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桜風吹にいだかれて【第肆章;歪み、歪んだ道標 毎日22:30更新中】  作者: 雨後 穹・改
──第貮章;その日、雨は止んだ──

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File3:月曜日の通り魔事件(玖) 202X年6月10日

──Side 富ノ森(とみのもり)調査事務所 アルバイト 相川(あいかわ) (さくら)──

◆202X年6月10日午前11時02分

冨ノ森市立総合病院病室


 天井の白が舌に触れた。

 蛍光灯の低いうなりが枕を震わせ、前髪が頬に冷たい鱗のように張りつく。

 右手を持ち上げると、点滴のチューブが小さく鳴り、透明のしずくが一定の間隔で落ちる。


 規則的な音が、昨夜の断片を呼ぶ。交番。迷子の女の子。人波を割る悲鳴。


 手を伸ばしてスマホを掴む。──六月十日。悪い夢だった、という都合のいい冗談は通じないらしい。

 掌で顔を覆い、髪を掻く。爪が頭皮を引っかき、汗と雨と消毒液の匂いが混じり合い、薄く青い匂いとなって鼻を刺す。


 扉が、ノック三回。乾いた音。

「……起きたか」

 俊兄(しゅんにい)

 ベッド柵が軋む。

「大丈夫か」

 短い問い。

「……夢を見ました。風吹(ふぶき)の」

「そうか」


 それ以上は何も付け加えられない沈黙が、シーツを重くする。心臓の拍動が点滴の滴とずれる。


「……あの迷子の子、どうなりました」

 自分の声が擦れて出た。


「昨日の騒ぎで、死者は出ていない」

 肺が深くひとつ、呼吸を取り戻す。胸の奥で固まっていた氷が、かすかに砕ける音がした。

 同時に、喉に引っかかりを覚えたが、正体が掴めない。


 それより迷子の少女に「大丈夫」と言った舌の感触が、乾いた木の粉のようにざらついてしまった。


 俊兄は俺の顔を一瞥して、眉をわずかに下げた。

「桜。調査から外れろ」


 喉が言葉を失う。


「……でも」


「今日は医者に診てもらって、家に帰れ。食って、寝ろ」

 刃物のように短い言葉だ。やわらかさがあるのに、逃げ場はない。


 俺は頷けなかった。頷けない重い首だけが、枕をさらに沈める。

 俊兄はそれ以上何も言わず、ベッド脇のテーブルにペットボトルを置いた。冷たい水が光を薄く揺らしている。


◆202X年6月10日午後2時15分

相川家浴室


 熱い水が頭を叩いた。皮膚の上で弾ける音が、火花みたいに白く散る。

 壁に手をつく。肩を落とすと、耳の奥で水が詰まり、遠くの声まで塞がれる。


 ──大丈夫。

 昨日、迷子の女の子にかけた言葉が喉の奥でぬめる。優しさのつもりだったはずの言葉は、戻ってきて腐った果実のように酸っぱく、苦く変色していた。


 風吹(ふぶき)にも同じ言葉を囁いた。春も夏も、希望(みらい)を見てほしかった。だが、その願いは、結局は約束を突きつける呪いになってしまった。


 水を止める。濡れた髪が首筋を冷やし、しずくが背を這い降りる。タオルを取る気力はなく、ただ水の線に身を委ねる。



 裸足で自室へ戻ると、木の床が冷たく水音を吸い込んだ。

 濡れた髪のままリモコンを押す。


『続いては、昨日富ノ森駅前で発生した通り魔事件です』

 アナウンサーの声が部屋に溶け、刃のように鼓膜を裂いた。


『警察によりますと、事件が起きたのは六月九日正午ごろ。富ノ森駅の駅構内と交差点付近で、通行中の男女あわせて二十七人が、何者かに刃物で切りつけられる被害に遭いました。

 いずれの被害者も命に別状はないとのことです。現場近くにいた人たちは「突然、周囲の人が倒れ血が流れたが、犯人らしき人物は見えなかった」と証言しています。

 現場の防犯カメラにも犯人の姿は映っておらず、凶器とみられる刃物も発見されていません。警察は通り魔事件として捜査を進めるとともに、市民に不要不急の外出を控えるよう呼びかけています』


 報道の一文一文が、胸の奥で黒い雨を降らせる。

 ベッドに倒れ込む。濡れた髪が枕に染みを作り、布の冷たさが皮膚に沈む。


 心のなかは、あの日から絶え間なく雨雲に覆われていた。陽は差さず、風景は墨を流したようににじみ、輪郭を失っていく。見えるものすべてが曇り硝子越しで、呼吸そのものが罰のように思えた。


 ──このまま眠って、二度と目を覚まさなければいい。


 瞼の重みに身を委ね、眼を閉じようとした瞬間だった。

 不意に、りん、と小さく風鈴が鳴った気がした。


 耳元を撫でる金属の薄い音が、湯気で曇ったガラスに指を這わせるように広がる。

 振り向くと、開け放したクローゼットの隙間から、濃紺のマフラーがふわりと覗いていた。雪の結晶の刺繍が、濡れた暗がりで白く震える。


 手が勝手に伸び、それを掬う。毛糸は温度を持っており、指先に柔らかな重みを残した。

 ありもしないはずの匂いが突き抜ける──古いシャンプー、微かな柑橘、それに消えかけた線香の残り香が混じって、胸の奥を叩いた。


 マフラーの端から、スマホがころりと転がり出た。

 落ちる音が胸を突き刺す。慌てて拾い上げ、画面をなぞる。保存されたままの動画が浮かび上がる。


 再生。

 彼女の声が流れた。笑い声。カメラに向けた輪郭の甘い笑顔——風吹の笑顔が頭蓋の裏で溶ける。映像が舌先で弾けて、涙が熱い塩になって頬を伝う。


『桜がいるから、がんばれるの。子供の時から、ずっと桜は私のヒーロー』


 その言葉が胸の奥で何度も反芻された。喉がぎゅっと締まり、息が細くなる。手のひらに残る毛糸の温度で、眠気が吹き飛ばされていった。


 涙が止めどなく流れ、視界が揺れて画面の光が水滴に砕け散る。袖で拭う。胸が震え、呼吸が速くなる。気づけばシャツを羽織り、ドアノブに手を掛けていた。


 止まっていられない。

 震える手で自分のスマホを握り直し、俊兄の番号を押す。

 迷いと記憶の砂嵐が視界を汚す。振り払うようにかぶりを振り発信ボタンをタップした。


「……いまどこですか」


 自分が何に突き動かされているのかは、わからなかった。

 ふと窓の外から視線を感じて振り返る。

 視認できないほどどこか遠くで、誰かが俺の顔を見て微笑(ほほえ)んだ気がした。

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