Fragment:藤田 直哉Ⅰ
──Side 無職 藤田 直哉──
◆202X年4月某日午後10時14分
富ノ森市内ニュータウン藤田家自室
壁の穴が僕を嘲ってる。白い粉が縁にこびりついて、そこからじわじわと湿った腐臭が滲む。
殴ったあとがまだ冷たくて、指先にざらつきが残る。ドン、とベリッと破れる音が耳の奥に残り、まだ少し疼く。
床は僕の城だ。袋が、弁当のトレーが、袋菓子が、使い捨てカイロが折り重なって、踏むたびに湿った匂いが立ち上る。僕の肌に触れる空気は常に脂で重たい。
風呂は放置、洗濯物は山、布団は汗が染みこんで重たい。ここにいるだけで世界が遠くなる。
そう、誰も来ない。来ないから僕は騒げる。叫べる。自由だ。
自由だが、奇妙なことに誰も褒めちゃくれない。母は毎朝「出て行け」と繰り返すだけだ。
親父は死んだ。親父は逃げたんだ。ここにいるのは僕だけ、透明な僕だけ。
母親はいつも同じことを言う──「いい加減に片付けなさい、風呂に入りなさい」うるさい。うるせえ!
むしゃくしゃして、壁を殴った。
◆
PCの画面に光がちらつく。SNS。
今日も誰かがくだらねえ動画を上げてる。僕はコメント欄に潜り込む。
罵倒を書き込む瞬間、指先が熱くなる。
叩くのは快感だ。配信者? あいつらは承認欲求の塊だ。バカ面を晒して金を恵んでもらってるだけ。僕が論破してやんねえと。
政治家? 全部茶番。支持者もバカばっか。僕が一番わかってる。
ゲームを起動する。FPS。マッチングに入った瞬間、胸がざわつく。僕はうまい。絶対にうまい。……のに、また負けた。
回線が悪い、クソ運営、味方がゴミ。チャット欄に打ち込む。相手の名前をメモって粘着してやる。晒しスレにコピペを投げ込む。
追いかけて、晒して、燃やして、また飽きて次を探す。それが日課だ。
僕は正しい。僕は被害者。僕を受け入れないやつが悪い。BAN? ふざけんな。運営がクソだからだ。
世の中が、間違ってる。
◆
埃が舞って、くしゃみが出る。涙が鼻の奥を伝って唇の端に塩の跡をつける。
味は鉄とも油とも区別がつかない泥のようなものだ。
そんな体をさすりながら、僕は考える。
家族、隣人、スーツを来た奴ら、みんな僕を見ない。
親戚のジジイババアも、同級生も、近所の連中も。
訊いてみろよ──誰か一度でも「大丈夫か」と訊いたか? 誰も訊かねえ。
だから僕は声を張る。声が届かない分、声を大きくするしかない。
母の言葉が耳に刺さる。「いい加減働いて出て行きなさい」って。馬鹿馬鹿しい。
僕が頼んで産んでもらったわけじゃないのに、なんで僕が全部僕の面倒見なくちゃなんねえんだよ。
叫ぶだけだ。叫ぶと心が少し楽になる。叫んでも誰も来ない。黙ってると見えなくなる。
だから僕は騒ぐ。誰も僕の話には耳を傾けない。だからより声を大きくする。
社会を変えるには、まず自分から変わらなければ。
◆
母の声が廊下を這ってくる。声は濡れた布切れみたいにぶよぶよ震えて、僕の鼓膜をなぞる。
こっちを覗き込むときの目がいつも嫌だ。薄い膜の向こうから、僕を測るように小銭の価値で測る目だ。
あいつらは女だからって、簡単に人を評価する。損得でしか動かない。女ってのは──って、思わず言葉が漏れたら、母はもっと細くなって、眉間に皺を寄せる。
「いい加減にしなさい、直哉。片付けなさい、風呂に入りなさい。あんた四十二でしょ、いつまでも子供みたいなことして……」
その言葉を聞くと、胸の内の何かが針でかき回される。女の命令口調、女の「良い母」価値観、女の「世間体」っていう糞みたいな秤に僕を乗せるやり方が、昔から許せなかった。
あいつらは僕を小物扱いする。笑って、励まして、押し付ける。すべてが偽善だ。
女はやさしくするふりをして、都合が悪くなったら泣いて誤魔化す。僕は見抜いてるんだ。だから言い返す。刺すように、声を尖らせる。
「黙れよ! おまえら女ってのはさ、いつもこうだ。面倒くさいだけ。いつも上から目線で、搾取してくるくせに、何もしない。あんたらが偉そうに説教してる横で、僕は毎日ここで腐ってるんだよ!」
言葉は刃じゃない。だが母の肩は小さくすくんだ。僕はその震えが気に入らない。
もっと震えろ、もっと怯えろ、って思う自分がいる。胸の奥の熱がぐっと盛り上がって、手の平に汗がにじむ。叩きたくなる瞬間が、いい匂いのように立ち上る。
母は嗚咽しながらも「母さんはあなたのためを思って」って言い始める。
でた、いつものテンプレ。被害者面して加害のように振る舞う、あの演技。僕は吐き気がした。どの口が「ため」だ。あんたらがために僕は我慢してきたんじゃない。あんたらが勝手に作った価値観で僕を縛ってきたんだ。いい加減にやめろ。
言葉が足りなくなると、僕の手が先に動いた。壁を殴るのと同じ感覚で、胸の内のもやもやをそいつの顔に叩きつけたかった。掌が母の頬を打つ。部屋の空気が破れる音がした。
掌の熱さが伝わる。嗚咽と驚きが混ざった声が漏れる。母の目が一瞬真っ赤になる。僕はその赤に素早く視線を突き刺す。「黙れ」と一言。口の中が金属の味で満たされるような気がしたが、それでもいい。僕は正しい。僕は被害者なんだ。誰かが僕を見てくれなかったこの世界が悪いんだ。
◆
夜が深くなると、時々妙に胸の内がくすぐったくなる瞬間がある。
世の中が自分を見ないことに、眠れない夜がある。
世の中にとって、僕は透明人間なんだ。誰も僕を見やしない。
明日も月曜日だ。いつものコンビニで週刊誌を買う、そういう小さな予定が胸を満たすくらいには、僕は渇いてる。
◆202X年4月14日午前1時48分
富ノ森市内ニュータウン藤田家自室
「いい加減にしてちょうだい、直哉! 片付けなさい、風呂に入りなさいって何度言えば──」
母の声が濡れた綿布みたいに垂れて、台所の蛍光灯の下でよれる。あの目つきが本当に嫌だ。自分の都合でしか物を見ない、その癖に説教だけはする。
女ってやつは、いつも泣いて誤魔化す。あの涙の湿り気が、僕の中で虫唾を走らせる。
「おまえ、四十二にもなって」って言葉が出た瞬間、僕の口が勝手に弾けた。声は刃物みたいに短くて、そこにあるだけで音が刺さる。
「黙れよ! 僕が頼んで産んでもらったわけじゃないのに、なんで僕の面倒を見ろって言われなきゃなんねえんだよ! あんたが勝手にヤッて、勝手に気持ちよくアンアン喘いで、勝手に作って、勝手に産んだんだろ? だったら責任取れよ!」
言葉が出ると同時に、母の顔が固まる。眉が寄って、唇が紫になる。泣きそうな鼻の下に赤い筋が走る。あいつは言葉を探すみたいに震えて、「直哉……」って小さく呼ぶだけだった。
いや、卑怯だ。泣いて許しを請うつもりだろ。そういう奴らは、いつもそうだ。
母が平手をあてた。掌の衝撃が頬に赤く花を咲かせて、熱さが跳ね返る。
痛みが生きていることを教えてくれるようで、胸がざわつく。
だがその瞬間、僕の中で何かがバチッと切れた。掌の温度が、怒りの油に火をつけた。
僕は襟首を掴んだ。力を込めると、母の重さが腕にのしかかる。
声が裏返りそうになるのを無視して、僕は引き摺り出すように階段の方へ連れ出した。
「出て行けよ、ここから出て行け」って、言葉が喉を裂いて出る。
二階の廊下は薄暗く、絨毯は湿気を含んで足裏に粘る感じがした。母がわめく。出て行けって何度も言う。
身体を押すと、階段の踊り場で母が足を踏み外した。
掌の湿り気が消えて、重心がひょいと外れた瞬間、母は階段を滑り落ちていく。
音が、骨と布と空気が混ざったような、低いうなりを立てた。僕の鼓動が耳の中で膨れて、世界が一瞬ひっくり返る。
床に投げ出された母は、口元に泡がにじんでいた。
目は半開きで、僕の顔を捕まえようとしている様子が、逆に哀れだった。ああ、これで静かになるのか──胸の奥で冷たい安心が広がるのを感じた。
誰もここに来なくなる。僕の声はもう邪魔されない。僕は震える手で自分の胸を押さえながら、その感触に小さく笑った。
「ごめん」も「どうして」も出なかった。
だって、僕は被害者なんだ。あいつらが僕を苦しめたんだ。僕はただ、静けさを取り戻しただけだ。
血の匂いが立ち上り、鉄の味が喉に貼りつく。それすら心地よかった。これで終わりだ。僕の世界にはもう一つ余分な秤がなくなった。




