腕を掴む。

「体動かさねぇと夏じゃねぇだろ!」


 その勢いに押されるように、瀬川は小さく息を吐いて頷いた。


 桜はその後ろ姿を見つめながら、ふと口の端で笑った。


◆202X年7月28日 午後6時28分

富ノ森調査事務所 テナントビル屋上


 扉を開けた瞬間、熱気が顔を包んだ。

 コンクリートは昼の陽を閉じ込め、靴底越しにじりじりと熱を伝える。


 スイカを置くと、夕陽が表面に反射し、皮の緑が橙に染まった。


「……暑さで溶ける」

 桜が額の汗を拭いながら呟く。


「割る前に桜が溶けて割れたら、それはそれで事故だな!」


 風吹が笑い、桜の手からタオルを奪った。

「はい、目隠しー!」


「おい、巻くのはいいけど、きついって……」

 桜が抗議する間にも、タオルがぎゅっと結ばれる。

 視界が闇に沈む。


 瀬川の声が静かに響いた。

「十回、回れ」


「え、十回も!?」

「中途半端にやっても面白くないだろ」


 風吹が桜の肩をつかみ、笑いながら回し始めた。

「いーち、にーい、さーん……!」


 蝉の声と笑い声が混ざり、西日の中で世界がゆっくり傾いていく。

 十回目を数え終える頃、桜の足元はおぼつかなくなっていた。

 空が揺れ、目隠しの内側で光がにじむ。


「どうなっても知らねぇからな……」

 モップの柄を両手で構え、桜が息を整える。


「右! もっと右!」

 風吹の声が飛ぶ。


「左だ。少しだけ」

 瀬川が淡々と指示する。


「統一しろって!」

 桜が叫び、半歩踏み出した瞬間──空振り。


 風吹が腹を抱えて笑う。

「おもしれー!」


「笑うな!」

「だって顔が真剣すぎて!」


 笑い声が重なった。

 夏の匂いが濃くなった。


 次の一撃で、乾いた音が響く。

 スイカが真っ二つに割れ、果汁が夕焼けの中に散った。


 桜がモップを下ろし、目隠しを下ろして息を吐く。

「……やった」


「ナイス! スイカ割り制覇!」

 風吹が拍手を送り、瀬川が小さく肩をすくめる。


「……お前ら、子供か」


「子供扱いすんなよ。俊兄だって楽しそうじゃん」

「そう見えるか」


「うん、笑ってる」

 風吹がそう言うと、瀬川はわずかに口元を緩めた。


「……そうか」


 西日に照らされ、三人の影が屋上の壁に長く伸びていた。


◆202X年7月28日 午後7時12分

富ノ森調査事務所屋上


 西の空の端で、太陽がゆっくりと沈んでいく。

 群青(ぐんじょう)(あか)が溶け合い、境目がなくなる頃、街の灯りが一つずつ点りはじめた。

 空気が少し冷え、街のざわめきが遠くから流れてきた。

 屋上の縁に腰を下ろした三人の前で、夜が静かに広がっていく。


 割ったスイカはすでに半分ほど食べ尽くされ、

 残った赤が月明かりに照らされて、淡く透けて見えた。



 そのとき、遠い空の高みに光が咲き、青白い光が三人の顔を照らしだす。


 つづいて、腹の底に響くような重い音がゆっくりと響く。


「うわすごい。花火」

 風吹が口をあけたまま見上げる。


「今日花火大会か……ここからでも見えるんだ。音だけかと思ってた」

 桜が頬に手を当てて呟くと、次の花火が音を追って開いた。

 赤、青、橙。

 その光が少し遅れて胸の奥に響く。


「いいとこじゃん、ここ」

 風吹が笑いながら言い、スイカの皮を片手にかざす。

 果汁が月光を反射して、宝石のようにきらめいた。


 瀬川は黙って空を見上げていた。

 その頬に、ほんのかすかな笑みが浮かんでいる。

「……いい夏だな」


 その言葉に、桜と風吹が顔を見合わせ、しばし黙った。

 蝉の声はもう遠く、代わりに夜風が吹き抜ける。


「瀬川がそんなこと言うなんて」

 風吹が笑い、桜もつられて肩を揺らした。


「なあ、またやろうぜ。来年も」

「……ああ」


 桜は空を見上げた。

 ひときわ大きな花火が開き、夜を照らす。

 光が消える。

 少し遅れて、音が胸の奥に届いた。


 その光が消えるまで、三人とも黙っていた。

 ただ笑って、ただ見て、ただそこにいた。


 あんなにも綺麗に咲いて、何も残さず消えるものを、桜はなぜか初めて見た気がしていた。

 今まで何度も見たことがあるはずなのに。

 横で風吹が、口の端にまだスイカの赤を残したまま笑っている。

 瀬川は黙って空を見ていた。

 その横顔を照らした一瞬の光が、夜よりも温かかった。


 風に遠い海の気配が混じった。

 隣で瀬川が短く息をつく。

 桜の“子供のころ”に貼りついていたその音と、いまのそれが半拍だけずれた気がした。


 胸の奥がわずかに軋む。


 次の花火が開き、音と光すべてを覆った。

 けれど胸の奥で、かすかな違和感が、まだ息をしていた。

作者からのお知らせです。

第肆章の公開準備のため、更新までしばしお時間を頂戴致します。

次回の更新は【2025/10/23㈭の22:30】を予定しております。


これを機に、次回を更新を見逃さないよう、差支えなければブックマークいただけると嬉しいです!

それでは、引き続き『桜風吹にいだかれて』をお楽しみください。


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