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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第參章;コバルトの夜の底──

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Fragment:青木 葵

──Side 元主婦 青木 (あおい)──

◆私の歩いてきた道のり

富ノ森(とみのもり)市内


 生まれたときから、光の(がわ)にいた。

 光は空気の味。拍手は血流、褒め言葉は体温の代わり。

 私はそれを吸って大きくなった。

「かわいいね」「賢いね」「すごいね」──その音が、私の呼吸だった。


 音が肌を()で、色が舌に落ち、匂いが骨に()みた。

 努力はもちろんする。けれど、努力が自分を押し上げる前に、視線が先に私を持ち上げてしまう。


 高校に上がった頃から、香水をつけ始めた。

 甘い匂いに、男の子も女の子も蜜に寄せられるように集まった。

「いい匂い」「どこの香水?」──香りは、見えない拍手だった。

 すれ違うたび、誰かが私を肯定してくれる気がした。


 広告代理店に入っても変わらなかった。

 会議室の蛍光灯は冷たいはずなのに、私が口を開くと空気がやわらぐ。

 提案書を置くと、空調の風が私の方へ向きを変える──そんな錯覚を覚えた。


 私は“選ばれる女”として生き、選ばれることを疑わないでいた。


 結婚は、その延長ではなかった。私が夫を選んだのではない。

 何度も求婚されて、根負けしたのだ。


 夫と出会った頃、彼はよく言っていた。

「お前の香水の匂いが好きだ。すごく落ち着く」

 その言葉が嬉しくて、ほんの少しだけ、いつもより強めに吹きかけるようになった。

 愛のはじまりは、世界のどこにでも匂いがあることを教えてくれた。


「そんなに言うのなら、貴方(あなた)の言葉を信じてみるわ」

 彼は私を、幸せにするという。


 観客を一人に絞るのも、悪くないのかもしれないと、その時は思った。



 拍手のない夜は、想像よりずっと静かだった。



◆202X年から五年前


 妊娠が分かった朝、私はお腹を撫でながらスマホを構えた。


 ハッシュタグは呪文みたいに指先から(にじ)む。


 #初マタ#奇跡の命#ありがとう


 送信ボタンのタップ音が、舌の裏に甘く跳ねる。


 数百の「いいね」。通知の振動が胸の先で小さく硬さを作り、画面の白い光が乳輪の色を薄く洗っていく。


「理想の奥さん」「まぶしいママ」。


 コメントの行が滝になり、指でスクロールすると爪の先に涼しい風が通る。フォロワーは数万を越え、伸び率のグラフが私の内側の唇をくすぐる。


 夫は最初こそ笑って見ていたが、すぐに「そんなに撮らなくても」と口を閉ざした。


 彼は“視線”になれない人だった。

 人を見つめることに耐えられない人。

 誰かを見つめるたびに、自分が透けていく気がする──そんな目をしていた。


 見てはくれるのに、目を合わせてはくれない。


「見てもらえるって、幸せなことなのよ」

 私は言葉で触れたが、彼はそこに濡れを感じなかったらしい。


 夜、みんなの言葉を読み返す。

 ヘッドボードに背中を預けると、木目が背筋に沿って波打つ。通知音が胸の脈と重なった。


「可愛い」「眩しい」「尊い」


 ひとつ鳴るたび、薄い布の内側で小さな震えが立ち上がる。

 窓の外、遠くのパトカーのサイレンが、湿った赤色で私の腹を巡る。

 私は息をゆっくり吐き、画面をもう一度更新する。


 数が増える音がする。


 その音を聞きながら、私は笑っていた。


 指先の熱が画面に移り、神経の奥で小さな波が立つ。


 それが一瞬の快楽ではなく、癖のような安堵に変わる。

 画面の向こうで、誰かが確かに私を見ている──そう思えることが、麻薬より静かに効いた。


 フォロワーが五万人を越えたころ、私は人生でいちばん満たされていた。

 

◆202X年から四年前


 娘の名は、(めぐみ)


「愛というめぐみを一身に受けられる子になるように」


 そう願いを込めながらも、私は知っていた。

 本当は、私のほうが愛されたいのだということを。


 けれど、腕に重みを宿した瞬間だけは、その欲望がやわらぐ。

 あたたかい。ミルクの匂いは乳白色の音で、眠る顔のまぶたは春の薄氷(はくひょう)の手触り。


(めぐみ)、あなたは世界に愛される子になるの」


 本心だった。だから記録する。笑う、泣く、寝返り。


 保存するだけでは満たされない。

 投稿すれば、どこかの誰かが「いいね」をくれる。通知の震えが乳腺の奥で波紋になり、世界が「見ている」と囁く。


 私は画面の数字で“母である自分”の輪郭をなぞり直す。

 愛していなかったわけではない。心の底から、愛していた。


「ママの笑顔に救われます」「私も頑張ろうと思いました」

 ただ、数字のほうが現実より鮮明に、私を抱きしめてくれた。それだけ。


 夫は、私を“演じている女”として見始めた。

 カメラの赤い点が灯るたび、私は母になり、彼は観客に戻る。

 だがその視線は、舞台の外にいる観客のそれではなかった。

 彼もまた、私の光で自分を見失っていた──その鏡像が、リビングのガラスにだけ映った。


 いつからか彼は眉をひそめるようになった。

「お前、最近香水つけすぎなんだよ。……臭いよ」

 その一言が、鼻先の甘さを一瞬で腐らせた。


 私はさらに投稿を重ねる。

 指先の熱は画面を通して世界に放たれ、承認の甘い匂いが部屋の湿度を上げる。

 拍手は乳白色の海となって私を満たし、私は脳の内側で満ち行く潮を覚えた。


◆202X年の前年夏


 夏。潮の光が皮膚の上で、細かい魚群のように跳ねる午後。


 夫は仕事。私と(めぐみ)、ふたりだけの海。


 小さな浜。浮き輪を抱いためぐみが笑う。


 甲高い笑いはレモン色のスプレーになって、私の頬にかかる。

 私は砂に膝を立て、スマホを構えてフレームを切る。


「もう少しこっち。そう、かわいい」

 波、太陽、笑顔。完璧な構図。

 アップしたら、みんな“癒される”と(わめ)くだろう。


 そのとき、レンズの奥で別の子が沈んでいくのが見えた。


 スマホを砂に落とし、走る。


 海がふくらはぎに冷たい歯を立てる。

 重い。塩の味。

 水を蹴り、腕を伸ばし、沈んだ体を抱き上げる。


 泣き崩れる母親が私の手に額を押し当てる。

 周囲の人がスマホをこちらへ向けているのが視界の端に光る。

 胸の内側が、満たされる。


「よかった……助かって、よかった」


 振り返る。


 (めぐみ)がいない。


 浮き輪だけが、波の上でくるくる回っている。


「……(めぐみ)?」


 海へ。


 足が砂を離れ、私は獣のように水を掻く。


 喉が熱い。


 見つけた。


 抱き上げる。


 唇は冷たい貝殻の手触り。


「息して……お願い、息して!」


 胸を押す。


 息を吹き込む。


 返らない。



 夕暮れ、海が赤く染まり、波頭が心音のように砕ける。

 肩の上で、まだ濡れた腕の重みが消えていく。

 その温度が、海に溶けていった。


 助けた子の母親が泣きながら礼を言う。私は──笑っていた。


「その子だけでも、助けられてよかったです」


 あのとき笑っていたのは、誰だったのだろう。



 事故は報道された。


「勇敢な母」「命の恩人」「悲劇」


 フォロワーはまた増え、画面の数字が一気に膨らむ。


 その熱は、真夏の車内のビニールみたいに私の皮膚に貼りついた。


 けれど数日で、潮が引くみたいに消えた。


「自分の子は?」「撮ってたんですか?」

 称賛は嘲笑に、花束は石に、拍手は指差しに変わる。


 夫がニュースを見ながら言った。

「お前が見てれば、死ななかった」

「助けたのよ。あの子を」


「ふざけるな!」

 壁が震え、空気が裂け、私の内側の海がまっぷたつに割れた。


「……私は、間に合わなかっただけ」


 それでも彼はもう私を見なかった。


 世界から視線が消え、窓ガラスは透けるだけの無色に戻った。

 誰も見てくれない。私の存在がどこにも映らない。

 “見られて生きる女”が、“見られない現実”に閉じ込められる。


◆202X年の前年 秋


 夜。壁一面に貼った、めぐみの写真。

 私はそれを一枚ずつ剥がし、小さく千切って舌の上にのせる。


 光沢紙の角が舌先を切り、鉄の味が薄く滲む。



「──お腹に戻ろうね。今度こそ、ちゃんと見てるから」



 紙はゆっくり柔らかくなり、インクの匂いが胃の底へ沈む。

 体に(めぐみ)を、戻すために。

 溶けた色が、血に混ざる音がした。


 ドアが開く。

 夫が立ち尽くし、息を呑む。私は振り返って微笑む。


「もう一度、(めぐみ)をつくろう。今度こそ、世界にちゃんと見せてあげるから」


 私は彼に歩み寄り、腰のあたりに指を伸ばした。

 バックルの金属が指先に触れる。冷たい。

 その冷たさが、かつての温もりを思い出させる。

 彼の体から漂う洗剤の匂いが、遠い海の塩と重なる。

 ベルトの革を摘まんで、ゆっくりと引き抜く。


 けれど彼は顔を歪め、私の肩を強く押しのけた。

 体が壁に当たり、鈍い音がした。

「気持ち悪い……もうやめてくれ」

 私は床へ崩れ、静かに泣いた。泣き声は乾いた紙を揉む音に似ていた。


 床に手をついたまま、嗅覚の奥で何かが折れる音を聞く。

 その日から、私は香水をつけるのをやめた。

 どんなに空気が乾いていても、私はもう“匂いのする女”ではなくなった。


◆202X年4月29日 午前8時41分


 スマホに届いた写真──署名のある離婚届。「提出したから」


 すぐ下に、振込通知があった。

 三桁の金額。慰謝料(てぎれきん)だと分かったが、通帳の数字より、画面の冷たさのほうが心に残った。


 夫からは、それだけ。



 私は光のない部屋で息をしていた。


「ねえ、(めぐみ)。どうしたら……もう一度あなたに会えるの?」


 返事はない。

 フォロワー数がゼロの画面だけが、青白く光る。

 黒い鏡に映るのは“何も映らない私の顔”。


 指先から温度が抜け、肺の奥で泡が弾けた。

 その泡が、現実と私を分けた。


 耳の奥で、水の音がした。洗面台に落ちる(したた)りではない。

 子宮の中にいたときの音。羊水の音色。

 言葉の意味がほどけ、感覚が混ざり始める。

 音が光に、光が味に、味が痛みに変わる。


 私のまぶたの裏では、青白い画面の明滅が波紋となり、無数の「いいね」が星座のように散っていた。

 指先を動かすたびに、液晶の光が水面の泡に変わり、浮かんでは弾け、また沈む。

 呼吸の代わりに通知音が鳴り、胸の奥で小さな魚のような振動を残す。


 床は鏡面の海へと溶け、壁の写真たちが光の泡になって浮かび上がる。

 娘の笑顔が幾千にも複製され、気泡となって私の周囲を泳ぐ。

 笑顔は波の音になり、波の音は脈拍と混ざり合う。

 私はその中央で、膜の中にいる胎児のように丸くなった。


 水は冷たくもあり、ぬるくもあった。

 それは、誰かに見られるときの体温に似ていた。

 私は息を吸う。吸うたびに肺がふくらみ、満たされていく。

 けれど、それは空気ではなかった。

 液体だった。

 光沢のある、乳白色の液体。

 肺がそれを受け入れるたび、世界がまたひとつ柔らかく波打つ。


 視界の端で、泡の列がひとつの形を取る。

 金魚鉢のように丸い空洞の中央、光の影が揺れていた。

 声はそこから響く。音ではなく、泡のはじける気配として。


(なんじ)叶匣(かなえばこ)と申すもののえらびたまへり。

 絶望にて呼応せし者、今より此の遊戯(ゲーム)に参加するべし──』


 言葉は水泡の列として私の周囲を巡り、頬を撫でながら消えた。

 それぞれの泡の中に、ひとつずつ「視線」がある。

 私を見ている。

 この世界全体が、私の観客のように瞬きしている。

 誰もいないのに、見られている──その感覚に、涙が出そうになる。


 私は笑った。

 やっと、また誰かが見てくれている。


『汝の心に宿れる願ひを告げよ。祈りは我が実行を呼び、必ず叶かなふ。

 だが、願ひは世界を汝に従わせん。深く思ひ定めよ』

 声は柔らかくも冷たい。

 水底で響く鐘の音のように、遠くて、なのに胸の奥を震わせる。


 私は答える。

(めぐみ)を……」



「──()()()()()()()宿()()()()の」



 泡が一斉に弾けた。

 私の言葉が液体の中に溶け、光を孕んでいく。

 それは祈りではなく、告白だった。

 願いではなく、()()()()()()への渇望。


 (めぐみ)さえ、お腹に戻れば──そうすれば、世界がもう一度、私を見てくれる。


 沈黙。


 水が私の周りで逆巻き、音が遠ざかる。

 世界が一度、呼吸を止めた。

 その静寂の中心で、声が再び囁いた。

『──されば、汝に《胎中水(はらうちのみず)》を授けむ』


 胸の奥で、水音がした。

 呼吸のたびに肺の膜が波打ち、気管に涼しい川が通う。

 周囲の泡がすべて私の中に吸い込まれていく。

 娘の笑顔も、夫の視線も、フォロワーの数字も──みんな溶けて混ざる。


 世界のすべてが、ひとつの液体になった。

 匂いも温度も溶け合い、私の境界はなくなる。

 その無音の中心に、まだ温かい一点だけが残っていた──私だった。



 久しぶりに、瓶の蓋を開けた。

 眠っていた香りが、ゆっくりと目を覚ます。

 指先に触れた液が肌に触れると、鏡の中の自分が微笑んだ。


 ──幕が上がる音がした。

 甘い匂いが喉を撫で、心臓の奥でライトが灯る。

 世界がふたたび、観客席のようにこちらを向く。


 私は息を吸い、微笑んだ。

 “見られる女”が、もう一度、役を取り戻した。


 光が差す場所に、私は戻っていた。

 それは母の笑みではない。

 舞台に立つ女が、胸の奥でスポットを灯すときの笑みだった。

次回更新は明日22:30頃を予定しています。

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