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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第參章;コバルトの夜の底──

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File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(拾壹)  202X年8月10日

──Side Third-person point of view──

◆202X年8月10日午後8時07分

富ノ森(とみのもり)市 富ノ森調査事務所前


 衝撃音が遠のいていく。

 空気が一拍遅れて胸に戻る。


 視界の端で、テールランプの赤が雨に(にじ)んだ。

 それは血のようで、(ともしび)のようで、どちらにも見える。


 (うめ)き声を上げることさえ忘れ、風吹(ふぶき)は起き上がった。

 (てのひら)をついたアスファルトが、まだ震えている。

 腕を伝う水は、自分のものか、雨か、もう判別できなかった。


 遠ざかる光。

 濡れた路面の上で、細く長い軌跡(きせき)を引いていく。

 白い(もや)が身体の周りで脈打ち、「追え」と戦慄(わなな)いているようだった。


 だが──視線の先に、桜がいる。


 倒れている。胸の上下は、もう見えない。


 その周囲に、傘の群れが咲いていた。

 いつの間にか、数人の通行人が駆け寄り、それぞれが傘を差したまま桜を囲んでいる。


 透明なビニール越しに(にじ)む街灯の光が、雨粒を透かして青白く揺れた。

 ざわめきは小さかった。

「大丈夫ですか」「救急車……」そんな断片だけが、雨音に押し流される。


 風吹の喉から短い息が漏れる。

 指がわずかに動いた。

 その動きに呼応するように、(もや)が脈打った。


 走り出そうとして、足が止まる。

 片膝(かたひざ)をついたまま、目だけで遠ざかる赤い光(テールランプ)を追う。


 横目に、桜の肌から色が抜けていくのが見えた。


 どちらを見ても、息が詰まった。

 肺の奥に溜まった水が、音もなく泡立つ。


 全力で追えば、車だろうがきっと追いつける。

 でも、その間に桜が──。


 風吹は思う。

 たったの五十五日でも、桜との日々が記憶のない彼女にとってのすべてだった。


 格闘ゲームで対戦したら、ぼろ勝ちして得意になった直後に、パズルゲームでぼろ雑巾みたいに負けたこと。

 茹で卵を電子レンジで爆発させて桜に怒られたけれど、結局は一緒に掃除をしてくれたこと。


 拳を握り、奥歯を噛みしめる。


 雨粒が(ひたい)を打つたび、視界が白く(またた)く。


「……くそっ!」


 (うめ)きが(こぼ)れた瞬間、靄が弾けた。

 白い風の尾が、桜のもとへ向かう。


「どいて……! どいてってば!」

 (わめ)くような声で人垣をかき分ける。

 なぜか風吹の声が群衆には届かない。


 人々の傘の間を、風吹は押し分けるようにして進んだ。

 肩がぶつかり、水滴が跳ねる。

 誰かの驚いた声がしたが、風吹は構いもしなかった。


 傘の林を抜け、風吹は桜の(かたわ)らに膝をついた。

 震える指先で、呼吸を探った。


「さくら──桜!」


 桜の胸は動かない。

 濡れたシャツが皮膚に貼りつき、呼吸の痕跡(こんせき)を奪っていた。

 まるでこの現実から、彼だけが切り取られてしまったかのようだった。


 風吹は水溜まりに膝を沈め、桜の顔を両手で支えた。

 指先が冷たい頬を撫でる。

 その感触が、消えかけの(ともしび)を映す。


 桜の胸を押す。

 両手の下で胸骨が沈み、骨の(きし)みが掌を震わせる。


 空気が戻らない。

 また押す。


 何度も、何度も。

 押すたび水が押し出され、泡が喉の奥で鳴る。


「戻ってきて……桜、お願い……帰ってきて!」


 声は(かす)れていた。

 吐息が血の味を帯び、雨に滲んでいく。


 白い靄が彼女の腕を伝い、二人の体を包んだ。

 光でも(きり)でもない──呼吸の形をした、命の残響。




 ふたりの唇が触れた瞬間、世界が震えた。




 風吹の息が、桜に吹き込まれる。

 肺の奥に残った空気をすべて渡すように。


 一度、二度、三度。

 そのたびに靄が膨らみ、血管のように分岐して流れていく。

 首筋、鎖骨、腕、指先。

 桜の身体の中に、透光(とうこう)の筋が(わず)かに閃いた。

 その輝きは肺胞の膜を染め、細枝のように分かれて滲んでいく。


 だが、まだ戻らない。

 彼女は唇を離し、再び胸を押す。


 押すたびに、湯気の中で笑い合った夜が閃く。

 水を出しっぱなしにして叱られ、怒りすぎたとお詫びにアイスを買ってきた桜。


 もう一度、押す。

 洗濯機の音、白いタオルが風に揺れ、「よし」と笑う声。


 吹き込む。

 リモコンを取り合い、結局同じ画面を覗き込んだあの距離。


 押す。

 フライパンの前、黄身の硬さで言い合いながら焼いた二枚の目玉焼き。


 もう一度、吹き込む。

「靴紐、ほどけると危ないだろ」としゃがみ込む桜の背中。

 その手の温かさが、今も掌の奥に残っている。


 ──くだらない日々が、全部、生きる理由だった。


 夜闇には、風吹の心拍だけが響いていた。

 沈黙の中心に手を重ねるたび、その鼓動が桜の体へと流れ込む。

 押すたびに、彼の胸と彼女の胸が、まるで同じリズムを刻んでいるかのように見えた。


 乳白の息が密度を増し、血の川のように脈を刻みはじめた。

 皮膚の下を閃光が走る。

 神経の線をなぞるように、温度と鼓動と意識が彼女の胸を満たしていく。


 風吹の肺が(きし)む。

 息を吸うたびに、胸が重い。

 酸素が足りない。

 なのに彼女はもう一度、桜の唇に触れた。

 空気を、生命(いのち)を、送り込む。


 四度目の吹き込みのあと、桜の喉がかすかに動いた。

 小さな泡が唇の端で弾け、(かす)かな水音を立てた。

 呻きとも、嘆きともつかない音。


「……そう、戻ってきて」


 風吹の声が震えた。


 押す。

 吹き込む。

 もう一度、押して──吹き込む。


 そのたびに白い粒子が二人の胸のあいだを往復する。

 空気の通り道を探すように、光が肌の下を()った。


 心臓が、重なった気がした。

 ふたつの鼓動が、完全に一致する幻視。

 その瞬間、風吹の視界が白く染まった。


 ……そのときだった。


 風吹の胸の奥で、白い靄が脈打つ。

 靄は彼女の口から流れ出し、呼気とともに螺旋を描く。

 空気ではない。命の温度を持った、白く淡い光だった。


 風吹の吐息が、その靄を導くように桜へと流し込む。

 彼女の唇を通って桜の喉へ、気管へ、肺へ。

 肺の奥で靄が花開き、内側から淡く光を放った。


 透光は肺胞の壁を染め、細枝のように分かれていく。

 気道から血管へ、血管から心臓へ。

 白い靄が血に滲み、赤を淡く溶かしながら鼓動の軌跡(きせき)をなぞった。


 心臓の弁が開く。

 次の瞬間、靄が()ぜるように脈打ち、血液の色がひときわ明るく染まる。

 肺から送り出された空気が心臓を経て、全身に巡る。


 鎖骨、肩、上腕。

 その一本一本の血管を、白い光が逆流しながら駆け抜けていった。

 光は神経をなぞり、骨の(ずい)を伝い、細胞ひとつひとつを呼び覚ます。


 桜の体が震えた。

 筋肉が(かす)かに反応し、皮膚の下で電流が走る。

 白い靄は毛細血管を通って腕から肘、手の甲から指先へと流れていく。

 指先の爪の下に、かすかな(あか)が戻る。


 その光は、血の代わりに体内を流れる“呼吸の河”だった。

 風吹の胸から(あふ)れた生命が、桜の体内を一周し、また彼女のもとへ(かえ)る。


 ふたりの呼吸が、管で繋がれたように重なった。

 息を吸えば、桜が息を取り戻し、風吹の身体も同じように反応した。

 吐けば、靄が波となって押し返す。


 世界の輪郭が曖昧になる。

 ふたりを包む白い光が、どちらのものか分からなくなる。

 命の通り道が、ひとつに繋がっていった。


 桜の心臓が打つたび、風吹の胸も内側から弾かれる。

 その反動で、靄がさらに深く流れ込み、血流が脈を増す。

 肺が鳴り、心臓が応える。鼓動が重なり、呼吸が同化する。


 光が神経の最奥まで到達したとき、桜の体が大きく跳ねた。

 胸が震え、喉が開く。

 次の瞬間、激しい咳き込みとともに、肺の奥に溜まっていた粘液が一気に吐き出された。液体が地面に散り、空気がひときわ鮮やかに震えた。


 桜の瞳が、かすかに動く。

 胸が震え、酸素を求めて開く。

 それは呼吸というより、生きる音を思い出すような動きだった。


 風吹の白靄は、もう彼の体内に定着していた。

 再生の光は桜の血流に溶け込み、ふたりの生命を同じ軌道で巡らせていた。


 風吹は息を詰めたまま、その生命の揺らぎを見届ける。

 桜の胸が上下し、頬に赤みが差していく。


 ……そのときだった。


 風吹の呼吸のリズムがずれた。


 心拍がどこで鳴っているのか分からない。耳の奥に遠雷のような響きだけが残った。

 音が半拍遅れて返ってくる。

 風も、雨も、自分を通り抜けていく。


 そのとき、胸の奥で何かが噛み合った。

 長い間、抜け落ちていた歯車が、ようやく元の場所を見つけたかのように。

 “カチリ”という音が、骨の奥で響いた。


 同時に、全身を冷たい波が駆け抜けた。

 それは痛みでも寒さでもなく、理解そのものの温度。


 雨のざわめきよりも確かに、心の奥底で誰かが『()()()()』と(つぶや)いた。


 肺が一度、ひゅっと縮む。

 目の奥が白く反転し、記憶と現在がひとつになる。

 そこにあった答えを、もう否定できなかった。


 風吹は唇を震わせた。

 喉の奥に言葉が生まれ、それが空気の震えとして()づるまでに永遠のような沈黙があった。


「……わたし……」

 ひとつ呼吸をして、雨を吸い込む。

 その冷たさが、真実を形に変える。


「…………嘘…………」


 その声は、涙にも似た震えで夜に(にじ)んだ。


 風吹は震える手で桜の頬を撫で、ゆっくりと立ち上がる。

 桜の胸が規則正しく上下し、頬に血の色が戻っていく。


 それを見て、心の底で何かがほどけた──。

 けれど、それはただの安堵ではなかった。


 音が遠のく。

 雨粒が肩に触れても、皮膚がそれを忘れていく。

 掌の中の現実が、静かに解け落ちた。


 見えているのに、触れられない。

 聞こえているのに、意味が掴めない。

 世界の輪郭が、わずかに遅れて脈打っている。


 胸の奥で、なにかが静かに崩れ落ちた。

 自分が追い求めていたはずのものが、最初から「 」だったと悟った。


 ──記憶の底に、何もない。


 その理解が、声を奪った。


 肺が冷える。

 吸い込んだ空気が、もう自分のものではない気がした。


 視界の端で、桜の睫毛(まつげ)が震える。

 その小さな動きが、生きている証のように眩しかった。

 それを見つめながら、風吹の心は奥底から温かな熱を放ち──そして、静かに凍りついた。


 息を吸っても、どこにも届かない。

 胸の内側が空洞になり、風のように中身が抜けていく。


 ああ、きっと私は──。


 その続きを、彼女は思い描けなかった。

 言葉にしてしまえば、すべてが終わる──そんな気がした。


 足が震える。

 膝が折れそうになりながら、それでも立っていた。

 立ち続けることでしか、今の自分を繋ぎ止められなかった。


 ふと、風が吹いた。

 街灯の下で白く(きり)が立ち上がり、彼女の影を包み込む。

 それはまるで“この町そのものが、優しく忘れようとしている”ようだった。


 風吹はもう一度だけ桜を見た。

 その温もりを取り戻した彼女は、自分の中の光が音もなく消えていくのを感じた。


 一度だけ、息を吸う。

 その音を静けさに溶かして、歩き出した。


 一歩ごとに白い靄が滲み出し、雨を吸いながら形を失っていった。

 その淡い光だけが、彼女の歩いた軌跡を照らしていた。

 それは歩みというより、逃げ出すような、静かな退場だった。


 立ち去る彼女が見たのは、雨の膜の向こうで、確かに息をしている桜の横顔。


「さくら」


 この場所に残る“生”を見届け、彼女は少しだけ──頬を緩めながら、泣き出しそうに微笑んだ。


「ごめんね」


 そして──風吹は、夜の底へ向けて足を進めていった。

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