File5:富ノ森住宅街連続衝突死事件/富ノ森病院内溺死事件【前】(捌) 202X年8月10日
──Side 富ノ森署 刑事課 警部補(謹慎中) 森崎 達也──
◆202X年8月10日 午前6時43分
富ノ森市内
朝いちの風が動かない。
アスファルトの上で湿度だけが唸っていた。
昨日、富ノ森調査事務所の前で気配を感じたあと、ドアを開けると、あの甘い匂い。
追ったが──結局、撒かれた。
謹慎中の身で外に出るのは本来なら懲戒ものだ。
だが、机上で済む話じゃない。
助手席にはノートパソコン。昨夜、山村が送ってきた動画が入っている。
“藤田直哉_転落映像_202X06161838”。
何度も見た。
歩道橋の階段。画質は荒く、照明がちらつく。
男が落ちる直前、画面の端に影。
影はスマホを構え、倒れた藤田を撮っていた。
病院で花束を抱えた女。
あの仕草と同じだ。
意識して人の目を外す角度。癖になっている。
偶然じゃない。
映っているのは、あの女だ。
正規の照合では該当なし。裏の手を使う。
AIによる画像検索が吐き出した似顔の群れを潰す。
白い縁飾りの折り畳み日傘、角の欠けた透明ケース、カメラ脇の半月シール。
右耳のピアスはロブに二つ、軟骨に星型をひとつ。病院の廊下映像と一致。
同じ組み合わせがSNSの自撮り、今朝のストーリーにもある。
ストーリーには赤いガーベラ。包み紙のテープが商店街の花屋と一致。
六月十六日、歩道橋映像では半月シールが一瞬光る。
これだけ揃えば、同一人物で間違いない。
──青木葵。フォロワーは一万人前後。
プロフィールは「占い・美容・日常」。過去の投稿には子どもの写真も混ざっている。
軽口めいた投稿ばかりだが、どれも呼吸が整いすぎていた。
生活を演じている匂いがした。
再生と停止を繰り返す。
廊下の背中と、歩道橋の影。
光も距離も違うのに、動きが同じだった。
◆202X年8月10日 午後1時17分
富ノ森駅前 フラワーギフト富ノ森
花屋の軒先で、カスミソウが揺れていた。
「富ノ森署の森崎です。この人を見ませんでしたか」
画面を見た店主が答える。
「今朝の十時ごろ。真っ赤なガーベラを束で買っていったよ」
包装紙のロゴを確認。間違いない。
◆202X年8月10日 午後1時28分
富ノ森市内カフェ・リュミエール
ガラスの壁越しに、あの日の光景が透けて見える気がした。
白い床。灼けた光。佐伯充の潰れた胸。
──カフェ・リュミエール。俺にとっても町にとっても悪夢が始まった場所。
ドアを押すと、あの日と同じ音がした。
店内の冷気が袖口に溜まる。
カウンターでレジを打っていた青年が、こちらに気づいた。
「……刑事さん、ですよね? あの時の」
「覚えておいででしたか」
苦笑を返す。警察手帳を見せるまでもない。
「あの後、営業再開されたんですね」
「ええ、しばらく閉めてましたけど……もう平気です」
店員の声には微かな硬さがあった。
俺はスマホの画面を差し出す。
「この人、最近ここに来ていませんか」
店員は画面を覗き込み、わずかに眉を上げた。
「この人でしたら——」
言葉を切って、ガラス窓のほうを目で示した。
「——今、あちらのお席に」
振り向く。
窓際、かつて遺体──佐伯充が転がっていたあたりに、女が一人、アイスコーヒーのグラスを手にしていた。
淡いワンピース。茶色の髪。
白い指が、氷の溶ける音に合わせてゆっくり動いている。
冷気にまじって、あの時と同じ甘い匂いがした。
彼女が視線を上げた。
目が合った瞬間、唇がふっと笑みに歪んだ。
「あら、刑事さん、こんにちは」
胸の奥で、何かが沈む音がした。
女は静かにグラスを置き、席の向かいを手で示した。
「せっかくですし、どうぞ?」
「……少しお話を伺っても?」
「ええ。暑いですし、座ってお話しましょう」
向かい合って腰を下ろす。
氷の音が、店内の会話をすべて押し出していく。
「富ノ森署の森崎です」
警察手帳を胸ポケットから出して見せ、仕舞う。
「少し確認を。先日、病院でお見かけしましたね」
「あら、やっぱり気づいてたんですね」
青木は笑った。口元は柔らかいが、目がまったく笑っていない。
「ええ。知人のお見舞いに行ったら、警察の方が立っていて。野次馬根性で病室の前まで行ってみただけ」
「藤田直哉の病室に?」
「そうだったみたいね。びっくりしちゃった。あの人、有名だったもの」
「有名?」
「ネットニュースで何度も取り上げられてるのを拝見したわ。名前までは出てなかったけど、市内の病院に入院してるって。
透明人間だとか。透明人間って見てみたいでしょう? あら、見えないんだったわ」
軽い口調のまま、長く笑う。
俺は短く息を吸う。
「……そのあと、どこへ」
「すぐ帰ったわ。病院の匂い、苦手なの」
ステアスプーンが氷を鳴らす。
「それに、刑事さんに見られてる気がして」
「なぜ、俺を刑事だと?」
「あら、刑事さんが、私を覚えていたように。私も貴方を覚えていただけ」
「どういう──?」
「病院ですれ違ったあと私も貴方を見ていただけ」
言葉の意味がすぐに飲み込めなかった。
“見ていた”?
息が一瞬、止まった。
「……俺を、つけていたのか」
問いながら、自分の声が低くなるのがわかった。
青木はカップを持ち上げ、氷を舌で転がすようにして笑う。
「つけるなんて。貴方が通った道を、偶然、歩いただけ」
「偶然、ね」
「昨日もそう。富ノ森調査事務所を出た貴方、焦ってた」
「……見てたのか」
「ええ。貴方の背中、焦げそうなほど熱かったもの」
笑っていた。
その微笑に悪意の形はなかった。
ただ、すべてを見透かしているような穏やかさがあった。
俺は小さく息を吐いた。
刑事としての勘よりも、自分の情動のほうが早く反応していた。
──尾けられても気づかないほど、俺は動顛してたのか。
内心で苦く笑った。
「富ノ森調査事務所には、何の用があった」
問いを重ねると、青木は一瞬だけまばたきを止めた。
グラスの水滴が、指先をつたってテーブルに落ちる。
「だって気になるじゃない。貴方が追ってるものを」
唇の端をかすかに上げる。
「私、SNSでそういう話を拾うのが好きなの。刑事さんが追ってる事件が近場で起こってるなんて——面白いじゃない?」
グラスの氷が一つ、沈んだ。
「何を聞いた」
「貴方、ずいぶん声が大きかったわ。お相手の方、“不思議な事件”を知ってそうね」
内心、舌打ちをする。どこまで迂闊なんだ俺は。
声が低くなる。
「藤田を殺したのはお前か」
青木はわずかに首を傾げ、唇を三日月の形にした。
「私が? どうして? どうやって? ……魔法?」
笑いながら言うその声は、冗談のようでいて、冗談ではなかった。
「魔法、ね」
皮肉を混ぜて返したつもりだった。
だが声は自分でも驚くほど乾いていた。
青木はその反応を楽しむように目を細めた。
「怒らないのね、刑事さん。笑うところなのに」
「冗談で済む話なら、いくらでも笑える」
「そう。……じゃあ、少しだけ冗談を」
グラスを置く音。冷気が変わった。
「私、姓名判断が趣味なの」
「……は?」
「あら、警戒しないで。簡単な占いみたいなものよ」
青木は氷の残ったグラスを指で回しながら、柔らかく笑った。
「私は、知っているでしょうけれど青木葵。……素敵でしょ?」
「────」
「貴方も、いいお名前そうね。素直に何でもお話するお代だと思って。下のお名前も、伺っていいかしら」
軽い調子。
それなのに、どこか張り詰めたものが空気に混じった。
笑みの奥の“間”が、息の仕方を決めているようだった。
「……森崎、達也だ」
その瞬間、彼女の瞳が一度だけ瞬いた。
そして小さく、まるで味わうように繰り返す。
「——そう、森崎 達也さん」
声の底が沈むと同時に、喉が締まった。
肺の奥を、誰かの指が押し潰す。
息を吸うたび、空気の代わりに生暖かい液体が這い上がった。
意識のどこかが「溺れている」と理解した瞬間、身体が勝手に逃げようとした。
「──っ……あ……」
椅子を蹴って立ち上がる。
しかし足がもつれ、テーブルの角に手をつく。
視界がぐらつく。
肺の中で、冷たい液体が音を立てて満ちていく。
呼吸するたび、喉の奥から水泡がこぼれた。
藤田も、こうして息を奪われたのか──。
周囲がどよめいた。
青木がすぐに声を上げる。
「具合が悪いみたい! 救急車を!」
レジの青年が電話を取る。
「──救急です! 意識はあるけどなんか息が!」
奥の女性客が立ち上がりかけて止まり、店員がAEDの位置を一瞬迷って目配せする。
倒れ込む俺の肩に、青木の指先が触れる。
軽い。けれど、体温が皮膚に残るほど近い。
胸ポケットから警察手帳を引き抜き、挟んであったメモ書きを指でなぞった。
「……あら、富ノ森調査事務所。瀬川俊二、相川桜」
印字された文字を指でなぞり、ふっと唇を緩める。
「写真はさすがにないのね。残念。顔と名前、揃えば完璧だったのに」
呼吸が途切れる。
世界が歪む。
視界の端に、溶けた光が波のように流れた。
「刑事さん、本当に具合悪そうね」
青木は立ち上がり、スカートの裾を整える。
「貴方には、まだお仕事を頑張ってほしいもの。……大丈夫、すぐよくなるわ」
指先が宙をなぞる。喉の圧が抜け、次の呼吸で濁った液体がせり上がった。
床に散ったそれを見て、隣席の男が半歩退く。
店員が冷えたおしぼりを差し出し、別の客が入口のドアを開けて風を入れる。
「そう、姓名判断の結果だけれど……家庭運だけ、ボチボチね」
それだけぽつりと口にして、青木は会釈ひとつで人垣を抜け、鈴を揺らして出ていった。
扉の鈴が鳴った。
甘い匂いだけが、まだ空気の底に残っていた。
床に手をつき、静かに息を吐く。
口からこぼれた液体が、床の光を歪めている。
サイレンが遠くで溶けていく。
──喉の奥に、泡の味だけが残った。




