表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第參章;コバルトの夜の底──

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/68

File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(拾)  202X年8月10日

──Side Third-person point of view──

◆202X年8月10日午後8時06分

富ノ森(とみのもり)市 富ノ森調査事務所前


 ワイパーが往復するたび、景色が一枚ずつ()がれ落ちた。

 滑る水の音が、車内の鼓動を真似るように響く。


 フロントガラスの向こう、ビルの入り口から(さくら)が出てくる。

 傘はない。肩に貼りつく布の(あい)が、雨に濡れて鈍く光っている。

 その身体から、黒い靄(のろい)が静かに滲み出ていた。

 雨に触れるたび、(もや)が呼吸するように脈打つ。


 青木(あおい)は、ハンドルの上に指先を置いた。

 彼が祈る者(えもの)だと確信する。

 軽く震える革の感触が、心臓の拍を映していた。


 夜の空気は、甘く(にご)っていた。

 香水とガソリンの匂いが交わり、時間さえ身じろぎを忘れる。

 雨粒のすべてが、観客席の瞳のようにこちらを見ていた。


「さあ、幕を開けましょう」


 息を吸う。

 胸の奥で波が立ち上がり、異能(のろい)となって言葉の形を取る。


「──相川(あいかわ)


 音にならない声が、雨の層を通して空気を撫でる。


「──(さくら)


 計器盤のランプが指先を淡く照らし、次の瞬間、その光が瞬きをやめた。

 空間が呼吸を忘れたように止まる。


 桜が立ち止まり、胸を押さえる。

 その(ひざ)がゆっくりと崩れる。


 水の泡がその形の良い唇から(こぼ)れた。

 光を反射するその透明が、舞台照明のように美しい。


 青木は微笑(ほほえ)んだ。

 ワイパーの往復が拍子木(ひょうしぎ)のように刻む。


「いいわ、その顔。自分の異能(のろい)を見るのは初めて。──初めてなの!」


 ハンドルを撫で、指先で小さく拍手を送る。


「今度はちゃんと、沈むところまで見せて」


 外の雨音が舞台袖の拍手のように重なり、彼女の演目を包み込んだ。


◆202X年8月10日午後8時06分

富ノ森(とみのもり)市 雑居ビル街上空


 屋根の上を、風が走った。

 それはただの空気の流れではない。夜そのものが裂けて、呼吸を取り戻すような音だった。


 白い(もや)の尾が、夜の黒を()く。

 風吹は屋根と屋根のあいだを()い、雨粒を裂くように駆ける。

 光を透かす身体が瓦を踏むたび、金属音が夜気(やき)を震わせた。


 水瀬風吹(ふぶき)

 その瞳の奥で、街全体が反転する。

 雨の粒が逆光のように光り、時間が一瞬だけ遅れる。


 下──。


 街灯に照らされた路地の向こうで、ひとりの男が崩れ落ちていた。

 桜だった。

 アスファルトに膝をつき、胸を押さえ、呼吸が乱れている。

 唇からは泡を含んだ水が(こぼ)れ、(あご)を伝って地面へ落ちた。


 風吹の身体が反応するより早く、靄が彼女の周囲を旋回する。


 風吹の足が地面に触れた瞬間、空気がひしゃげた。

 雨粒が四方に弾け、白い靄が地を這う。

 桜の身体がその中心に倒れている。


「桜っ……!」


 濡れたアスファルトに膝をつき、肩を抱き起こす。


 背中の温度はほとんど残っていない。

 胸郭(きょうかく)の動きは浅く、唇は青白い。

 息を吸おうとするたび、喉の奥で水泡が鳴る。


 肺が、空気の代わりに水を吸っている。


 風吹の(のど)が熱を帯びた。

 冷たい夜気のなかで、彼女の呼吸だけが熱を持つ。

 桜の頬に触れる指が震える。濡れた肌の感触が、消えゆく命の(ともしび)を思わせた。


「桜、お願い……息して。桜!」


 声が割れる。雨がその声を切り刻む。

 風吹は手のひらを桜の胸に置き、呼吸の鼓動を探す。

 わずかな震え。だが、それは“生”の音とは思えない。

 白靄が彼女の腕を伝い、桜の身体を包み込む。


 押す。


 両手の下で、胸骨がわずかに沈む。

 空気が戻らない。

 もう一度、押す。

 靄が呼吸のように膨らみ、次の瞬間しぼむ。


 雨音の中に、微かな異音が混じる。

 ぬるい水が喉を抜けていく。

 桜の口元から、透明な液体が細く流れ出す。

 呼吸と水が交錯(こうさく)し、現実が“泡の層”に変わった。


「桜……お願い、目を開けて!」


 風吹の頬が桜の額に触れた。

 冷たい。けれど、その冷たさが逆に現実だった。

 靄が二人の境界を曖昧にする。

 風吹の胸も苦しくなる。まるで、自分の肺まで水を吸い込んでいるかのようだ。


 そのとき──。


 風吹の耳に、ワイパーの音が届いた。

 規則的な“シャッ”という音。

 雨よりも低く、夜よりも確かに響くリズム。


 風吹が顔を上げる。


 通りの向こう。約五十メートル。

 車が一台、雨の幕を隔てて止まっている。

 ヘッドライトが白く滲み、その中で、運転席の女が動いた。


 甘い匂いが風に乗る。


 女の唇が、ガラス越しにゆっくりと動いた。


「──誰?」


 声音ではない。

 けれど、風吹の耳にははっきり聞こえた。


 風吹の視線がその女を射抜く。

 白い靄が一点に凝縮し、音を置き去りにして爆ぜた。


 次の瞬間、風吹の姿が掻き消えた。



 この距離で目が合うわけがない。

 そんなことを考えていると、青木の視界から風吹が消えた。


 車体(ボンネット)が鈍くへこむ。

 金属の悲鳴が雨に裂け、ヘッドライトの光がぶつ切りになる。


 次の瞬間、視界が白い閃光に呑まれた。

 雨粒が四方へ散り、空気が破裂する。

 それは雷より速く、呼吸よりも近かった。


 青木の視界いっぱいに、白靄(しろもや)(まと)った“何か”が現れた。

 雨の粒を弾くたび、光が屈折し、輪郭(りんかく)(つか)めない。

 人間の形をしている。だが、生き物の動きではない。


 ガラス越しに、目が合った。


 冷たい視線。

 瞳孔(どうこう)の奥で、まるで夜が反転する。


「はい?」


 青木の口から声が漏れた瞬間、フロントガラスが叩き割られた。

 拳が叩きつけられ、硝子(がらす)が破裂音とともに光の雨となって弾け飛んだ。

 飛沫(ひまつ)と一緒に、ガラスの粉が頬を掠めた。


 血の味が舌の奥で広がる。


 白靄(しろもや)が車内に流れ込む。

 熱い。冷たい。どちらともつかない湿度が皮膚にまとわりつく。


 目の前の女──水瀬(みなせ)風吹(ふぶき)が、

 雨と光の境目に立っていた。

 その髪は風に乱れ、声は雷鳴よりも鋭く響く。


「桜に掛けた異能(のろい)()け!」


 その声を受けた瞬間、青木は息を呑む。

 雨音さえ止んだように感じた。


 彼女の言葉の中にある“熱”が、胸の奥で膨らむ。

 守るために叫ぶ声。

 羨望(せんぼう)と、少しの懐かしさが混じる。


 ──いい顔。


 青木は思わず目の前の暴力(ふぶき)に見とれる。


 そして微笑(ほほえ)んだ。

 ワイパーが一度だけ往復し、ひび割れたガラスに滲む光が、まるでスポットライトのように二人を照らした。



 風吹の拳が震えていた。

 割れたガラスの欠片が掌に食い込み、血が滲む。

 呼吸がうまくできない。肺が自分のものでないように重い。

 桜の呼吸が止まりかけている──その事実が、身体の奥で重なっているよう。


 胸を締めつける痛み。

 雨の冷たさよりも、空気の薄さが怖い。


「そんな顔、しないで」


 青木の声が、やけに柔らかく響いた。

 穴が開き、亀裂だらけのガラス越しに、彼女の唇が微笑のかたちを作る。

 ライトに濡れた瞳が、どこまでも澄んでいた。


「──あの子を助けたいのね? 必死な貴女(あなた)。素敵な表情」


 風吹の眉が震える。

「ふざけるな……解け!」


「いやぁよ」

 青木の(ささや)きが、雨粒の奥で(つや)を帯びる。

 彼女は濡れた髪を耳にかけ、首筋の(しずく)を指でなぞった。

 その仕草さえ舞台の演技のようだった。


「私を殺してもいいのよ?」

 青木はわずかに笑う。


「ただ、それで助かる保証はないの」


「私だって死んだことないもの。死んで異能(のろい)が解けるか、わからない」


「私を殺しても解けないのだとしたら、私を説得して解かせるしかない」


 風吹が息を荒げる。

 喉の奥で靄が鳴り、肺が水を吸ったように苦しい。


「選びなさい。今ならまだ間に合うかもしれない」

 青木の声が低く沈む。


「なら殺して確かめる!」

 風吹の声が裂ける。


「でも、もし私を殺しても解けなかったら──ねえ、想像して」


 彼女は指を胸の前で軽く動かした。

 ワイパーの動きと同期して、秒針のようにリズムを刻む。


「その拳を下ろすまで、きっと三秒もかからない。でもその三秒で、あの子の肺はさらに満たされる。

 殴るたびに、水は進むの。ほら──」


「黙れ!」


 風吹が叫ぶ。

 靄が車体の周囲で波打ち、金属を(きし)ませる。


 青木は笑った。

 まるで観客に語りかけるように、ゆっくりと手首を動かす。

 人差し指が右腕の時計をなぞった。


「一秒──今、もう一口分」

 拳を握った。骨の軋みが耳の奥で鐘のように鳴る。


「二秒──もう少し」

 震える腕が青木の襟首(えりくび)を掴む。濡れた布越しに、体温と脈が触れた。

 拳を振り上げる。けれど、下ろせない。


「三秒──……ね?」


 風吹の喉が詰まる。

 息ができない。世界の空気が彼女を拒む。


 割れたガラスの欠片が両者の頬を刺し、痛みが時間を引き延ばす。


 青木は微笑んでいた。

 その瞳には恐怖も怯えもない。ただ、“見られている”という恍惚(こうこつ)が宿っていた。


 風吹の喉が詰まる。

 息ができない。世界の空気が彼女を拒む。


 青木はガラス越しに囁く。

 声は雨に溶け、まるで心臓の裏から響いてくるようだった。


「あなたは優しい。──優しい人ほど、間に合わないのよ」


 雨音が一瞬遠のいた。

 時計の針が、確かに一度だけ音を立てた。



 青木はゆっくりと息を吸った。

 濡れた髪の隙間から(のぞ)く目は、相手を映さず、舞台の観客を見ていた。

 唇の端に、演技の終わりを告げるような微笑が浮かぶ。


「──幕間(まくあい)よ」


 ギアが入る。

 タイヤの下で、水が悲鳴を上げた。


 エンジン音が雨に溶ける。

 車体がわずかに沈み込み、次の瞬間、弾けるように飛び出した。


 風吹の白い(もや)が反射した。

 風と水が衝突し、空間がねじれた。


 ()ぜた。


 音が遅れて追いかけてくる。

 水膜(すいまく)が破れ、光が跳ね、金属が悲鳴を上げた。


 風吹の身体が跳ね上がり、アスファルトに転がった。

 白靄が尾を引き、雨粒がその周囲を軌跡(きせき)のように舞う。


 青木はブレーキを踏まない。

 微笑を崩さずに前を見ていた。


 ライトに照らされた街並みが、まるで水槽の中の映像のように歪む。

 フロントガラス越しに、遠ざかる白い影が見える。


「……これで、幕が下りるのね」


 割れたフロントガラスから、雨が容赦(ようしゃ)なく叩きつけた。

 頬を伝う水は冷たく、もう血と雨粒の境もわからない。


 髪も服も濡れ切っているのに、彼女は笑っていた。

 舞台の終幕を祝う拍手をひとりで浴びているかのように。


 笑みを崩さずに、青木はわずかに首を傾げた。

 自分の演技の出来を、誰かに問うように。


 そして、誰もいない客席へ、静かに(こうべ)を垂れた。

次回更新は明日22:30頃を予定しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
書き手として大先輩から学びを得るつもりで読ませていただきましたが、 いつの間にか読み手として楽しませていただいておりました。 犯人側にも背景があり、だからこそはっきりと敵だと区別できる、 酌量の余地が…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ