File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(拾) 202X年8月10日
──Side Third-person point of view──
◆202X年8月10日午後8時06分
富ノ森市 富ノ森調査事務所前
ワイパーが往復するたび、景色が一枚ずつ剥がれ落ちた。
滑る水の音が、車内の鼓動を真似るように響く。
フロントガラスの向こう、ビルの入り口から彼が出てくる。
傘はない。肩に貼りつく布の藍が、雨に濡れて鈍く光っている。
その身体から、黒い靄が静かに滲み出ていた。
雨に触れるたび、靄が呼吸するように脈打つ。
青木葵は、ハンドルの上に指先を置いた。
彼が祈る者だと確信する。
軽く震える革の感触が、心臓の拍を映していた。
夜の空気は、甘く濁っていた。
香水とガソリンの匂いが交わり、時間さえ身じろぎを忘れる。
雨粒のすべてが、観客席の瞳のようにこちらを見ていた。
「さあ、幕を開けましょう」
息を吸う。
胸の奥で波が立ち上がり、異能となって言葉の形を取る。
「──相川」
音にならない声が、雨の層を通して空気を撫でる。
「──桜」
計器盤のランプが指先を淡く照らし、次の瞬間、その光が瞬きをやめた。
空間が呼吸を忘れたように止まる。
桜が立ち止まり、胸を押さえる。
その膝がゆっくりと崩れる。
水の泡がその形の良い唇から零れた。
光を反射するその透明が、舞台照明のように美しい。
青木は微笑んだ。
ワイパーの往復が拍子木のように刻む。
「いいわ、その顔。自分の異能を見るのは初めて。──初めてなの!」
ハンドルを撫で、指先で小さく拍手を送る。
「今度はちゃんと、沈むところまで見せて」
外の雨音が舞台袖の拍手のように重なり、彼女の演目を包み込んだ。
◆202X年8月10日午後8時06分
富ノ森市 雑居ビル街上空
屋根の上を、風が走った。
それはただの空気の流れではない。夜そのものが裂けて、呼吸を取り戻すような音だった。
白い靄の尾が、夜の黒を裂く。
風吹は屋根と屋根のあいだを縫い、雨粒を裂くように駆ける。
光を透かす身体が瓦を踏むたび、金属音が夜気を震わせた。
水瀬風吹。
その瞳の奥で、街全体が反転する。
雨の粒が逆光のように光り、時間が一瞬だけ遅れる。
下──。
街灯に照らされた路地の向こうで、ひとりの男が崩れ落ちていた。
桜だった。
アスファルトに膝をつき、胸を押さえ、呼吸が乱れている。
唇からは泡を含んだ水が零れ、顎を伝って地面へ落ちた。
風吹の身体が反応するより早く、靄が彼女の周囲を旋回する。
風吹の足が地面に触れた瞬間、空気がひしゃげた。
雨粒が四方に弾け、白い靄が地を這う。
桜の身体がその中心に倒れている。
「桜っ……!」
濡れたアスファルトに膝をつき、肩を抱き起こす。
背中の温度はほとんど残っていない。
胸郭の動きは浅く、唇は青白い。
息を吸おうとするたび、喉の奥で水泡が鳴る。
肺が、空気の代わりに水を吸っている。
風吹の喉が熱を帯びた。
冷たい夜気のなかで、彼女の呼吸だけが熱を持つ。
桜の頬に触れる指が震える。濡れた肌の感触が、消えゆく命の灯を思わせた。
「桜、お願い……息して。桜!」
声が割れる。雨がその声を切り刻む。
風吹は手のひらを桜の胸に置き、呼吸の鼓動を探す。
わずかな震え。だが、それは“生”の音とは思えない。
白靄が彼女の腕を伝い、桜の身体を包み込む。
押す。
両手の下で、胸骨がわずかに沈む。
空気が戻らない。
もう一度、押す。
靄が呼吸のように膨らみ、次の瞬間しぼむ。
雨音の中に、微かな異音が混じる。
ぬるい水が喉を抜けていく。
桜の口元から、透明な液体が細く流れ出す。
呼吸と水が交錯し、現実が“泡の層”に変わった。
「桜……お願い、目を開けて!」
風吹の頬が桜の額に触れた。
冷たい。けれど、その冷たさが逆に現実だった。
靄が二人の境界を曖昧にする。
風吹の胸も苦しくなる。まるで、自分の肺まで水を吸い込んでいるかのようだ。
そのとき──。
風吹の耳に、ワイパーの音が届いた。
規則的な“シャッ”という音。
雨よりも低く、夜よりも確かに響くリズム。
風吹が顔を上げる。
通りの向こう。約五十メートル。
車が一台、雨の幕を隔てて止まっている。
ヘッドライトが白く滲み、その中で、運転席の女が動いた。
甘い匂いが風に乗る。
女の唇が、ガラス越しにゆっくりと動いた。
「──誰?」
声音ではない。
けれど、風吹の耳にははっきり聞こえた。
風吹の視線がその女を射抜く。
白い靄が一点に凝縮し、音を置き去りにして爆ぜた。
次の瞬間、風吹の姿が掻き消えた。
◆
この距離で目が合うわけがない。
そんなことを考えていると、青木の視界から風吹が消えた。
車体が鈍くへこむ。
金属の悲鳴が雨に裂け、ヘッドライトの光がぶつ切りになる。
次の瞬間、視界が白い閃光に呑まれた。
雨粒が四方へ散り、空気が破裂する。
それは雷より速く、呼吸よりも近かった。
青木の視界いっぱいに、白靄を纏った“何か”が現れた。
雨の粒を弾くたび、光が屈折し、輪郭が掴めない。
人間の形をしている。だが、生き物の動きではない。
ガラス越しに、目が合った。
冷たい視線。
瞳孔の奥で、まるで夜が反転する。
「はい?」
青木の口から声が漏れた瞬間、フロントガラスが叩き割られた。
拳が叩きつけられ、硝子が破裂音とともに光の雨となって弾け飛んだ。
飛沫と一緒に、ガラスの粉が頬を掠めた。
血の味が舌の奥で広がる。
白靄が車内に流れ込む。
熱い。冷たい。どちらともつかない湿度が皮膚にまとわりつく。
目の前の女──水瀬風吹が、
雨と光の境目に立っていた。
その髪は風に乱れ、声は雷鳴よりも鋭く響く。
「桜に掛けた異能を解け!」
その声を受けた瞬間、青木は息を呑む。
雨音さえ止んだように感じた。
彼女の言葉の中にある“熱”が、胸の奥で膨らむ。
守るために叫ぶ声。
羨望と、少しの懐かしさが混じる。
──いい顔。
青木は思わず目の前の暴力に見とれる。
そして微笑んだ。
ワイパーが一度だけ往復し、ひび割れたガラスに滲む光が、まるでスポットライトのように二人を照らした。
◆
風吹の拳が震えていた。
割れたガラスの欠片が掌に食い込み、血が滲む。
呼吸がうまくできない。肺が自分のものでないように重い。
桜の呼吸が止まりかけている──その事実が、身体の奥で重なっているよう。
胸を締めつける痛み。
雨の冷たさよりも、空気の薄さが怖い。
「そんな顔、しないで」
青木の声が、やけに柔らかく響いた。
穴が開き、亀裂だらけのガラス越しに、彼女の唇が微笑のかたちを作る。
ライトに濡れた瞳が、どこまでも澄んでいた。
「──あの子を助けたいのね? 必死な貴女。素敵な表情」
風吹の眉が震える。
「ふざけるな……解け!」
「いやぁよ」
青木の囁きが、雨粒の奥で艶を帯びる。
彼女は濡れた髪を耳にかけ、首筋の滴を指でなぞった。
その仕草さえ舞台の演技のようだった。
「私を殺してもいいのよ?」
青木はわずかに笑う。
「ただ、それで助かる保証はないの」
「私だって死んだことないもの。死んで異能が解けるか、わからない」
「私を殺しても解けないのだとしたら、私を説得して解かせるしかない」
風吹が息を荒げる。
喉の奥で靄が鳴り、肺が水を吸ったように苦しい。
「選びなさい。今ならまだ間に合うかもしれない」
青木の声が低く沈む。
「なら殺して確かめる!」
風吹の声が裂ける。
「でも、もし私を殺しても解けなかったら──ねえ、想像して」
彼女は指を胸の前で軽く動かした。
ワイパーの動きと同期して、秒針のようにリズムを刻む。
「その拳を下ろすまで、きっと三秒もかからない。でもその三秒で、あの子の肺はさらに満たされる。
殴るたびに、水は進むの。ほら──」
「黙れ!」
風吹が叫ぶ。
靄が車体の周囲で波打ち、金属を軋ませる。
青木は笑った。
まるで観客に語りかけるように、ゆっくりと手首を動かす。
人差し指が右腕の時計をなぞった。
「一秒──今、もう一口分」
拳を握った。骨の軋みが耳の奥で鐘のように鳴る。
「二秒──もう少し」
震える腕が青木の襟首を掴む。濡れた布越しに、体温と脈が触れた。
拳を振り上げる。けれど、下ろせない。
「三秒──……ね?」
風吹の喉が詰まる。
息ができない。世界の空気が彼女を拒む。
割れたガラスの欠片が両者の頬を刺し、痛みが時間を引き延ばす。
青木は微笑んでいた。
その瞳には恐怖も怯えもない。ただ、“見られている”という恍惚が宿っていた。
風吹の喉が詰まる。
息ができない。世界の空気が彼女を拒む。
青木はガラス越しに囁く。
声は雨に溶け、まるで心臓の裏から響いてくるようだった。
「あなたは優しい。──優しい人ほど、間に合わないのよ」
雨音が一瞬遠のいた。
時計の針が、確かに一度だけ音を立てた。
◆
青木はゆっくりと息を吸った。
濡れた髪の隙間から覗く目は、相手を映さず、舞台の観客を見ていた。
唇の端に、演技の終わりを告げるような微笑が浮かぶ。
「──幕間よ」
ギアが入る。
タイヤの下で、水が悲鳴を上げた。
エンジン音が雨に溶ける。
車体がわずかに沈み込み、次の瞬間、弾けるように飛び出した。
風吹の白い靄が反射した。
風と水が衝突し、空間がねじれた。
爆ぜた。
音が遅れて追いかけてくる。
水膜が破れ、光が跳ね、金属が悲鳴を上げた。
風吹の身体が跳ね上がり、アスファルトに転がった。
白靄が尾を引き、雨粒がその周囲を軌跡のように舞う。
青木はブレーキを踏まない。
微笑を崩さずに前を見ていた。
ライトに照らされた街並みが、まるで水槽の中の映像のように歪む。
フロントガラス越しに、遠ざかる白い影が見える。
「……これで、幕が下りるのね」
割れたフロントガラスから、雨が容赦なく叩きつけた。
頬を伝う水は冷たく、もう血と雨粒の境もわからない。
髪も服も濡れ切っているのに、彼女は笑っていた。
舞台の終幕を祝う拍手をひとりで浴びているかのように。
笑みを崩さずに、青木はわずかに首を傾げた。
自分の演技の出来を、誰かに問うように。
そして、誰もいない客席へ、静かに頭を垂れた。
次回更新は明日22:30頃を予定しています。




