File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(玖) 202X年8月10日
──Side Third-person point of view──
◆202X年8月10日午後7時58分
富ノ森市 富ノ森調査事務所 雑居ビル前
夜の湿気は、もう風呂場の湯気のようだった。
街全体がひとつの肺のように膨らんでは沈み、息を止めたまま時を進めている。
舗装路に靴底がぶつかるたび、水を含んだゴムの音が低く響く。
相川桜は走っていた。
肺の奥が焼けるように熱い。喉の内側に、金属を削ったような味が残る。
危険だとわかっている。それでも止まれない。
思考が遅い。身体がもう、命令を出していた──『行け』
その先に、風吹がいる気がした。
息が荒く、視界の端が白んでいく。
それでも速度を緩めない。
靴底がアスファルトの継ぎ目を蹴るたび、水分を含んだ空気が弾けて胸を叩いた。
空の奥で雷鳴が低く唸る。まだ雨は降っていない。
だが、湿度の層が肌に貼りついてくる。呼吸するたびに喉の奥が重くなる。
走りながら、瀬川の言葉が脳裏で反芻された。
『しばらく事務所には近づくな』
理屈ではそれが正しい。だが、理屈だけで止まれるほど冷静ではなかった。
すぐにでも風吹のもとへ行かないと、何か大事なものが取り返しのつかないかたちで失われてしまう──そんな確信だけが、肺の奥を焼くように広がっていた。
桜は唇を噛み、警告の残響を振り切るように脚へ力を込めた。
風吹の居場所を探そうと、意識の中の“回路”に手を伸ばす。
桜は、どういうわけか風吹のいるその方向が感覚でわかる。
皮膚の裏で微弱な磁場のように震えが走り、そこを辿れば必ず彼女に辿り着いた。
だが今夜に限って、何も掴めなかった。
風吹の近くに、より強い何かがいる。
その存在が、自分の感覚を塗り潰していた。
電波を潰されたようなノイズ。頭の奥に針金を押し込まれるような違和感が続く。
「……っ、くそ……!」
走りながら桜は吐き捨てる。
住宅街を抜けると、事務所の看板が視界に入った。
白いネオンの縁が、湿気に滲んでぼやけている。
もうすぐそこだ。
雨の匂いが濃くなる。
空が、押し潰されるような音を立てた。
一滴、頬に触れた。
瞬間、肌の温度が一段下がる。
続けて複数の冷たい粒が襟元に滑り込む。
降り始めた。
雨粒が地面を叩き、音の粒が増幅する。
走るたびに跳ね上がるしぶきが、太腿を叩いた。
事務所前に辿り着いたときには、上着の肩がすっかり濡れていた。
建物の影は雨に押され、黒く沈んでいる。
桜は息を荒らげたまま、ビルに入り、事務所のドアノブを握った。
鍵は掛かっていない。
静かに押し開ける。
湿った空気が頬に触れる。
中は暗い。
蛍光灯の残光が、紙の端にだけわずかに残っている。
瀬川の机、積まれた書類、カップの輪染み。
誰もいない。
その空虚さが、耳鳴りのように広がった。
真夏なのに、うすら寒い気がした。
湿気の奥に、冷たい層がひとつだけ混じっている。
桜はリュックの口を開け、濃紺のマフラーを取り出した。
端の雪の刺繍を指で撫でると、少しだけ胸のざわめきが静まる。
その布を、ゆるく首に巻いた。
肌に触れる感触は温もりというより、記憶に近い。
まるで、その温度だけが“まだ生きている”みたいに感じた。
◆202X年8月10日午後8時06分
富ノ森調査事務所 室内
暗闇に慣れるまでの数秒、桜は息を整えた。
呼吸の音だけが壁に反響する。外では雨脚が増し、ガラス戸を叩く粒が無数の小さな指のように鳴っている。
靴底から染みる水の冷たさが、ようやく「ここが現実だ」と告げていた。
彼はポケットから手帳を取り出し、濡れた指先で紙を一枚ちぎった。
『風吹へ。もしこれを見たら、すぐに連絡を。どこにいてもいい。話さえできればそれでいい』
震えのない字。だが書き終えた瞬間、胸の奥がざわついた。
まるで、目に見えない誰かがその文字を覗き込み、わずかに笑ったような感覚。
机にメモを置き、視線を外へ向ける。
ネオンの光が雨粒を斜めに切り、外の通りを白くぼやかせていた。
人の気配はない。
遠くでアイドリング音が低く続いている。
事務所を出た桜は、ビルのドアを押して外に出た。
夜気の中の雨はすでに本降りになっており、傘を持たない肩に冷たさが降り積もる。
息を吸うたび、濡れたアスファルトとガソリンの匂いが混じって肺に染み込む。
外の雨脚が、さらに強くなった。
通りの向こう、駐車スペースに一台の車が止まっている。
ヘッドライトの白が、雨粒を細い糸のように切り裂いていた。
その光が一瞬、桜の影を地面に貼りつける。
車内で、ひとりの女が微笑んだ。
シートの上で細い指がハンドルをなぞり、窓ガラスに流れる水の筋を目で追う。
唇が動く。
──みぃつけたぁ。
音はガラスに当たって柔らかく砕け、外へ漏れる前に雨に溶けた。
雨の音が街を満たす。
桜は気づかない。
降りしきる雨の中、街灯の光が水膜を反射し、通り全体が白く揺れている。
冷たい水が、桜の首筋を伝い、背筋がぞくりと震えた。
瀬川のメッセージが脳裏に浮かぶ。
『甘い匂いの女、気をつけろ』
胸の奥に、説明のつかないざらついた感覚が残る。
桜は小さく息を吐き、肩をすくめると、天を仰いだ。
──ただの雨の冷たさだ。そう自分に言い聞かせながら。
◆202X年8月10日午後8時06分
富ノ森市内二級河川真名川 鏡見橋
雨は途切れず落ち続けていた。
水音が街の鼓動を呑み込んでいる。
泥と泡を孕んだ水塊が、欄干の下を濁った筋肉のようにうねり、橋脚を噛んでいた。
水瀬風吹はその橋の中央に立っていた。
雨の粒が肌に当たるたび、小さく弾けて消える。
濁流の音が耳の奥を震わせる。橋脚が鳴っている。
空気が押し寄せ、胸郭の内側まで水圧のように押し返してくる。
街灯の光は水煙に呑まれ、光そのものが湿った灰の色をしている。
遠くの車のランプが川面に映ると、すぐに攫われて消える。
下を流れるのは、水ではなく“時間の泥”のようだった。
風吹は欄干に手を置き、その濁りを見下ろした。
誰もいない。
雨と川の音が一体化して、世界に残るのは水の声だけだ。
橋のコンクリートが振動している。
その震えが靴底を伝い、脛から心臓へ上がってくる。
まるで、地面のほうが彼女の心拍を模倣しているようだった。
そのとき、別の音が混じった。
雨でも水音でもない、やけに規則正しい“歩行”の音。濡れた靴底が石畳を踏むたび、川の轟音がわずかに後退する。
世界の音階がひとつずれたような違和感のあとに、静寂がやってきた。
風ではない。誰かが近づいてくる。
風吹は顔を上げた。
薄青色のワンピースの裾が、雨を吸って重く揺れている。
澪がそこにいた。
少女の肌は青白く、濁流の飛沫の中で唯一、光を吸わずにいた。
まるでその身体だけが、水の法則から切り離されている。
澪は何も言わず、風吹の隣に立つ。
並んで欄干を掴み、増水した川を覗き込む。
濁流の表面に街灯の光が砕け、泡と一緒に呑まれていく。
二人の影は、そこに留まることなく、流れに引き裂かれていった。
「答えはわかったかしら?」
澪の声は、水の轟音に負けないのではなく、最初から“別の層”で響いていた。
風吹は首を横に振る。
「わからない。もう、なにもわからない」
「あなたは……そう、私と同じで不完全なのね。抜け落ちてしまっている。きっちり繋がっていないのね」
「繋がっていない……?」
風吹は胸のあたりに触れた。
そこに確かに鼓動はあるのに、音がどこにも届いていない気がした。
澪は微笑み、ゆっくりと目を閉じる。
「大丈夫。きっと、その時は遠くない」
息をのむほどの静寂が、ふたりの間に落ちた。
その言葉のあと、雨が一瞬だけ止まった。
濁流も、音も、時間も、まるごと息を止めたように凍る。
ただ一滴、風吹の頬を滑り落ちた水だけが、世界で動いていた。
澪がゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間、雨が空中で滞ったように見えた。
止まったのではない。降りしきる音のすべてが、別の層へ隔てられた。
濁流の轟きはそのままなのに、二人のあいだだけが異常に静かだった。
「血を求めなさい。呪いの子。その本能に従って、求めるままに血を貪るの。呪いを溜め込むの」
その言葉は囁きでも警告でもなく、祝詞のように聞こえた。
「どういうこと……?」
風吹の声が震える。
「考える必要なんてない。あなたの身体が、魂がそれを求める。だってあなたは──あら」
澪の言葉が途中で止まる。
その視線が、風吹の背後に向けられた。
瞳の奥に、遠くで光る何かを映すような微かな震え。
「……また一つ。願いが消えるかもね」
風吹の胸が急に締めつけられた。
痛みではなく、魂の奥から糸を引かれる感覚。
息が乱れ、白い靄が唇の隙間から漏れる。空気の粒がひとつひとつ見えるほどに、感覚が研ぎ澄まされていく。
濁流の音が遠のき、代わりに別の鼓動が耳に届いた。
それは自分の心音ではなかった。
世界の輪郭が、静かに反転する。
光も音も、すべてが裏返った。
──桜。
その名を思うより早く、確信が走った。
息が凍る。桜が危ない。
思考ではない。“呼吸の震え”として、桜の存在が風吹の体内に流れ込む。
彼女の中で、時間がひとつ折れた。
次の瞬間、風吹の足が、橋の欄干を蹴る。
雨が、風が、世界が破裂した。
光が一本の軌跡になり、時間の方が遅れて追いかける。
風も重力も置き去りにして、彼女の身体が雨の層を貫く。
屋根を蹴るたび、鉄骨が悲鳴を上げる。
雨粒が後方へ吸い込まれ、視界の全てが残像の尾になった。
◆
「行きなさい。自分が何者か、答えを知らない呪いの子」
澪の声が、濁流の轟音に溶けながら遠ざかっていく。
風吹は、雨の闇に消えた。
残像だけが、数秒遅れて橋の上を滑る。
やがてそれも、雨に呑まれた。
──音が戻る。
増水した川が橋脚を噛み、泡立つ水が夜気に鉄の匂いを散らしている。
少女はその音を聞きながら、ゆっくりと首を傾けた。
濡れた髪が頬に貼りつく。
唇がわずかに開き、そこから吐息とも声ともつかぬ音が漏れた。
笑っている──けれど、夏の雨と同じ温度。
生ぬるく、冷たく、どこにも救いを含まない笑み。
その笑いは、声ではなかった。空気が歪む音だけ。
雨の奥で、微かな囁きが形を結ぶ。
「──私の願いを叶えてくれるのが、あなただったら……面白いのにね」




