Fragment:相川 桜Ⅲ
──Side 蒼明大学 法学部法律学科 相川 桜──
◆202X年の前年12月24日
街路は赤と緑に滲み、冷たい空気が頬を刺した。吐いた息はすぐに白く固まり、商店街には子どもたちの笑い声と鈴の音が混じる。すれ違う人の肩に雪が残り、夜空の星は街灯に吸われて見えなかった。
彼女は俺の横で小さな紙袋を抱えていた。
「ケーキ、重くない?」
「……桜が半分持つ?」
からかうように笑ったその声は細く、それでも無理に明るく響いていた。
「私が、持ちたいの」
指先が白く冷たいのを見て、俺は彼女の片手をポケットに押し込み、そっと包んだ。
彼女は驚いたように目を見開き、やがて頬を染めて笑った。その笑みは、冬の光よりも温かかった。
◆
相川家の小さな居間。
テーブルの中央に置いたホールケーキにろうそくを灯す。
吹き消した瞬間、部屋は闇に沈み、揺れる残光が彼女の頬を紅く染めた。
暗闇で囁かれた「メリークリスマス」は、鈴を弾いたように震えていた。
「おいしいね」
彼女は小さく咳をしてから、無理に笑った。
壊さないように、俺も「うまいな」と答えた。
口の端についたクリームを指で拭うと、彼女はくすぐったそうに笑い、また咳をひとつこぼした。
笑い声と咳の音が同じ部屋に残り、白に混じる灰色が胸を締めつけた。
その夜、彼女は「クリスマスプレゼント」と言ってマフラーを差し出した。
深い紺色の毛糸に、小さな雪の結晶が刺繍されている。
「手作りじゃないよ。買ったやつ。でも……私のヒーローに似合うと思った」
久しぶりに聞いて胸が高鳴ったのは気のせいじゃない。
毛糸には冬の風と淡いシャンプーの香りが溶けていた。
「ありがとう」
それしか言えなかった。彼女は首を振り、「私こそ」と小さな声で答えた。
俺からも包みを差し出すと、彼女は目を丸くし、小さな笑みをこぼした。
リボンを解く指は細く、爪が淡く青みを帯びていた。
中から現れたのは──桜色のカシミア手袋。
「外、寒いだろ。いつも手が冷たいからさ」
そう言って彼女の手を取る。細くて氷のように冷たい指。
その手に一つずつ手袋をはめると、カシミアは冬の空気を吸って温もりに変わった。
両手を覆われた彼女は、子どものように指を開いたり閉じたりしてみせた。
その仕草は無邪気で、どこか儚くて、俺の胸を強く締めつけた。
両手を覆われた彼女は、子どものように指を開いたり閉じたりしてみせる。
無邪気で、儚くて、胸を締めつける仕草だった。
「……あったかい」
目を細めて笑う頬に紅がさし、冬の白に灯火のように浮かんだ。
◆
こたつで肩を並べる。
外からはまだクリスマスソングが微かに流れていた。
眠りかけた彼女が囁く。
「来年も、再来年も……一緒にクリスマス、過ごせるかな」
それは願いではなく祈りだった。
俺は肩を抱き寄せ、「もちろん」と答える。
同時に胸の奥を針が刺した。
窓の外では粉雪が舞い始めていた。
彼女は白い吐息を散らし、安堵するように眠りに落ちた。
髪に手を置く。軽すぎる重みが、涙を呼んだ。
──絶対に。来年も。一緒に。
◆202X年の前年12月31日
大晦日の夜。
こたつに入り、年越しそばを並んで啜った。
出汁の香りが部屋を満たし、遠くで除夜の鐘が震えていた。
「来年も、また一緒に」
彼女が小さく呟いた。
俺は強く頷き、あえて「その先も」と短く返した。
不安を押し込める音が自分にだけ聞こえた。
零時。テレビに花火が映し出される。
彼女は掌を合わせるようにして「おめでとう」と笑った。
その笑顔は火薬の光より鮮やかに胸に焼きついた。
「おめでとう」
言葉を返すだけで涙腺の奥がきしむほど熱かった。
布団に潜ったあとも、彼女は眠ろうとしなかった。
「まだ寝たくない……」
鈴のように細い声。
俺は答えられず、手を握った。
氷のように冷たい手が必死に温もりを探すように指を絡めてきた。
──この夜が終わらなければいいのに。
◆202X年1月1日
正月の朝。
「着物を着たい」と言い張り、袖を通した。
淡い紅の小紋。
雪明かりのような肌の上で、その紅はかえって儚さを際立たせていた。
帯は薄い金色で、光をやわらかく反射していた。
髪は低く結われ、椿の簪が揺れて冷たい音を奏でる。
薄い化粧の匂いに、雑煮の湯気が混じる。
甘いのに塩辛く、鮮やかなのに霞む匂いだった。
「似合う?」
首を傾げた笑みは遠くを見ているようでもあった。
「世界一」
俺は本気でそう答えた。
◆202X年1月5日
見送りの朝。
街路の霜が光を撒き散らしていた。
玄関先には鞄と段ボールが積まれ、ガムテープの音が乾いた冬空気に響く。
彼女の両親は努めて明るい声を出していたが、その裏の影を俺は聞き取った。
俺は紺色のマフラーを巻き、彼女は桜色のカシミア手袋をはめて立っていた。
白い頬、かすかに色を失った唇。
震える指先をカシミアが覆っていた。
「……ねえ桜」
掠れた声。
「帰ってきたらさ──」
「それは帰ってきてから聞かせてくれよ」
喉が詰まり、笑うしかなかった。
「帰ってくるんだろ」
「……うん」
彼女は頷いた。睫毛の先に光が宿り、すぐ涙に変わった。
「見舞い、毎週行くから」
「……言ったよ?」
「手紙書くから。毎日電話するから──」
「……うん」
「毎日、電話して。毎週、会いに行くから」
「……うん」
「ずっと待ってるから。絶対治るから」
「……うん」
針で縫い止めるように、頷きと返事が重なっていった。
不安を隠すやさしさが、その奥にあった。
◆
車のドアが閉まった。
その音が胸を突き刺す。
助手席の窓が下り、彼女が身を乗り出して手を差し伸べる。
迷う余地はなかった。俺は走ってその手を掴んだ。
握った手は冷たく、それでも蜜のような温度が混じっていた。
指先の震えは小さな鐘の音になり、掌は命のささやきで満たされた。
風が二人を撫で、吐息が白い紙片のように舞った。
エンジンの振動が低く横たわり、車はゆっくりと前へ引き寄せられる。
最初はほんのわずか、車体が震えるだけだった。タイヤが霜を踏む音が、遠い鼓のように一拍、二拍と伝わる。世界が緩やかに引き延ばされる——時間が糸を引くように伸びて、あらゆる瞬間が厚く濃くなった。
彼女の手首がかすかに引かれる。必死で力を込めるが、指と指の間から少しずつ隙間が広がる──氷が溶けるみたいに、静かに、確実に。
柔らかな摩擦が、滑りへと変わる。指先の先端で、糸が解ける音が聞こえた気がした——。
彼女は身を乗り出して、必死に手を差し伸べる。指と指がかろうじて絡み合う。
その絡みが、少しずつほどけていく。
そして──温度の連なりが、音もなく、切れた。
「待ってるから!」
息を殺すように叫ぶ。
言葉は白い霧になり、車の後ろ姿にまとわりついて冬に溶ける。
車は遠ざかる。
彼女の姿が縮んでいく。
肺に冷たい空気が流れ込み、胸が裂けるように痛んだ。
足元の霜が砕け、音が耳を刺す。
無意識に走り出していた。
──まだ行くな。まだここにいろ。
心の奥で叫んでも、車は止まらない。
「絶対! 絶対治るから! 大丈夫!」
声がかれても叫ぶ。
遠ざかる彼女に届くよう、腕がちぎれるほど大きく振った。
彼女も窓から手を振った。
冬空の中で、小さな炎のように揺れていた。
やがて車は視界から消えた。
それでも走り続けた。
凍る空気に肺が軋み、腕が痺れても止まれなかった。
空から雪混じりの雨が落ちた。
掌に触れた冷たさは、もう触れられない未来の欠片みたいで胸を切り裂いた。
声は出なかった。
ただ心の奥で叫び続けた。
──待ってる。毎週会いに行く。必ず治る。
──帰ってこい。必ず。
冬の灰色の空が涙で歪む。
霜に濡れた地面に落ちる自分の影は震え、揺れ、千切れそうに滲んでいた。
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