Fragment:相川 桜Ⅳ
──Side 蒼明大学 法学部法律学科 相川 桜──
◆202X年1月11日午前9時02分
都市の大学病院呼吸器科病棟
蛍光灯の光は、冬の空気をそのまま固めたみたいに白い。消毒液の匂いは無色じゃない。
ドアを開ける。
病室は白と銀ばかりの箱だった。壁に貼られた酸素流量計の針がかすかに震え、その振動音は氷がきしむ音に似ていた。
ベッドの上。
入院着は薄い水色で、白い肌をさらに透かして見せた。
黒髪は肩にかかり、光を吸ったまま重く垂れている。
瞳の奥に小さな灯が揺れ、唇は乾いてひび割れていた。
「……来てくれたんだ」
声は掠れていて、乾いた紙を擦ったときの音に近い。
俺の知っている彼女と比べて、少し痩せていた。
けれど、笑うと頬の奥から赤みが滲み、冬の日差しみたいにかすかに温度を返した。
「がんばるね。治すから……一緒に帰ろう」
差し出された手は細く冷たい。触れた瞬間、氷に触れたような感覚が走った。
それでも握り返す力は確かで、爪先にまで熱が流れ込むようだった。
「当たり前だろ。必ず治る」
俺は短く言った。声は乾いていた。
──帰りの電車。
スマホが震え、小さな通知音が冷えた空気を震わせた。
『今日はありがとう。来週も待ってるね』
文字は窓に張りついた白い息に重なり、すぐに曇って消えた。
◆202X年1月18日午前9時11分
都市の大学病院呼吸器科病棟
窓際に腰を掛けていた。
薄いカーテン越しの冬の光は色を失い、薬品の匂いが舌に苦みを残した。
入院着の襟から覗く鎖骨は鋭く浮き、黒髪は乾いた糸のように肩でほつれていた。
笑顔は小さいのに、頬の削げた影を一瞬だけやわらげる。
「これ」
俺はカバンから封筒を取り出し、差し出した。
少し震えた彼女の指先が、紙のざらつきを撫でる。
「……手紙?」
「そう。暇なときに読んでくれ。大したことは書いてないけど」
唇の端をゆるめて、彼女は頷いた。封を胸の前に抱える仕草は、少しだけ子どもみたいだった。
「今日も家に着いたら電話していい?」
「昨日もしたのに?」
「毎日、話したいんだよ」
彼女は小さく笑って、頷いた。
その笑みは、冬空の奥に差す微かな光のように、短く、それでも確かに温度を持っていた。
◆202X年1月25日午前9時18分
都市の大学病院呼吸器科病棟
病室の空気は乾いていて、咳の音が壁に小さな傷を残すみたいに響いていた。
入院着の袖口から伸びる手は細く、白すぎて、血の色が薄い。黒髪は枕に散らばり、湿った墨のにおいを連れていた。
「……これ、返事」
彼女が枕元の小机から封筒を取り出した。
白い指先は震え、紙が擦れる音は乾いて冷たかった。
「無理するなよ」
受け取った封筒は軽かった。文字よりも、そこに込められた時間の方が重い気がした。
昼になり、病院をあとにする。
電車の揺れに身を任せ、封を切った。
文字は大きく、ところどころかすれて滲んでいた。
『桜へ。手紙、ありがとう。読んでると時間が早く過ぎるみたいでうれしいです。病気のことは心配しないで。がんばって治します。』
筆圧は弱く、線は震えていた。
その震えを指でなぞると、喉の奥がざらついた。
◆202X年2月1日午前9時07分
都市の大学病院呼吸器科病棟
白と銀に塗りつぶされた箱の中。規則的な音が続いていた。
酸素が流れ込むたびにチューブがわずかに震え、その細い揺れが病室全体を冷たく満たしていた。
ベッドの上の彼女は、枕に沈むように横たわっていた。
「……桜」
掠れた声は酸素に混じって途切れ途切れだった。
それでも彼女は笑った。
「がんばるね。治すから」
細い指を握る。
骨ばって冷たく、すぐ抜け落ちそうだった。
「必ず治る」
言葉は乾いていた。それでも言うしかなかった。
◆202X年2月8日午前9時15分
都市の大学病院呼吸器科病棟
病室に入ると、空気がすぐに喉を刺した。消毒液の匂いが濃い。
俺が入ってきた物音に、彼女は薄く目を開ける。
唇は乾いて白く、言葉の形を作ろうとすると、すぐに途切れた。
「……きて、くれて……ありが──」
その先が咳に切り裂かれる。
俺は水差しを手渡し、彼女はゆっくりと口を湿らせる。
「無理するな」
そう言う俺の声の方が震えていた。
彼女は首を横に振り、かすかに笑った。
手を握る。骨ばった手は、薄紙のように軽かった。
温もりよりも、冷たさが際立っていた。
──帰りの電車。
座席に沈み込み、窓の外を見た。
街路樹の影が速く流れていくのに、胸の中の時間は止まっていた。
声を殺して泣いた。
目の奥で、思い出が沸騰して痛んだ。
周囲のざわめきは遠く、ただ心臓の鼓動と、雨の前の湿った匂いだけが耳の奥に響いていた。
◆202X年2月15日午前9時02分
都市の大学病院呼吸器科病棟
昨夜は、早く「おやすみ」を言った。それきり、メッセージは途切れた。
電話にもでなかった。画面の光は冷たく沈み、空気に溶けていった。
──嫌な予感は、当たった。
病室の前に立つと、胸の奥が凍りついた。
ドアを開けると、彼女の母親が椅子に腰を掛けていた。
赤く腫れた目。握る指は関節が浮き出るほど固かった。
「……桜くん」
声は小さく掠れていた。
「今日は、ごめんなさい。意識がなくて……」
カーテンの隙間から射す光が、ベッドを薄く照らしていた。
酸素マスクの下で彼女の顔は眠るように動かない。
黒髪は枕に広がり、唇は色を失って紙片のように白かった。
胸の上下はかすかで、音はどこにもなかった。俺は声を出せず、立ち尽くすしかなかった。
◆202X年2月22日午前9時09分
都市の大学病院呼吸器科病棟
ドアを開けた瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
ベッドの上の彼女は上体を起こし、窓の外を眺めていた。
酸素チューブはまだ頬にかかっていたけれど、瞳は澄んで、久しぶりに光を宿していた。
「……桜」
振り向いた笑顔は細い。けれど影の奥に、かすかな温度を取り戻していた。
病室に射し込む光は白く乾いていたが、彼女の頬だけは薄紅に染まって見えた。
黒髪は肩にかかり、光に揺れて見えた。
「今日は、少し楽なの」
声はまだ掠れていたが、言葉は最後まで届いた。
俺は椅子を引き寄せ、彼女の横に座る。
「来週も、この調子で頼むぞ」
「うん……また頑張る」
細い手が膝の上で揺れていた。
握ると、冷たいのに確かに力を返してきた。
──帰りの電車。
スマホに短いメッセージ。
『今日は顔を見て話せてうれしかった。また来週、待ってます』
文字はまだ弱々しいけれど、その行間に小さな呼吸の明るさがあった。
◆202X年3月1日午前9時12分
都市の大学病院呼吸器科病棟
病棟の廊下に入った瞬間、空気の重さが違っていた。
乾いた薬の匂いに混じって、どこか軽い春風の色があった。
ドアを開けると、彼女は背もたれに腰を起こし、頬に赤みを差していた。
黒髪は光を拾って柔らかく揺れ、唇には薄く色が戻っている。
先週までの影は消え、黒曜石のような瞳の奥は透きとおっていた。
「桜、おはよう」
声は掠れていなかった。
声は冬の紙のざらつきではなく、風鈴の音のように澄んでいた。
俺は言葉を失う。
ただ、その変化に見入ってしまった。
「今日は調子がいいんだ。先生にも言われたけど、このまま快方に向かうかもって」
胸が一気に熱くなった。
彼女の笑顔は、病室の白をやさしく染めていた。
「なあ……再来週になったら、桜を見に行こう」
言葉が自然に口を突いた。
「病院の近くで、よく見えるところ探しておくから。だから体調、整えておいてくれよ」
彼女はゆっくり頷いた。
「……うん。がんばる」
握った手は細いままだったが、その力は確かに戻っていた。
──帰りの電車。
窓の外を、冬の町並みが灰色に流れていく。
ポケットの中でスマホが震えた。
『今日はありがとう。桜の約束、すごく楽しみです』
短い一行が胸に差し込み、体の奥まであたたかくした。
指先に残る彼女の手の感触はまだ細かったけれど、その力は確かにあった。
車窓に映る自分の顔は、不意に笑っていた。
──春はすぐそこまで来ている。




